こゆるぎの海

西海子

こゆるぎの海

 小田原のお城の天守閣からは相模の海が一望できる。


 この海というのが、遠目に観れば青々と美しいが、近付くと途端に恐ろしいものへと変貌する。

 海水浴の季節には浜から海へと入っていき、波と戯れている内に急に足元が消えて失せ、溺れる者が現れる。

 ずっと浅いように見えて、がくりと落ちるように深くなっているのがこの海の特徴だった。


 さて、そんな海であるから、自ら深みに進み出て命を捨ててしまう事件も起きる。


 旅行客らしき男が海中に没したらしく、やがて少し離れた早川の漁港辺りで浮かんだという通報があった。


 警官がドヤドヤと詰めかけ、救急だ、消防だ、と次々に人が増えて行く。その男はそれほど長く海に揉まれなかったのか衣服も纏ったままで、調べた結果、懐から手紙なのか遺書なのか、白い便箋が発見された。


 水に滲んでしまって文面は読めず、警察の科学捜査でようやく何が書かれていたのか判明したそうだ。


 捜査員はその内容に首を傾げた。『先立つ不孝をお許しください』なんていう、お決まりの言葉が書かれていれば、こいつは入水自殺した土左衛門だと話は片付いたのだが。


 書いてあったのはこうだ。


『天守閣から見えた青い船に乗りに行きます。体は不要です、どうなりと処分してください』


 これにはみな閉口した。


「青い船ってのはなんだ? 当日、船が通っていたのか?」

「死亡推定時刻に湾内に船があった記録はありませんね」


 捜査の過程で浮かんだ情報はなんの答えもくれやしない。

 ふと、退職間近の捜査員が思い出したように呟いた。


「青い船か、爺さんに聞いた事があるなぁ」

「なんですか、ヤマさん?」


 ヤマさんと呼ばれた捜査員は神妙な顔で口にした。


「海を行く青い船ってのがあってな、ホトケさんはそれに乗って死者の国に行くんだとよ。あの土左衛門はそれに乗りたかったんじゃないのかねぇ」

「それ、結局は自殺ってことですか?」


 若い捜査員が訊くと、ヤマさんは苦々しい笑いを零した。


「結果はそうだろうが、呼ばれたのかもしれねぇなぁ」


 後日、土左衛門の身元が判明し、家族や周囲への聞き込みの結果、自殺の動機らしきものはまるで見当たらなかった。

 男は休暇で小田原へ旅行に来て、天守閣に登り、その後に海へ行ったという事実だけがすべてだった。


 呼ばれたのかもしれない、というヤマさんの言葉には何か真実があったのかも知れない。


 体は不要だ、と言う男の遺書に従い、家に戻された男は荼毘に付されたそうだ。


 男は青い船に乗れたのか、こゆるぎの海はその答えを教えてはくれない。

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こゆるぎの海 西海子 @i_sai

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