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「完全バカ話」のあとに残ったもの

 前回、「完全バカ話」系を書かなくなった理由について書きました。

 簡単に言えば、自分の中で守っていたつもりの線を、他人が私の看板を使い踏み越えられたと感じた出来事があったからです。

 それ以来、単独作品としての「完全バカ話」を、以前と同じ気持ちで書くことが難しくなりました。

 ただ、ここは誤解されたくないので、最初にはっきり書いておきます。

 私は、二次創作そのものを否定しているわけではありません。

 誰かの作品を好きになり、その世界や人物を借りて、自分なりの解釈を形にしたいと思うこと。
 作品に触発されて、別の物語を書きたくなること。
 好きだからこそ、自分の言葉で何かを返したくなること。

 そういう気持ち自体を、私は否定しません。

 二次創作には二次創作の楽しさがあると思いますし、そこに敬意や愛着があるなら、それは創作のひとつの形だとも思っています。

 問題は、そこではありません。

 私が引っかかったのは、他人の名前を借りながら、その人間が何を書いてきたのか、何を守ろうとしてきたのか、どこに線を引いてきたのかを見ないまま、自分の書きたいものを通してしまうことです。

 私の作品には、くだらない冗談もあります。
 物騒な比喩もあります。
 阪神ネタもあります。
 334もあります。
 明石のバーサーカーもあります。
 人民法廷もあります。

 そういう「完全バカ話」の部分だけを見れば、たしかに私は好き放題やっているように見えるかもしれません。

 けれど、それは「何でも笑っていい」という意味ではありません。

 自分の痛みを自分で笑うことと、他人の痛みを踏み台にして笑うことは違います。
 自分の看板で書くことと、他人の看板の下で好き勝手に書くことも違います。

 私が怒ったのは、「二次創作されたから」ではありません。

 私の看板を使いながら、私が守ってきたつもりの線を踏まれたと感じたからです。
 私の名前を使い、私の作風の一部を借りながら、その奥にあるものを読まれなかった。
 あるいは、読んだうえで軽く扱われた。

 そう感じたことが、かなり堪えました。

 それ以来、私はこう思うようになりました。

 結局、自分の「完全バカ話」の部分だけが読まれていたのではないか。
 その裏側にあるものは、見られていなかったのではないか。
 自分が自分を笑っただけのものを、誰かが他人を踏むための道具にしてしまうのではないか。

 そう考えると、以前のような気持ちで「完全バカ話」を単独作品として出すことができなくなりました。

 けれど、それでも私は書いています。

 なぜ書くのか。

 高尚な理由はありません。

「創作とはこうあるべきだ」などと語れるほど、私は体系的な理論を持っていません。
 立派な文学論もありません。
 商業作家としての展望もありません。
 きれいな創作動機も、たぶんありません。

 あるのは、ただ「何かを書きたい」という衝動だけです。

 阪神の勝敗に一喜一憂し、カフェインとニコチンと胃薬に頼り、AIに狂気を吹き込み、登場人物に無計画と矛盾を投げつけながら、それでも原稿用紙の前に戻ってくる。

 たぶん、それが私の創作です。

 私は、「お花畑で踊る作家」ではありません。

 どちらかと言えば、「塹壕で無様にのたうち回る作家」です。

 泥まみれで、格好悪くて、時々自分でも何を書いているのか分からなくなりながら、それでも書く。
 そして、どうしようもなくなったら、なぜか六甲おろしを歌う。

 その程度のものです。

 けれど、私にとってはそれで十分です。

 承認欲求がないとは言いません。
 読まれれば嬉しいです。
 反応があればありがたいです。
 注目されれば、そりゃ少しは浮かれます。

 ただ、それが目的のすべてではありません。

 評価されるために書いているというより、書かないと自分の中で処理できないものがあるから書いている。
 怒りも、情けなさも、笑いも、記録も、全部その中にあります。

 だから私は、自分の創作を「狂気」と呼ぶことがあります。
 ただし、その狂気は、誰かを踏むためのものではありません。

 他人の傷を娯楽にするためのものでもありません。
 属性を笑いものにするためのものでもありません。
 死を軽く扱うためのものでもありません。

 私の狂気は、私自身を燃料にするものです。

 自分の矛盾。
 自分の未熟さ。
 自分の情けなさ。
 自分の怒り。
 自分の見てきた現場。
 自分の中で、どうしても見なかったことにできなかったもの。

 それを、自分の責任で言葉にするためのものです。

 だから、私はたぶん、これからも「完全バカ話」を以前と同じ形では書けません。

 しかし、バカな話を完全に捨てるつもりもありません。

 真面目な話の中に、しょうもない冗談が混じることはあるでしょう。
 重たい話の途中で、急に阪神ネタが顔を出すこともあるでしょう。
 深刻な創作論を語っていたはずなのに、最後には「我ながら厨二病全開やな」と自分でツッコむこともあるでしょう。

 それでいいと思っています。

 それが、たぶん今の私に残った形です。

 笑いを捨てるのではない。
 線を忘れないまま、笑う。

 狂気を捨てるのではない。
 誰かを踏まないように、自分を燃やす。

 看板を軽くするのではない。
 その看板の下に何があるのかを、自分で引き受ける。

 もう一度書きます。

 私は、二次創作そのものを否定しているわけではありません。
 否定しているのは、他人の名前を借りながら、その人間の文脈を読まないことです。
 他人の看板を掲げながら、その看板の下にある痛みや線引きを無視することです。
 そして、他人の作風を借りておきながら、自分の責任を薄めることです。

 書くなら、自分の足で立つ。
 借りるなら、借りたものの重さを知る。
 笑うなら、何を笑っていないのかを忘れない。

 不純な動機でもいい。
 不器用な方法でもいい。
 みっともない書き方でもいい。
 野良作家の遠吠えでもいい。

 遠吠えもまた、歌です。

 ただし、その歌が誰かの傷を踏まないように。
 自分の塹壕から、自分の声で。

 私は、これからも書いていきます。

 ……まあ、ここまで書いておいて何ですが。

 我ながら、相変わらず面倒くさい作家ですね。

2件のコメント

  • 詳しくは書きませんが、私もかつて似たような経験あります。「なにをしてもいい」となぜか勝手に判断されるんですよね。尊厳を踏みにじる行為に等しいと思います。
  •  コメントありがとうございます。
     コメント欄ということですのでもう少し踏み込ませていただきます。
     正直、この時は「こんな読まれ方しかされないなら筆を折る」とまで思いました。
     その後、相手側が謝罪文を出したこと自体は把握しています。
     ただ、その翌日に「謝罪文を出したことで自分が嫌われるのではないかと泣いた」、「周囲から慰められた」という流れになった時、私の中ではかなりきついものがありました。
     傷つけられた側の痛みより、謝った側のつらさが中心に置かれているように見えたからです。
     そのような状況になれば、こちらが何を言おうが無駄でしょう。

     ただ、「長い。要点だけを一言で言え」と言われれば、この一言です。

    「ふざけるな!」
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