第47話 計算しやすい方程式

 ウクライナの分厚い黒土(チェルノーゼム)が、幅広の履帯によってどす黒く反り返り、無惨に引き裂かれていく。

 七十両の黒鋼の獣たちは、自らがわずか五十八秒で作り上げた『T-34の残骸』を容赦なく蹂躙しながら、南へ向かって猛然と前進を開始していた。

 アイドリングから一気に回転数を上げたマイバッハ製HL120TRMエンジンの咆哮が、戦場に響き渡る。

 車内に充満する硝煙と汗の匂いは、いまだ冷めやらぬ殺戮の余韻であった。

 しかし、指揮官であるハインリヒ・シュミット少佐の脳内に、勝利の熱狂など微塵も存在しなかった。


「……敵の敗走ベクトルは南南東。ドネツ川方面への合流を目指しているな」

 大隊長車のキューポラからカール・ツァイス製の双眼鏡を覗き込み、シュミットは平坦な声で呟いた。

 彼の網膜には、土煙を上げて逃げ惑う数万のソ連兵が、『流体』として映っていた。

 恐怖という重力に引かれ、抵抗の少ない低地へと無秩序に流れ込む赤の流体。

(計算のしやすい変数だ……)


 シュミットの演算領域は、すでに次のフェーズへと移行していた。

 この流体をどこへ誘導し、どの座標で完全に蒸発させるか。

「バウアー、地上連絡将校の周波数へ割り込め」

 シュミットはヘッドホンを押し当てる通信手のバウアー軍曹に指示を飛ばした。


 無線手バウアーのヘッドホンから漏れる、ひどくノイズの混じった交信音。 

「バウアー、地上連絡将校経由で第四航空軍団の爆撃機隊へ要請を送れ。目標座標、イジューム南西の街道筋。我が大隊の前進軸に対し、東側五キロのラインに沿ってSC250(二五〇キロ爆弾)の壁を構築せよ。敵の東進を物理的に遮断し、バルベンコヴォの底へ流し込む、とな」


 無線手のバウアー軍曹が素早く機器を操作し、前線の上空を飛ぶ連絡機へと電波を飛ばす。

 しかし数秒後、ヘッドホンを耳に押し当てていたバウアーの顔に焦燥の色が浮かんだ。

「っ……少佐殿! 空軍の連絡将校からです。『第四機航空軍団より返答。指定座標にはまだ味方の歩兵が到達しておらず、敵の対空砲火が極めて濃密です! 未制圧エリアへの突入は被害が――』とのことです!」

「高空からで良い……ここが決め手だ」

 

 砲手のベルガーは、一切の感情を交えず、氷のような声でバウアーへと言い放ったシュミットの言葉を密かに反芻していた。

「高度三千からの水平爆撃でいいと伝えろ。精度は不要だ。必要なのは『東へ逃げれば空から死が降ってくる』という絶対的な恐怖だけだ。連中の進行方向は、抵抗の少ない南へ向かえばそれで構わん」


 その時、大隊の通信網に、突如として強力な電波が割り込んできた。

 ザーッという激しい空電ノイズを引き裂き、不敵な笑みを含んだ野太い声が響き渡る。

『――こちら、StG 2(第2急降下爆撃航空団)“インメルマン”、第II飛行隊! 状況は了解した』


 最前線で数々の戦果を挙げてきたエースたちの航空団からの直接の応答に、車内のクラインやバウアーが息を呑む。

『いい目を持ってるな、陸軍さん。特等席で楽しんでくれ。……死ぬなよ。オーバー』


 通信が途切れてから数分後。

 初夏の青空を巨大な影が覆い尽くした。

 双発のエンジン音を重々しく轟かせながら飛来したのは、機首全体が温室のようなガラス張りで覆われたドイツ空軍の主力双発爆撃機、ハインケルHe111の編隊であった。

 StG 2が、『シュミットのわがまま』を航空指揮系統へ回して、水平爆撃隊を呼んだのだろうと気がついて、バウアーが一人クスリと笑う。


 高度三千メートル。

 対空砲火の弾幕を掻き分けるように進む巨大な機体の腹部から、無数の黒い点がウクライナの大地へと投下される。


 さらに、その爆撃機群の直下を切り裂くように、悪魔の咆哮が木霊した。

 逆ガル翼の無骨なシルエットを持つ、ユンカースJu87Dの群れである。

 『ジェリコのラッパ』と呼ばれる風力サイレンが、絶望的な悲鳴のような音を立てて急降下していく。

 空の死神たちは、対空砲火を嘲笑うかのように急角度で地表へと肉薄し、その凶悪な機首を引き起こすと同時に強烈な火力を解き放った。


 ズドドドドドォォォォンッ!!!


 地平線の彼方で、重力に引かれた爆弾の雨が次々と炸裂し、巨大な土柱と赤黒い火柱が数十メートルも連続して立ち上がった。

 He111の水平爆撃は、シュミットの指示通り精度こそ粗かったが、それが逆に広範囲の『死の壁』として機能した。

 そこに、急降下してきたユンカースの群れが、濃密な爆炎と圧倒的な恐怖をピンポイントで上塗りして地獄を作り出していく。

 大地が激しく痙攣し、凄まじい爆風が数キロ離れたシュミットたちのIV号戦車F2型を大きく揺さぶった。


 シュミットの計算通りであった。

 パニックに陥り、東の味方陣地へ逃げ込もうとしていたソ連軍の歩兵や車両は、眼前に突如として現れた巨大な爆発の壁に恐れをなした。

 東へ進めば、文字通り空から理不尽な死が降ってくる。

 恐怖に駆られた彼らは、唯一攻撃を受けておらず、安全に見える方向――すなわち南のバルベンコヴォ方面へと、雪崩を打って無秩序に進路を変えた。

「エアステ・ファーゼ(第一段階)完了だ」

 双眼鏡を下ろし、土煙の向こうで蠢く赤い軍勢の波を見つめながら、シュミットは平坦な声で告げた。

「見ろクライン。ネズミどもは自ら、袋の底へと向かっている」

「……少佐殿の頭の中には、戦場を上から見下ろす神の地図でも入っているんですか」


 副官のクライン中尉は、額から流れ落ちる脂汗を乱暴に拭いながら、呆れたような、そして底知れぬ畏怖を抱いたような声で呟いた。

「空軍の爆撃機を、敵を追い込むための防壁に使うとは……」

「ただの流体力学だ」

 狂気の沙汰を目の当たりにしている部下をよそに、シュミットは微かに口角を上げた。

「流路を狭めれば、圧力は高まり、一箇所に飽和する。我々はそこへ、重い蓋をするだけだ」


 同時刻…………戦場から遥か後方に位置する、第四装甲軍司令部。

 作戦地図が広げられた薄暗いテントの中で、司令官のヘルマン・ホト上級大将は、通信将校から手渡された一枚の暗号電文を見つめ、葉巻の煙を深く吐き出した。

『本大隊はこれよりバルベンコヴォまで進出する。空軍および砲兵部隊に連絡し、ソ連軍退路である突出部の根元――イジューム周辺を攻撃されたし。発、第199独立特務戦車大隊長・シュミット』


「……閣下。これは明らかな越権行為です」

 傍らに立つ参謀長が、眉をひそめて進言した。

「一個の戦車大隊が、軍団を飛び越えて空軍と砲兵の統合運用を要求するなど前代未聞です。しかもバルベンコヴォへの単独進出など、突出部のさらに奥深くに孤立する自殺行為に他ならない。直ちに停止命令を――」


「待て……」

 ホトは低く重い声で参謀を制し、作戦地図の上に置かれた赤い駒(ソ連軍)と青い駒(ドイツ軍)の配置をじっと見つめた。

 イジューム突出部という巨大な瘤(こぶ)の中に、七十六万という途方もない数のソ連軍が入り込んでいる。

 南方からは、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将率いる第一装甲軍が、この瘤を根元から切り落とすべく北上を開始していた。

 もし、このタイミングで突出部の北側から、強力な装甲部隊が楔のように打ち込まれ、バルベンコヴォで南からのクライスト軍と握手を交わしたとしたら。

「……なるほど。そういうことか、ハインリヒ」

 ホトの口から、歓喜にも似た低い笑い声が漏れた。

「閣下?」

「見ろ。シュミットの奴は、単なる追撃を行っているのではない。自らの大隊を『楔』として機能させ、逃げ惑うソ連軍をバルベンコヴォの袋小路へと意図的に追い込んでいるのだ。空軍の爆撃ラインも、砲兵への要請も、俺が事前に許可してある。それにしても……。これはすべて敵をその『殺戮の檻』へ集約させるための緻密な計算だ。……他の全兵力をも、まるで盤上の駒のように俯瞰してな……。援軍を送れ、早くしろ!ヤツの計算に乗り遅れるな」


 ホトは手にした指揮棒で、バルベンコヴォの座標を強く叩いた。

「この作戦が完成すれば、ソ連軍数十万の退路は完全に断たれ、歴史的な大包囲網(ケッセル)が完成する。たった一個大隊の機動が、我が軍集団全体の戦略的勝利を決定づけるのだ」

 驚愕に目を見開く参謀たちをよそに、ホトは深く椅子に腰掛けた。

(……お前という男は、どこまで計算しているのだ……)


 ベルリンでの暗殺計画を共有する同志として、ホトはシュミットの恐るべき才能に戦慄すら覚えていた。

 この男は今、数十万の命が消える戦争という盤面すらも、方程式として計算しているのだ。


「全砲兵部隊に通達!イジューム周辺へトロンメルフォイア(弾幕射撃)!とにかく撃ち続けろ!」

 バルベンコヴォ北方・ドネツ川支流付近。

 初夏の陽射しが西へ傾き、戦場が血のようなオレンジ色に染まり始めた頃。

 シュミット大隊はついに、空軍と砲兵の壁によって強制的に誘導されたソ連軍の『飽和点』へと到達した。

 そこは、まさに地獄の底であった。

 泥濘んだ街道と、破壊された橋の前に、数万のソ連歩兵、馬車、トラック、そして生き残りの戦車が身動きもとれずにひしめき合っていた。

 

 そしてその未曾有の混乱を、冷静に見つめる蛇のように、シュミットの七十両のF2型が、長砲身を低く構えて死神の列のごとく横隊を展開している。

「大隊各車、目標は前方に密集する敵群全体。敵は極限まで圧縮され、回避行動は不可能となっている」

 インターコム越しに響くシュミットの声は、どこまでも透き通るように冷ややかであった。

「これよりエントファーゼ(最終工程)に移行する。使用弾種を徹甲榴弾から榴弾(スプレング・グラナーテ)へ変更。信管は瞬発。距離一五〇〇。密集度の高い座標から順に、面制圧を行う。……刈り取れ」


「「「フォイアー!!」」」


 各中隊長たちの絶叫と共に、七十門の43口径7.5cm砲が、一斉に殺戮の火を噴いた。

 放たれた榴弾が、密集するソ連兵の頭上で、あるいは馬車の群れのど真ん中で次々と炸裂する。 

 凄まじい爆風と、音速を超える無数の鉄片が、人間という柔らかい肉体を容赦なく引き裂き、吹き飛ばしていく。

「撃て!撃て!弾が尽きるまで神の裁きを下せ!」

 『槍』である第一中隊長のハルト少尉が、狂気に満ちた笑い声を上げながら次々と榴弾を放つ。


「逃げ場はないぞ。無駄弾は撃つな、車両のエンジンブロックを狙って完全に動きを止めろ」

 『盾』のシュタイン少尉は、冷静に敵のトラックを狙撃し、炎上させてさらなる障害物を構築していく。

「ヒャッハー!まるで射撃場だな!第三中隊、右翼に回り込んで十字砲火を浴びせろ!」

 グリム少尉が変則的な機動で敵の側面を塞ぎ、最後の退路を完全に断ち切る。


「各車、オーバーヒートに注意しろ。機材トラブルで攻撃を止めるな!」

 シュナイダー大尉が部隊全体を冷静にフォローし、圧倒的な火力の網をより緻密なものへと編み上げていった。


 反撃など、もはや成立するはずがなかった。

 ソ連兵たちはパニックに陥り、味方同士で踏みつけ合いながらドネツ川の濁流へと飛び込んでいくが、対岸に辿り着く前に力尽き、動かない肉となって下流へと流されていった。


 空からはJu87シュトゥーカが急降下し、砲兵のトロンメルフォイアー(弾幕射撃)が逃げ惑う者たちを粉々に掘り返す。

 そして地上からは、シュミット大隊の放つ榴弾の雨が降り注いでいた。

 

 それは戦闘ではなく、純粋な物理法則に基づく『方程式の解』であった。


 ――――日没。

 ウクライナの空を、どす黒い煙が完全に覆い隠していた。

 シュミット大隊の前方に広がっていた数万のソ連軍は、肉と鉄の破片と化して消え去っていた。

 残されているのは、見渡す限りの死体と、燃え盛る残骸、そして泥に塗れた赤旗だけである。


 大隊は一両の損失も出すことなく、バルベンコヴォ北方の制圧を完了していた。

 南の空には、クライスト第一装甲軍が放った合図の照明弾が、青白く、そして美しく打ち上がっている。

「……包囲網は完成しました、大隊長殿」

 血の匂いに噎せ返りながら、クライン中尉がキューポラから身を乗り出して報告した。


 彼の声には、自らが行った殺戮への畏怖と、この無傷の勝利をもたらした指揮官への狂信的なまでの敬意が入り混じっていた。


「ああ。解は導き出された」

 シュミットは双眼鏡を下ろし、燃え盛る地平線を見つめた。

 数万の命を奪い、戦場のすべてを支配したというのに、彼の青い瞳には何の感情も浮かんでいない。


(……これもまた、ただの通過点に過ぎない)

 硝煙の匂いの中で、彼はベルリンに残してきた妻・リーゼロッテの顔と、親友クラウスとの誓いを思い出していた。

 すべては、祖国を狂わせる『玉座の狂人』の命を断ち切るために……。

 死神の大鎌は血を吸って、さらに鋭く……さらに冷たく……研ぎ澄まされていくのであった。

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