第6話 純潔の向こう側

 梅雨の雨が窓ガラスを叩く六月、御茶ノ水の大学キャンパスは湿った空気に包まれていた。聖園凛華は講義室の後ろの席で、ノートを取る手を止め、ぼんやりと外を眺めていた。


 ショートカットの黒髪が耳にかかり、鋭い目つきは少し柔らかくなっていたが、近寄りがたいオーラはまだ残っていた。凛華の心の中では、翔の裏切りと明彦の優しさが交錯し、毎日のように嵐が吹き荒れていた。


 あの寝取られの夜から、胸の痛みが消えない。恵美の笑顔が頭に浮かぶたび、吐き気がする。でも、明彦の声がそれを和らげてくれる。変わりたいのに、変われない。この葛藤が、凛華を苦しめ続けていた。


 純潔を守ることで自分を定義してきたのに、今はそれが枷のように感じる。恵美のように自由に愛を与えられたら、翔は離れなかったかも。嫉妬が、復讐心に変わり始めていた。あの女に勝ちたい。翔を取り戻したい。そして、明彦の優しさも失いたくない。


 二人とも、私のものに……。そんな貪欲な思いが、心の奥で芽生え始めていた。純潔を捨てたら、私は怪物になる?でも、怪物でもいい。孤独よりましだ。凛華は鏡の前で、自分の瞳を見つめ、決意を固めていた。変わるなら、徹底的に。誰も傷つけないよう、秘密を操って。


 翔との破局後、凛華は明彦との時間を増やした。飯田橋のカフェで会うのが習慣になり、明彦の天使のような優しさが、凛華の傷を少しずつ癒していった。明彦は恵美との関係を完全に断ち、凛華に専念した。


 寝取られの連鎖――恵美が翔を寝取り、凛華が明彦を寝取った形――が、二人の絆を複雑にしていた。凛華は明彦の手に触れる瞬間、翔の裏切りがフラッシュバックし、体が震える。


 でも、明彦の視線が温かく、凛華を包む。初めて、キスを想像しても、汚らわしいと思わなくなった。これは進歩なのか。それとも、凛華マインドの崩壊なのか。凛華は鏡の前で自分に問いかけた。


 純潔を失ったら、自分は何になるのだろう。でも、このままでは誰も残らないかもしれない。鏡に映る自分の瞳が、以前より鋭く輝いている気がした。変わるなら、徹底的に。恵美を超える女になる。秘密を武器に、二人の男を繋ぎ止める。それが、私の勝ち方。


「聖園さん、今日も一緒に勉強しない?」


 カフェの席で、明彦が穏やかに声をかけた。彼の眼差しはいつも優しく、凛華の緊張を溶かすようだった。凛華は仏頂面で頷きつつ、内心で喜びを感じていた。この人がいるだけで、少し強くなれる気がする。でも、恵美の影がまだ付きまとう。


 あの女は今も翔と……。想像するだけで、嫉妬の炎が燃え上がる。明彦の優しさが、凛華の心を癒す一方で、翔への未練を刺激する。二人とも欲しい。この欲求が、罪悪感を生むが、凛華はそれを振り払った。純潔を捨てた今、ルールなんてない。明彦には、翔のことを絶対に知られてはいけない。翔にも、明彦の存在を隠す。秘密の二股。それで、すべてを手に入れる。


 一方、恵美は翔との関係を深めていた。サークル合宿後の二人は、頻繁に会うようになり、恵美の悪魔的な魅力が翔を虜にしていた。ある夜、恵美の部屋で、二人は再び体を重ねた。恵美のロングヘアが翔の胸に落ち、甘い息が部屋に満ちる。


「翔くん、凛華のこと、もう忘れた?私の方がいいでしょ?」


 恵美の言葉に、翔は罪悪感を抑え、恵美の唇を奪った。恵美の指が翔の背中を這い、熱い夜が続く。事後、恵美は満足げに微笑んだ。


「明彦も、凛華に取られたみたいね。面白いわ、この連鎖」


 翔は心の中で、凛華の顔を思い浮かべ、後悔の念に苛まれた。でも、恵美の体温がそれを忘れさせる。翔の心理は複雑だった。凛華の拒絶が傷つけた心を、恵美の温かさが埋めてくれた。でも、心のどこかで、凛華の鋭い視線が恋しい。恵美は楽しいけど、凛華のような深みがない。後悔が、時折胸を締め付ける。恵美を本気で愛せているのか?疑問が、翔の心を蝕む。


 恵美の心もまた、揺れていた。翔を誘惑したのは、単なる遊び心からだったが、明彦を失った今、孤独が忍び寄る。あの天使のような男を、凛華に奪われた。嫉妬?まさか。でも、凛華の存在が気にかかる。


あの子、変わったわね。純潔の壁が崩れかかってる。恵美は鏡の前で自分の笑顔を確かめ、強がった。私は負けない。翔は私のもの。明彦を失った悔しさを、翔で埋めようとするが、心の隙間は埋まらない。凛華への敵意が、徐々に増大する。あの子に、勝ち誇らせない。


 凛華はそんな事を知らず、明彦とのデートを楽しもうとしていた。横浜の赤レンガ倉庫――悠真との思い出の場所――で、明彦と散歩する。雨上がりの空気が清々しく、凛華の心も少し軽くなった。


「明彦、ありがとう。あなたがいなかったら、私……壊れてたかも」


 明彦は優しく手を差し伸べ、凛華は初めて、それを握った。温かさが胸に広がる。これは、愛なのか。凛華の「凛華マインド」が、静かに軋む音を立てた。触れるのが、怖くない。変わっている、自分自身が。


 明彦の心理は純粋だった。凛華の傷を癒したい。それだけ。恵美の奔放さに疲れ、凛華の頑なさが新鮮に感じる。でも、凛華の目が時折遠くを見るのが気になる。彼女の本心は、どこにあるのだろう。明彦は、凛華の変化を喜びつつ、微かな不安を抱いていた。この関係は、本物か?


 しかし、平穏は長く続かなかった。恵美が凛華に接触してきた。大学のカフェテリアで、恵美はニコリと笑いながら近づく。


「凛華ちゃん、明彦とどう?翔くんは今、私のものよ」


 恵美の言葉が、凛華の心を抉った。寝取られの記憶が蘇り、胸が痛む。あの夜、翔が恵美に抱かれた想像が、鮮やかになる。恵美の心理は優位を確信していた。凛華を刺激して、反応を楽しむ。負け犬の遠吠えを見たい。


「あんたみたいな女に、翔を汚された……」


 凛華は声を震わせ、恵美を睨んだ。恵美は目を細め、囁いた。


「あなたが与えられなかったからよ。純潔なんて、ただの言い訳でしょ?」


 凛華の拳が握られ、嫉妬と怒りが爆発した。


「黙れ!あんたのせいで、すべてが……」


 二人は口論になり、周囲の視線が集まる。凛華の心は燃えていた。あの女の言葉が、正鵠を射ているからこそ、痛い。純潔は言い訳だったかも。でも、今は違う。私は変わる。翔を取り戻す。そして、明彦も。二人とも、私のものに。悪女?いいわ。それで勝てるなら。口論の最中、凛華は恵美の弱さを見抜いた。あの目は、孤独を隠している。


 その夜、凛華は明彦に恵美の挑発についてだけを話した。翔を取り戻す計画は、秘密に。ベッドで膝を抱え、涙を流す凛華を、明彦は優しく抱きしめた。


「聖園さん、僕が守るよ。君のペースでいい」


 凛華は明彦の胸に顔を埋め、初めてのキスを許した。唇が触れ、凛華の心に温かな光が差す。これは、汚らわしくない。愛を与えられる。凛華の壁が、ついに崩れ始めた。


 でも、寝取られの傷はまだ癒えず、恵美への復讐心が芽生える。あの女に、報いを受けさせたい。明彦に翔のことを黙っておく。秘密の二股。それが、私の勝ち方。明彦の優しさに甘えつつ、凛華は罪悪感を抑えた。彼を傷つけないよう、翔のことは絶対にバレない。


 数日後、凛華は恵美を呼び出した。大学の屋上、雨上がりの空の下で、二人は対峙した。恵美はいつもの妖しい笑みを浮かべ、凛華を見下ろすように言った。


「ふふ、凛華ちゃん。とうとう私に勝負を挑むの?翔くんはもう私の体を知り尽くしてるわよ」


 恵美の心は余裕だった。凛華なんて、純潔の殻に閉じこもったまま。勝てるはずがない。でも、どこかで不安がよぎる。あの子、変わった目をしてる。


 凛華は冷たく睨み返した。かつての自分なら、こんな言葉に震えていただろう。でも今は違う。


「翔を返して。あんたはただ、私の弱さを突いただけ。純潔を守ることに囚われて、彼に何も与えられなかった。でも、もう違う」


 恵美は笑い声を上げた。


「遅いわよ。翔くんは私を選んだの」


 凛華は一歩踏み出し、恵美の頬を平手で打った。鋭い音が屋上に響く。恵美の目が驚きに見開かれる。恵美の心理が崩れる。痛い……。でも、それ以上に、凛華の目が怖い。あの子、悪魔みたい。負けたくないのに、体が震える。


 凛華は続けて言った。「それは、翔のためじゃない。あんたに、私がもう弱くないって証明するためよ」


 恵美は頬を押さえ、初めて動揺した表情を見せた。凛華は恵美のスマホを奪い、翔を呼び出した。翔が屋上に現れたとき、凛華は静かに彼を見つめた。


「翔……ごめん。私が冷たかったから、あなたは恵美に流された。でも、もう私は変わった。あなたを失いたくない」


 翔は戸惑いながらも、凛華の真剣な目に引き込まれた。翔の心が揺らぐ。凛華のこの目、昔の冷たさがない。恵美は楽しいけど、凛華の深みが恋しい。後悔が、胸を突く。恵美の視線を感じつつ、翔は凛華を選んだ。


「凛華……俺も、お前を失いたくない」


 恵美は唇を噛み、屋上を去った。彼女の背中は、初めて小さく見えた。恵美の心は砕けていた。負けた……。凛華に。純潔の女が、こんなに強くなるなんて。嫉妬と悔しさが、胸を焼く。翔を失った今、孤独が襲う。明彦も、凛華のものか。恵美は涙を堪え、復讐を誓った。でも、今は力がない。


 凛華は翔を取り戻した。でも、明彦のことを秘密にし、翔にも明彦の存在を隠した。二股の始まり。凛華の心は興奮と罪悪感で満ちていた。翔の温かさ、明彦の優しさ。二つとも、私のもの。純潔を捨てた私は、悪女。でも、それが心地いい。孤独から解放された気がする。


 翔とのデートを楽しみつつ、明彦との時間を別で確保。秘密が、バレないよう細心の注意を払う。凛華は自分の変化に酔っていた。悪女として、生きる。誰も知らない、私の勝利。


 明彦にも、翔のことを黙っていた。カフェで会うたび、凛華は明彦の優しさに甘え、翔との時間を隠す。明彦の心理は穏やかだった。凛華が幸せならいい。でも、彼女の目が時折遠くを見るのが気になる。秘密がある?明彦は疑い始めていたが、凛華の笑顔に騙される。彼女を信じたい。


 翔も、恵美との別れを凛華に感謝しつつ、凛華の変化に戸惑う。凛華、優しくなった。でも、時折冷たい目が戻るのはなぜ?翔は知らず、凛華の二股に巻き込まれていた。翔の心は、凛華の変化を喜びつつ、不安を抱く。恵美の影が消えない。


 しかし、秘密は長く続かなかった。ある日、美咲と悠真が、凛華の二股を偶然知る。横浜の街で、凛華が翔と手を繋いでいるのを美咲が見つけ、報告。次に、明彦とのデートを悠真が目撃。二人は凛華を問い詰める。


 カフェで、四人が対峙した。美咲は心配と怒りで声を震わせる。


「凛華、どういうこと?明彦くんと翔くん、二人とも?二股なんて……」


 美咲の心は混乱していた。親友の凛華が、こんなに変わるなんて。心配だけど、失望も。凛華の変化を応援してきたのに、二股?裏切りみたい。美咲は涙ぐみ、凛華を見つめる。悠真は複雑だった。凛華の元彼として、彼女の成長を応援していたのに、二股?天然の自分でも、傷つく。凛華の目が、昔の冷たさを思い出す。


「聖園さん、ぼく、君の成長を応援してたけど……これは、ひどいよ」


 凛華は二人を睨み、開き直った。


「そうよ。二股。翔を取り戻したけど、明彦も失いたくない。純潔を捨てた私は、もうルールに縛られない。二人を愛する。それが、私のハッピーエンド」


 凛華の心は解放されていた。バレた?いいわ。隠す必要なんてない。悪女?それで勝てた。孤独より、愛の多さが欲しい。美咲と悠真の視線が痛いけど、構わない。私は変わった。


 凛華は笑みを浮かべ、二人の反応を楽しむように見つめた。昔の自分なら、こんな開き直りはできなかった。でも、今は違う。寝取られの傷が、私を強くした。


 美咲は涙を浮かべ、悠真はため息をついた。二人は凛華を説得しようとしたが、凛華の目は揺るがなかった。結局、二人は去り、凛華は一人残った。


 でも、心は軽かった。世界はキミを待っている――今、その言葉が本当の意味で響く。悪女として、再生した私。翔と明彦、二人の愛を独占して、未来へ。秘密は守りつつ、開き直る。誰も止められない。


 雨は止み、青空が広がった。凛華の心の軋みは、勝利のメロディに変わっていた。

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