残る手は慰めに
脳幹 まこと
残る手は慰めに
薄暗い四畳一間に、男がひとり座っていた。
この手で何をしたのか、彼は知っている。この手が何を求めているのか、それも知っている。
手とは辿った因果そのものだ——と、龍弘は思う。
一
龍弘が手を恐れるようになったのは、物心ついた頃からだった。
父・
「お前は俺の子ではない」
何度も聞いた言葉だった。母・
殴られた。蹴られた。罵られた。
だが龍弘は、父を憎むことができなかった。憎むことを許されなかった。「親を敬え」と教えられて育った子供は、憎悪の矛先を見失う。代わりに恐れた。父の手を。その太い指を。振り下ろされる拳を。
やがて、その恐怖は父の手だけに留まらなくなった。
学校で、級友の手が動くたびに身を竦めた。先生が黒板を指す手に怯えた。握手を求められれば逃げ出した。誰もが当たり前に持っているもの——二本の腕、十本の指——それが龍弘には凶器に見えた。
「変人」「気狂い」
子供は残酷だ。大人も残酷だ。そして、噂は一朗の耳にも届いた。
「恥を晒しおって」
その日、一朗の手は龍弘を階段の上から突き落とした。
・
意識が戻ったとき、龍弘は病院の白い天井を見ていた。
「認識に障害がある」と医者は言った。「長い治療が必要です」とも言った。龍弘は頷きも拒みもしなかった。どこにいようと同じだった。この世界には手があり、手は暴力を振るう。それだけが真実だった。
――五年。
五年という歳月を、龍弘は病院の中で過ごした。誰とも話さず、誰の目も見ず、ただ時間が過ぎるのを待った。生きているのか死んでいるのか、その境界すら曖昧なまま。
二
最初に目に入ったのは、彼女の左側だった。
——袖が、空だ。
先天性の病だと、後に聞いた。左腕が赤ん坊の頃から成長しなかったのだという。肩から先、あるべきものがない。その姿ゆえに虐げられ、心を病み、この病院へ流れ着いた。龍弘と同じように。
龍弘は、自分の中に奇妙な感情が芽生えるのを感じた。
それを言葉にするならば——優越感、だったのかもしれない。恐れるべき手を、この女は持っていない。片方しかない。自分を脅かすことのできない、不完全な存在。踏みつけにできる何か。嬲ることのできる弱者。
歪んでいると、龍弘自身も分かっていた。だが、その歪みこそが、彼を動かした。
「——君は、この病院に来て長いのか」
誰にも話しかけなかった龍弘が、初めて口を開いた。
聡子は驚いた顔をした。そして、微かに笑った。
「三月ほどです」
その声は、柔らかかった。怯えを含んでいたが、それ以上に、人と話せることへの喜びがあった。彼女もまた、孤独だったのだ。片腕であるがゆえに、人として扱われることの少なかった女。
龍弘は話しかけ続けた。周囲の患者たちは気味悪がった。あの無口な男が、あの片腕の女に、熱心に言葉を注いでいる。異様な光景だった。
だが、聡子は拒まなかった。
彼女にとって龍弘は、初めて自分を人として見てくれた存在だった。哀れみでも、嫌悪でも、好奇でもなく、ただ一人の人間として。たとえその動機が歪んでいたとしても——いや、聡子はその歪みに気づいていなかった。気づく術もなかった。
月日が流れた。
龍弘は、少しずつ変わっていった。聡子の右手が、彼に触れることがあった。肩を。腕を。頬を。その手は、柔らかかった。温かかった。父の手とは、まるで違った。
ああ、と龍弘は思った。
——手というものは、こういうものでもあるのか。
暴力だけではない。温もりを伝えるものでもある。人と人を繋ぐものでもある。二十余年の人生で初めて、龍弘は手の持つもう一つの意味を知った。
恐怖が、少しずつ溶けていった。
氷が解けるように。蝋が柔らかくなるように。長い長い冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。
一年。
そして、半年。
「——退院したら、一緒に暮らさないか」
龍弘の口から出た言葉に、聡子は涙を流した。
三
「ただいま戻りました」
退院の日、龍弘は聡子の手を引いて実家へ戻った。久方ぶりの我が家。玄関を開けたとき、龍弘は気づくべきだった。あの頃と何も変わらない空気に。煙草と酒と、古い畳の匂いに。
「帰ったか」
一朗は、座敷に座っていた。
五年の歳月は、父を老けさせていた。だが、その目は変わっていなかった。濁った、獣のような目。そして——その手も。
「何だ、それは」
龍弘が答える前に、一朗は立ち上がっていた。
「
その言葉が合図だった。
父の手が、龍弘を殴った。何度も、何度も。五年間溜め込んだ怒りをぶつけるように。病院送りにした息子。世間の笑い者。親不孝者。その全てを、拳で清算しようとするかのように。
龍弘は抵抗できなかった。体は成人のものになっていたが、心は——あの頃の子供のまま、凍りついていた。
そして、一朗の手は聡子へ向かった。
やめろ、と龍弘は叫んだ。声にならない声で。だが一朗は止まらなかった。片腕の女を組み敷き、その衣服を剥き——龍弘の目の前で、全てを蹂躙した。
絹子は、それを見ていた。
慣れた目つきで。何も言わず、何もせず。自分もまた何度もそうされてきたというように。
龍弘の中で、何かがかちりと音を立てた。
すなわち、手というものは、やはり、こういうものなのだ。
あれは夢だった。現実には、手は暴力のためにある。弱者を踏みにじるためにある。
ひとしきり聡子を穢した一朗は、小刀を取り出した。
「これで腹を切れ。お前の手で」
それを龍弘の前に差し出した。畜生は死なねばならない。
龍弘は、小刀を手に取った。
静かに。
「相分かりました」
その声は、妙に澄んでいた。
「手というものは——このように使うのですね」
四
小刀が向かったのは、絹子だった。
一朗の驚愕を背に、龍弘は母の首筋に刃を当てた。
「犯したければ犯せばよかろう。だが、私は外へ出て、近隣の皆様にお見せいたしましょう。この家で何が行われていたか」
一朗の顔が、怒りに歪んだ。
卑怯者。化けの皮が剥がれたな。臆病者のくせに。言葉にならぬ罵声を浴びせながら、突進した。
龍弘の手が動き、小刀が一朗の腹にずぶり、と沈んだ。
一朗が崩れ落ちた。
腹を押さえ、呻き、悶え。畳に血が広がっていく。その姿を見下ろしながら、龍弘は絹子に向き直った。
母は、何も言わなかった。あの頃と同じように。自分が殴られても、息子が殴られても、黙って見ていた女。助けも、止めも、しなかった女。
龍弘の拳が振り下ろされた。
一発。
二発。
べこり、と鈍い音がした。
「ご覧ください、父上。私があなたの息子である証拠だ」
三発。四発。五発。
聡子との時間が、龍弘に教えたことがあった。手は温もりを伝えるということ。それにより——彼は手の恐怖を乗り越えた。
今、龍弘の手は自由だった。振り下ろす拳に、もう怯えはなかった。
むしろ——快感があった。無力なものを打ち据える感触。父が欲するのも分かる。この甘美。この支配。この愉悦。
ああ――これが、手の持つ力なのだ。
絹子は、何も言わぬまま動かなくなった。一朗も、腹の傷から血を流しきり、事切れた。六畳の部屋は血の海となり、二つの骸が転がっていた。
聡子はぼんやりとそれら全てを見ていたが、龍弘に促されると、服を整えて、外へと出ていった。
亡骸となった夫婦が発見されたのは、それから三日後。
一朗の悪行は近隣住民も知るところであり、警察は「度重なる暴力に耐えかねた妻が、小刀を使って夫を刺し殺し、その後力尽きた」として処理された。
五
逃げ延びた龍弘と聡子は同棲することになった。
しかし、もはや聡子には夢も現実も見えていなかった。
当然のことだった。愛する男は両親を殺し、そしてその父親に自分の身体を穢されたのだ。聡子にとって、これは悪い夢であり、地獄の責め苦であった。
ある日、聡子は逃げた。
行く当てはない。ただその場からいなくなりたかった。
「待ってくれ」
その声は、かつて病院で彼女に語りかけたときと同じ調子だった。穏やかで、静かで、どこか優しげな。
「やるなら、一緒だ」
聡子は振り向かなかった。ただ走った。片腕の不自由さを押して、必死に。
人気のない茂みで、龍弘は追いついた。
そして、その両手を——倒れた彼女の首に押し当てた。
血潮の感触。
聡子の右手が、龍弘の腕を掴んだ。振りほどこうと、懸命に。その手は、かつて龍弘に温もりを教えた手だった。優しく触れ、人の心を溶かした手だった。
だが今、その手は——あまりにも無力だった。
龍弘は力を込めた。
聡子の目が見開かれた。口が開き、声にならない声が漏れた。彼女の右手は、なおも龍弘の腕を掴んでいた。弱々しく。縋るように。
やがて、その手から力が抜けた。
龍弘は、長い間そのままでいた。
動かなくなった聡子の体を抱き、その右手を見つめていた。柔らかな手。温かかった手。今は冷たくなり始めている手。
彼は思い出していた。
この手に触れられたとき、自分は何を感じたのだったか。恐怖が溶けていくのを感じた。人の温もりを知った。手というものが、暴力だけのものではないと——そう思った。
だが、違った。
結局、手というものは、そういうものなのだ。奪うためのもの。壊すためのもの。支配するためのもの。
父がそうしたように。そして、自分もそうしたように。
温もりなど、幻想だった。
束の間の夢だった。
龍弘はそのまま近くの崖に向かい、その身を放り出した。
・
四畳一間。
意識を取り戻した後からずっと、龍弘はそこにいた。
膝の上に両手を置き、それを見つめていた。
父を刺した手。母を殴った手。聡子の首を絞めた手。
この手は、もう何も掴めない。何も繋げない。何も伝えられない。
龍弘は、ゆっくりと手を動かした。
虚ろな目で。涅槃に至ったような、しかし何処にも辿り着けない空虚な表情で。
あの日、聡子が彼の腕を掴んだ感触が、まだ残っていた。柔らかく、温かく、そして——縋るような。
その感触だけを反芻しながら、龍弘の手は動き続けた。
何も生まない動きを。何処へも至らない動きを。
かつて父は言った。「お前は俺の子ではない」と。
その言葉が、今は正しかったように思える。
自分は、誰の子でもない。誰の父にもなれない。誰とも繋がれない。
手があるのに、何も掴めない。
精々——己を慰めることだけが、残っていた。
残る手は慰めに 脳幹 まこと @ReviveSoul
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