第48話 幼き指導者

 南方軍集団がウクライナの黒土に刻み込んだ完璧な勝利は、ベルリンを越え、遠く離れた東プロイセンの深い森に隠された総統大本営『ヴォルフスシャンツェ(狼の巣)』の奥深くにまで届いていた。

 だがそれは、帝国に希望をもたらす特効薬ではなく、これ以上ないほど甘美で、そして致命的な「劇薬」として作用することになる。

 東プロイセン……ラステンブルクの鬱蒼たる森。

 陽光すら容易には通さない古き樹海のただ中に、その巨大なコンクリートの獣群は息を潜めていた。

 上空からの偵察を欺くために張り巡らされた巨大な迷彩ネットと、屋根の上にまで植林された偽装用の樹木。

 外壁の厚さが数メートルにも及ぶ規格外の鉄筋コンクリートの要塞群は、国家元首の司令部というよりは、暗殺の恐怖に怯える小心者の誇大妄想狂が自らを閉じ込めるために建造した『巨大な墓標』であった。

 じめじめとした松の腐葉土の匂いと、雨を吸い込んだ苔の青臭さ。

 そこへ、分厚い防空壕の内部から漏れ出す、冷たく無機質なコンクリートの臭気と、換気ダクトが吐き出すカビと淀んだ湿気の入り混じった空気がねっとりと絡みつく。


 昼夜を問わず稼働し続ける大型発電機の低い重低音が、絶えず大地を微かに震わせ、そこに駐留する者たちの神経を少しずつ、しかし確実に削り取っていた。

 何重にも設けられた検問と、重々しい鋼鉄の気密扉を抜けた先にある地下作戦会議室。

 外の気候など一切感じさせない閉鎖空間の中では、天井から吊るされた燻んだ黄色い電球の光が、高級なタバコと酸味の強い汗の混ざり合った淀んだ空気を薄暗く照らし出していた。


 部屋の中央に鎮座する巨大な樫の木の作戦机。 

 そこに広げられたウクライナの広大な戦況図を見下ろしながら、一人の男が醜い全能感に満ちた甲高い笑い声を上げていた。

「見たか! 誰も彼もが我が軍の右翼は脆弱だ、ソ連軍の物量には抗いきれんと泣き言を言っていたが、結果はどうだ!」

 仕立ての狂いがないはずの総統の軍服に身を包みながらも、その男の立ち振る舞いには、かつてのカリスマが持っていた底知れぬ威厳や、狂気と表裏一体の天才性は欠片も存在しない。


 過度な興奮からせわしなく机を叩くその姿は、まるで大穴を当てた三流のギャンブラーのように矮小で滑稽に見える。


 彼の手元には、最前線から届けられた一部の報告書が、興奮によってくしゃくしゃに握りしめられている。

 それは、第199独立特務戦車大隊のシュミット少佐が、バルベンコヴォ北方でソ連軍数十万の退路を完全に断ち切り、歴史的な殲滅戦を成立させたという、ホト上級大将からの戦果報告であった。

「とにかく一歩も引かずに、戦車を突撃させる! これだ! 臆病風に吹かれず、俺の言う通りに前進したから勝てたのだ!」

 

 シュミットが現場で行った緻密極まる機動演算や、極限まで待機した冷徹な伏撃戦術など、この軍事の素人は報告書から一行たりとも読み取れてはいなかった。


 ただ『前進して敵を撃破した』という結果だけを切り取り、己の妄想の補強に使っているのだ。

「全ては俺の、この深遠なる軍略の通りではないか! 素晴らしい! とにかく、この将軍……シュミット少佐に直ちに勲章を与えよ!」

 少佐を将軍と呼び、階級すらろくに把握していないその言葉に、居並ぶ将軍たちが微かに眉をひそめる。


 だが、彼らが正論を口にするより早く、総統の影のように付き従っていた男が一歩前に出た。

「総統閣下。誠に恐れながら……シュミット少佐はつい先日、閣下より直々に柏葉付き騎士鉄十字章を受勲したばかりでございます」


 党官房長マルティン・ボルマンが、将軍たちを牽制するように勿体ぶった態度で、ねっとりとした声を響かせる。

「ならば、中佐への特例昇進はいかがでしょうか。総統閣下の比類なき軍略をいち早く体現した英雄には、それに相応しい地位が必要かと存じます」

「おお、そうか! よし、今日だ。今日付けで彼を中佐に昇進させよ!」


 自らの無知に気付く事なく、手柄として声高に誇示する『偽物』の甲高い声が、コンクリートの壁に反響し、不快なノイズとなって室内に響き渡る。

 前線で血を流すこともなく、ただ安全な地下壕で喚き散らすだけのこの男によって、帝国の厳格な階級や人事すらもが、幼児の玩具のように軽々しく扱われていく。

 その光景を無言で見つめる将軍たちの背筋に、帝国が確実に破滅へと向かっているという、冷たい絶望だけが流れていた。

 

 彼らの眼は死んだ魚のように濁り、背筋には冷たい泥水を流し込まれるようなおぞましさが走っていた。

(……狂人め。前線の将兵がどれほどの血を流し、シュミット少佐ら現場の指揮官がどれほど精緻な演算を行ったのか、想像すらできんのか)


 将軍たちの胸の奥で、目の前で喚き散らす男への底知れぬ憎悪と軽蔑が渦巻く。

 だが、ごく一部の同志を除いて、この場にいる大半の将軍たちは、玉座に座るこの男が『中身のすり替わった偽物』であることにまでは気がついていなかった。

 彼らはただ、かつて自分たちを導いた天才的なカリスマが、誇大妄想に憑りつかれたただの無能に成り下がってしまったのだと絶望しているだけだった。


 今回の勝利は、決して総統の指導力などによるものではない。

 前線で泥と硝煙に塗れた兵士たちの血の代償と、不条理な命令の隙間を縫って機動した現場の指揮官たちの『奇跡』によってもたらされたものだ。

 しかし、誰もそれを口に出すことはできない。

 玉座をすり替わったこの無知な幼児は、自らの『万能の錯覚』を確信してしまった。

 前線がもたらした完璧すぎる勝利という結果こそが、皮肉にも偽物の傲慢さに絶対的な保証を与えてしまったのだ。

 分厚いコンクリートの壁に囲まれた狼の巣の中で、大ドイツ帝国の破滅を加速させる恐るべき誤算が、今まさに決定的なものとなろうとしていた。


 その浅薄な歓喜の声を背に受けながら、陸軍参謀総長フランツ・ハルダー上級大将は、背筋に冷たい蟲入りの泥水を流し込まれるようなおぞましさを感じていた。

(……狂人め。早く……早くなんとかせねば……)

 ハルダーの胸の奥で、かつて同志たちと密室で共有した『偽物』への底知れぬ憎悪が渦巻く。

 あの夜、シュタウフェンベルク少佐が吐き捨てた言葉は全くもって正しかった。


 この男は国家指導者などではない。

 兵站という絶対的な数を無視し、ただ感情でものを言う「狂った幼児」だ。


 かつて本物のヒトラーが持っていた、狂気と表裏一体の軍事的な天才性など、この偽物にはあろうはずもない。

 ただ、前線の優秀な指揮官たちが血を流してもたらした「勝利」という結果だけが、神輿に乗った素人の傲慢さを際限なく加速させているのだ。

(フランスを降した時には、確かに我らが総統閣下は比類なき天才であられた……アウトバーンを敷き詰め、ドイツ国民を絶望から救ったあの英雄は、一体どこへ行ってしまったのだ……)


 真実(すり替え)を知らない大半の将軍たちは、かつてのカリスマの喪失にただ戸惑い、深い絶望しか感じていなかった。

 彼らが重苦しい沈黙と無力感に沈む中、この場にいるマルティン・ボルマン、ヘルマン・ゲーリング、そしてヨーゼフ・ゲッベルス――玉座の狂人を取り巻き、権力を貪る党の重鎮たちだけが、己の地位の安泰を確かめ合うようにただ満足げな、そして醜悪な笑みを浮かべていた。


「臆病な将軍どもの戦術論など、もはや聞く必要はない。この勢いのまま、南方のブラウ作戦(青作戦)の準備を急がせろ!」

 偽総統は、指揮棒の先端で地図上のウクライナからコーカサスへ向けて、傲慢な弧を描いた。

 コンクリートの壁に反響するその声は、戦況を冷静に分析する司令官のそれではなく、盤面すべてを支配していると錯覚した子供の玩具遊びのようだった。


「目標はコーカサスの巨大な油田、そしてボルガ川の要衝スターリングラードだ! 同時に手中に収め、その足でモスクワをも落としてやる……ボリシェヴィキの息の根を、今度こそ完全に止めてやるのだ!」

 その言葉を聞いた瞬間、作戦会議室の空気が完全に凍りついた。


 本来であれば戦力を一点に集中し、突破口を抉じ開けるべき広大な戦線において、兵站という概念を理解しない軍事の素人が、自らの抱く『万能の錯覚』に突き動かされていく。

 しかしながら、誰一人として異を唱える者はいない。


 ここで軍事的な正論を述べて反対したところで、待っているのは「敗北主義者」の烙印と、冷酷な罷免だけなのだ。

 もし自分たちが指揮権を奪われれば、空いたポストにはヒムラーやボルマンの息のかかった無能な将軍が据えられ、前線の将兵たちがさらなる無駄死にを強いられることになる。

 だからこそ将軍たちは、奥歯を噛み砕かんばかりの絶望を腹の底に飲み込み、沈黙による服従を示すしかなかった。


(二方面作戦の同時遂行、そしてスターリングラードを落としたその足で再びモスクワへ……? 物理的に不可能だ……兵站線はどうなる?……)

 将軍たちの内心に、深い絶望が走る。


 これは軍事作戦ではない。

 大ドイツ第三帝国という名の巨大な国家を、凍てつくロシアの泥濘の底へと突き落とすための、破滅的なカウントダウンであった。

 スターリングラードを占領した後にモスクワを蹂躙するという、あまりに愚劣で非現実的な軍略。

 それは軍事の常識を遥かに逸脱した妄想であり、帝国という巨大な国家が、内側から決定的に崩壊へと向かい始めた兆候そのものであった。


 一方、その狂気の熱源から南へ数百キロ離れたクリミア半島。

 そこでは、ドイツ陸軍屈指の冷徹な頭脳を持つ男、エーリヒ・フォン・マンシュタイン大将率いる第11軍が、泥と血に塗れた死闘の末に圧倒的な大勝利を収めていた。


 ケルチ半島でソ連軍の反攻を完全に粉砕し、難攻不落の要塞都市セヴァストポリへの総攻撃の準備を整えつつあるという急報は、ドイツ国内を熱狂の渦に巻き込んだ。

 しかし、この戦史に刻まれるべき大戦果すらも、大本営の奇妙な歪みを正すことには繋がらなかった。

 むしろ、この頃から総統大本営の空気は、目に見えて異常に変質し始めていた。


 カツカツと、無機質な靴音を響かせて慇懃無礼に振る舞う男――党官房長マルティン・ボルマン。

 彼はバルバロッサ作戦(ソビエト連邦侵攻)以前、まだ『本物』が健在であった頃は、その圧倒的な威圧感の影に隠れて怯える小心者でしかなかった。


 しかし今は違う。

 まるでこの総統大本営の主であるかのように尊大に振る舞い、総統の周囲に誰も近づけない強固な障壁を築きつつあったのだ。


「総統閣下は現在、戦略の構想に深く没頭されておいでです。前線の細々とした状況報告などは、この私が預かる」

 ボルマンの油ぎった笑顔と冷淡な拒絶の前に、歴戦の将軍たちは誰もが総統の部屋の扉の前で立ち往生を余儀なくされた。


 理由は極めて単純だった。

 偽総統が、将軍たちの理路整然とした戦術講釈や、補給の不足を訴える陰鬱な顔に、完全に「飽きた」のである。


 本物の総統であれば、激論を交わし、あるいは怒声を浴びせてでも意見を戦わせようとしただろう。

 本物の総統は電撃戦や近代兵器を、誰よりも理解しようとしていたのだ。

 だが、中身の伴わない偽物は、自らの無知が露呈することを恐れ、ボルマンという都合の良い盾の裏へと引きこもることを選んだのだ。

 こうして、前線の真実はボルマンという歪んだフィルターによって遮断され、大本営は「総統の望む都合の良い幻影」だけが流通する、閉ざされた精神の檻へと変貌していった。


 この大本営の機能不全を、好機として冷酷に利用している男がいる。

 親衛隊全国指導者、ハインリヒ・ヒムラーである。

 冷たい、生気のないガラス玉のような瞳をしたこの男は、偽総統の引きこもりと軍部への無関心をこれ幸いと、漆黒の帝国――SS(親衛隊)の戦力拡大に狂ったように執念を燃やしていた。

 国防軍の将軍たちが前線で血を流している間にも、ヒムラーはJu52輸送機を駆って東部戦線の広大な後方地域を精力的に飛び回っていた。


「国防軍に頼る時代は終わる。これからは我が親衛隊こそが、総統(自分の操り人形)の真の盾となり、東方の新たな秩序を支配するのだ」

 親衛隊の師団(武装SS)は次々と戦車・突撃砲を増強され、重装備化していく。

 帝国の屋台骨は、国防軍の知らないところで、じわじわと不気味な黒い菌糸に侵食されていた。

 

 将軍たちが密室で危惧した通り、三人の黒幕たちは、陸軍を自滅させて帝国を乗っ取るという恐るべき計画を着実に推し進めていたのだ。

 そんな血と硝煙が混じり合う東部戦線の片隅。

 泥濘がようやく乾き始めた最前線の検証部隊に、ある『異形の鉄』が送り込まれていた。


 Maschinenkarabiner 42(H)――通称MKb42(H)

 後のStG44……MP44である。


 ヘーネル社が開発し、天才銃器設計者フーゴ・シュマイザーの手によって生み出された試作全自動火器である。

 前線の特務部隊に配備されたその銃身は、当時のどの武器とも似ていなかった。

 カチャリ、と硬質なボルトの閉鎖音が響く。

 レシーバーはプレス加工で無骨に成形され、装弾数三十発のバナナ型マガジンが不気味な存在感を放っている。

 使用するのは、ドイツ軍主力ライフルKar98k……通常のライフル弾7.92×57mmマウザー弾の薬莢を短縮した、新型の7.92×33mmクルツ(短)弾であった。

 実戦テストに投入されたこの銃は、現場の兵士たちの戦闘概念を根底から覆した。


「おい、こいつは化け物か……!」

 塹壕の中で試射した、歩兵戦の全てを知るベテランの曹長が、驚愕に目を見開く。

 従来のサブマシンガン(MP40)では到底届かない三百メートル以上の距離にいるソ連兵を、ライフルのような正確さで精密に撃ち抜く。

 それでいて、ソ連軍の集団が近距離の遭遇戦で突撃を仕掛けてきた際には、セレクターを切り替えるだけで、重機関銃にも劣らない圧倒的なフルオートの火力を叩きつけることができる。

 さらに、マガジン(予備弾倉)の交換は瞬時に行うことが出来た。

 マシンガンの圧倒的な制圧力と、ボルトアクションライフルの長い交戦距離。

 その二つをわずか五キロに満たない鋼鉄の塊に凝縮したこの兵器は、まさに歩兵戦闘の歴史を文字通り一変させる、のちのグローバルスタンダードとなる『アサルトライフル(突撃銃)』の直系にして原初のライフルであった。


 前線からは「ただちに全軍へ大量配備されたし」という、現場の悲鳴にも似た絶賛の報告書が届けられ始めた。

 しかしながら、大本営の奥深くに引きこもる偽総統に、そんな歴史的な軍事的価値が理解できるわけもなかった。

「何だこれは。新型の弾薬だと? 補給線が混乱していると言っているのはお前達では無いのか?これ以上弾の種類を増やしてどうする。今のKar98kとMP40があれば十分だ。このような玩具の開発はすべて後回しにしろ」


 その決定を知った陸軍兵器局の将校たちは頭を抱え、深い絶望に打ち震えた。

(なぜだ……既存の全歩兵火器をこれ一丁に置き換えても余りあるほどの、歴史的傑作だというのに……! 現場の将兵も血を吐くような思いで配備を渇望しているのに、なぜ総統閣下はこの価値がお分かりにならないのだ!)

 

 かつて彼らを導いた、あの天才的な直感と軍事的眼力を持つ本物のヒトラーであれば、この銃の軍事的価値を一瞬で見抜き、数ヶ月に渡り、国力を傾けてでも直ちに全軍への配備を命じていたかもしれない。

 しかし、無知な偽物によって世界を揺るがす歴史的傑作ライフルは、埃をかぶるファイルへと追いやられてしまったのである。

 

 偽総統の驕り、ボルマンの隠蔽、ヒムラーの暗躍、そして現場の切り捨て…………。

 輝かしい勝利の裏側で、確実に破滅の深淵へと滑り落ちていく大ドイツ第三帝国。


 しかしながら、あの日、カナリス提督の別邸で交わされた血の盟約が、ついに具体的な輪郭を持ち始めていた。

 目標は、偽物を操り、この第三帝国を内側から食い荒らす「三巨頭」のうちの一人。

 RSHA(国家保安本部)長官であり、チェコ総督代行を務める『金髪の野獣』――ラインハルト・ハイドリヒ。

 鉄と血の爆音に包まれたウクライナの平原を越え、物語の舞台は、最も暗く、最も冷徹な『暗殺計画』の胎動へと、静かに傾き始めていくのであった。

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残影の戦車兵 うなぎかご @unagikago

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