第7話 悪女の誘惑

 夏の陽射しが容赦なく照りつける七月、横浜の街は逃げ場のない熱気で満ちていた。アスファルトから立ち上る陽炎の中、聖園凛華は大学のキャンパスを歩きながら、ショートカットの黒髪を湿った風に軽く揺らし、鋭い目つきで周囲を睨みつけた。


 かつての近寄りがたい「拒絶」のオーラは、今や他者の視線を絡め取るような「妖しい魅力」へと変貌を遂げていた。純潔という名の堅牢な壁を自ら爆破した凛華は、悪女としてさらなる進化を遂げている。


 二股という危うい秘密のバランスを保ち、翔と明彦という正反対の愛を独占する生活に、表面的には満足していた。しかし、満たされれば満たされるほど、心の奥底ではさらなる「他者の承認」と「略奪」への渇望が、毒草のように根を広げていた。


(あの夜、寝取られた瞬間の傷が、私をここまで作り替えた……)


 恵美になりたいわけではない。ただ、あの女が私に味わわせた屈辱を、他の誰かに味合わせることでしか、自分の価値を確認できない。恵美を超えたい――その執念が、男を籠絡する手口を研ぎ澄ませていく。


 凛華は鏡の前で、自らの紅い唇に指を這わせ、妖しく微笑んだ。純潔を捨てた体は、もはや神聖な神殿ではなく、標的を仕留めるための冷徹な武器。


(孤独という底なしの恐怖が、いつの間にか貪欲な捕食欲に変わっていたわ。他の女の大切な男を寝取る瞬間、その絶頂こそが、私の新しいハッピーエンドなの)


 しかし、その一方で凛華の心には、明彦に対する「純粋な好意」という名の聖域が依然として存在していた。彼と過ごす時間は、嘘で塗り固められた日常の中で唯一、彼女が「聖園凛華」として呼吸できる瞬間でもあった。


 彼の天使のような優しさに触れるたび、荒んだ胸の奥が温かくなるのは紛れもない本心だ。だが、今の凛華はその純粋な愛をそのまま享受することさえ、一つの背徳的なゲームとして楽しむようになっていた。


(明彦、あなたのことは本当に大切よ。あなたの隣にいる時だけ、私は救われている。……でも、そんなあなたを裏切りながら、別の場所で男を跪かせている自分に、どうしようもなく酔いしれてしまうの。汚れた私を、あなたが知らないところでさらに汚していく……この背徳感こそが、私を強くするのよ)


 明彦への依存的な好意と、彼を完璧に欺いているという支配欲、そして自分自身への酔い。その矛盾した感情のグラデーションこそが、現在の凛華を突き動かすエネルギーとなっていた。


 凛華の次なる標的は、医学部の同級生たちのボーイフレンドや恋人たちへと向けられた。恵美が翔に見せた悪魔的な手口をトレースしつつ、凛華はそこに彼女特有の「冷徹な知性」を組み込み、より悪賢く、計算高く行動した。ターゲットは、心優しいがゆえに隙のある女子学生の彼氏。まずは、その幸福な円の内側に亀裂を入れることから始める。


 凛華の心理は氷のように冷え切っていた。(あの子たちの幸せを壊す?ええ、構わないわ。私が必死に守り、そして無惨に奪われたものを、彼女たちは当然のように享受している。それは不公平だと思わない?嫉妬?いいえ、これは征服よ。恵美のように媚びて縋るだけじゃない。私は、より高潔な顔をして彼らを堕落させる)


 ある日、凛華は最初の標的として、医学部二年生の佐々木健太を定めた。彼は凛華の同級生である林美香の彼氏であり、学部内でも誠実を絵に描いたような好青年として知られていた。凛華はサークルの飲み会という、理性が緩む場を利用して彼に近づいた。薄暗いバーのカウンター。凛華は健太の隣に滑り込み、重厚なグラスを傾けながら、熱を帯びた瞳で微笑んだ。


「佐々木くん、いつも美香ちゃんと仲良さそうで……少し、羨ましいわ」


 凛華の声は湿り気を帯びて甘く、かつて人を射抜いた鋭い目は、今は誘い込むように柔らかく細められる。健太は戸惑いを見せたが、凛華の強烈な視線の磁力に抗えず、引き込まれていった。


 凛華はさらに距離を詰め、熱を持った指先で健太の腕を、まるで羽毛でなぞるように軽く触れた。触れ合った場所から広がる熱が、凛華自身の心拍も早めていく。かつての拒絶反応は消え失せ、今は積極的に肉体を寄せていくことに愉悦を感じていた。健太の心理が目に見えて揺らぎ始める。(この視線、この距離感……美香の彼氏なのに、どうしてこんなに心臓がうるさいんだ……?)


 凛華は彼の耳元に、熱い吐息と共に囁きを落とした。「美香ちゃんは優しくて素敵だけど……少し、退屈じゃないかしら?私なら、あなたがまだ知らない『刺激的な世界』を、教えてあげられるわよ」


 指先が健太の首筋を官能的に這い、凛華の唇がその耳たぶに微かに触れる。健太の肩が大きく震え、呼吸が乱れ始めた。凛華はさらに大胆に、テーブルの下で膝を彼の太ももに押しつけ、柔らかな胸の感触を腕に押し当てる。彼女が纏う重厚で官能的な香りが健太を包囲し、彼の堅牢だった理性が砂の城のように溶けていく。


 凛華の心は、歪んだ興奮で満たされていた。


(この感触……男を意のままに籠絡する快感。恵美より私の方が、ずっと「質」が良いわ。純潔なんて、私を縛り付けていただけの不要な重荷だったのね)


 凛華の指は健太のシャツの襟元に忍び込み、剥き出しの肌を直接撫で上げた。ゆっくりと、痛くない程度に爪を立てて引っ掻き、敏感な首筋に湿った息を吹きかける。健太の体温が急上昇し、下半身が露骨に反応するのを感じ取ると、凛華は内心で激しく嘲笑った。


(男なんて、結局はこんなもの。少しの刺激で、愛の誓いなんて簡単に忘れてしまう)


 恵美の技巧を凌駕するよう、腰を微かにくねらせ、太ももの内側を執拗に彼の膝に擦りつける。健太の息はもはや喘ぎに近く、手が無意識に凛華の細い腰に回るのを、彼女は寛大に許した。凛華は唇を健太の首筋に押し当て、舌先で優しく、挑発的に舐め上げる。


 甘い唾液の感触が健太の肌を濡らし、さらなる震えを誘う。凛華の「悪女」としての技巧は、ここで頂点に達していた。媚びるふりをして相手の欲求を無限に煽り、最後には自分の奴隷として支配する。


(恵美がただの誘惑者なら、私は相手のプライドと心を折り、私なしでは生きていけなくする破壊者よ)


 健太の瞳が完全に蕩け、凛華という毒に侵される瞬間を、彼女は冷徹に、そして愉しげに観察していた。


 飲み会が引けた後、凛華は健太を誘い、近くのホテルへと向かった。部屋のドアが閉まるなり、二人は激しく体を重ねた。凛華の手が健太のシャツを強引に剥ぎ取り、その唇が彼の全身を貪るように這い回る。健太の、理性を失った喘ぎ声が部屋に響き渡る。


「凛華……っ、こんなこと、ダメだ……美香に……」


 言い訳のような言葉を、凛華は激しい接吻で塞いだ。腰をくねらせ、健太の肉体を自らの支配下に置き換えていく。肌が擦れ合い、熱い息が酸素を奪い合う。凛華の体は業火のように熱く、健太を完全なる虜へと作り替えた。行為のあと、凛華は汗ばんだ健太の耳元で、冷ややかに囁いた。


「美香ちゃんには、死んでも内緒よ。これは、私たちだけの……秘密の共犯関係なんだから」


 健太はただ力なく頷き、凛華の底知れない魅力の淵に沈んでいった。美香への罪悪感という棘があっても、一度知ってしまった凛華の体温を、もはや脳が忘れることを拒んでいた。凛華の心は、かつてない達成感で満たされていた。(この征服感。次は、誰を壊してあげようかしら。恵美のレベルなんて、もう疾うの昔に超えてしまったわね)


 凛華の略奪行は、留まることを知らなかった。次は別の女子学生の恋人、工学部の田中浩を罠にかけた。図書館の静謐な空気の中で彼に近づき、勉強を教えるふりをして密着し、指を絡め、視線だけで彼を脱がす。浩の心理は、凛華の放つ圧倒的な「圧」の前に瞬く間に崩壊した。


(この女の目は、私のすべてを見透かして、喰らい尽くそうとしている……)


 彼女の指使い、呼吸の置き方は、恵美よりも遥かに巧妙で、逃げ場を塞ぐ。凛華は浩の首元に執拗なキスマークを刻み込み、耳元で甘く、冷酷に囁く。


「彼女の子供っぽい愛じゃ、満足できないでしょう?私なら、あなたのドロドロした欲望も、全部受け止めてあげるわ」


 浩は抵抗する術を持たず、凛華という深い沼に溺れていった。凛華の心はさらに昏く、鋭く輝きを増す。


(この快感、もう止められない。恵美を超えた。私は、この街の欲望の女王よ)


 しかし、この無軌道な「略奪」は、凛華の周囲に不穏な波紋を広げ始めていた。美咲は凛華の豹変に、もはや怒りを通り越した戦慄を覚えていた。親友として、彼女の二股を知った時も動揺したが、今や学内に広まる「寝取り女」としての噂は、彼女の心を粉々に打ち砕いた。美咲の心理は、耐え難い憤怒と深い悲嘆に引き裂かれていた。


(凛華、どうして……どうしてこんな怪物になってしまったの?あの、潔癖なまでに純粋だった凛華が、他人の幸せを壊して回る悪女になるなんて……!)


 美咲は悠真に縋り、震える声で訴えた。


「凛華を止めなきゃ……このままじゃ、彼女自身も壊れてしまうわ!」


 悠真もまた、底知れない絶望の中にいた。かつて愛した女性の「高潔さ」を信じていたのに、今、目の前にいるのは他人の男を喰らう亡者だ。悠真の心は、暗く、重い後悔に沈んでいた。


(ぼくが彼女を裏切ったからか。ぼくたちの破局が、彼女の中の何かを決定的に壊してしまったんだ……)


 美咲と二人で凛華を止める術を模索するが、突きつけられるのは無力感という現実だけだった。


 凛華の現在の「公式な」恋人の一人である明彦もまた、彼女の変貌に言いようのない困惑を抱いていた。凛華の瞳が、時折、鏡のように冷たく無機質になるのが気にかかる。明彦の心は、絶え間ない不安に苛まれていた。


(聖園さんは、何かを隠している。僕を愛してくれているはずなのに、その笑顔の裏側に、触れてはいけない真っ黒な闇が見えるんだ……)


 二股の実態、誠実な翔をも騙している事実、そして繰り返される略奪行為を知らない明彦は、それでも彼女への疑念を拭い去れずにいた。「聖園さん、何か隠し事をしていないかい?」と問いかけても、凛華はただ、射抜くような笑みで煙に巻く。


(ああ、明彦。そんなに純粋な目で見ないで。あなたのその優しさを裏切りながら、別の男を膝まずかせている今の私こそが、本当の私なのよ……。でも、そうやってあなたを欺いている自分に酔いしれることでしか、私はもう自分を支えられないの。ごめんなさい、そして……ありがとう)


 明彦への依存的な愛情と、その信頼を裏切る快感。凛華はその極彩色の矛盾の中に、自らのアイデンティティを見出していた。


 一方、もう一人の恋人である翔は、自らが凛華に「裏切られている」という事実に直面し、激しい混乱の中にいた。自分を恵美から奪い返したはずの凛華が、今や他の男たちと……。


 翔は、凛華への当てつけと、自分の中の空虚を埋めるために、かつての女である恵美へと連絡を取った。「恵美、会いたいんだ」恵美はその誘いを、勝ち誇ったような喜びで受け入れたが、彼女の心理もまた、ズタズタに引き裂かれていた。悔しさと、わずかな希望。


(凛華に一度は完敗したけれど、翔が戻ってくるなら……。でも、彼の目の中にまだ凛華が住み着いているのが分かる。それが、死ぬほど悔しい!)


 翔との再会。恵美は一時的に希望の光を見たが、翔の口から漏れるのは、凛華の近況や噂ばかりだった。恵美は悟った。翔は今、この腕の中にいながら、心は凛華という呪縛に囚われたままだと。恵美の心に、底なしの暗い闇が広がっていった。


 そして、恵美はついに自殺未遂という極端な行動に走った。翔との再会を経てもなお、凛華の圧倒的な「悪女」としての成功と、自らの「敗北」を突きつけられ、絶望が臨界点を超えたのだ。


 恵美の心は、文字通り砕け散っていた。(純潔を盾にしていたあの女が、私以上の悪女になって、すべてを奪っていった。明彦も、翔の心も……。私は、ただの使い捨ての玩具だったの?)


 過去の失恋の記憶が濁流となって押し寄せ、凛華という存在が、自分の「女としての無価値さ」を強調する鏡のように立ちはだかる。


(私は負け犬。誰からも、本当の意味で愛されない……)


 恵美は屋上で大量の薬を煽り、意識を失った。本気で死ぬ勇気はなかったのかもしれない。ただ、この心を引き裂くような痛みから、一時でも逃避したかったのだ。


 病院の白いベッドで目覚めた恵美は、駆けつけた翔に縋り付いた。だが、翔の目には哀れみこそあれ、かつての情熱は灯っていなかった。この事件はすぐに凛華の耳にも入った。


 一瞬、彼女の眉根がピクリと動いた。それは、かつての「友」に対する微かな動揺だったのか。しかし、彼女はすぐにそれを冷笑で塗り潰した。(この連鎖を終わらせるのは、私よ。悪女として、この世界の頂点に立つまで、立ち止まりはしない)


 世界はキミを待っている――かつて誰かが囁いたその言葉を、凛華は心の中で激しく嘲笑った。


「待つんじゃない。奪い、踏みにじるのよ」


 悪女の誘惑は、もはや誰にも止められない。凛華が歩む足跡には、引き裂かれた愛と、絶望の影がどこまでも深く伸びていった。

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「💞聖園凛華の極端な日常」友人に恋人を寝取られ、純潔の盾を壊したあの日、私は悪女として再生する。 ⚓フランク ✥ ロイド⚓ @betaas864

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