残る手は慰めに

脳幹 まこと

残る手は慰めに


 薄暗い四畳一間に、男がひとり座っていた。


 龍弘たつひろという。齢三十。畳の擦り切れた部屋で、彼はただ己の両手を見つめていた。節くれ立った指、青白い甲、爪の間に残った黒ずみ。

 この手で何をしたのか、彼は知っている。この手が何を求めているのか、それも知っている。


 手とは辿った因果そのものだ——と、龍弘は思う。




 龍弘が手を恐れるようになったのは、物心ついた頃からだった。


 父・一朗いちろうは昭和の男を絵に描いたような人物だった。寡黙で、酒を呑み、怒りを溜め、そしてそれを拳で語る。龍弘は生来、骨の細い子供だった。同い年の少年たちと並べば一目で分かるほどの貧弱な体躯。それが一朗には我慢ならなかった。


「お前は俺の子ではない」


 何度も聞いた言葉だった。母・絹子きぬこが何を言っても、一朗は聞かなかった。いや、聞く耳を持たなかったのではない。聞く必要がなかったのだ。亭主関白という言葉すら生温い。一朗にとって家庭とは、己の王国であり、妻子は臣下に過ぎなかった。


 殴られた。蹴られた。罵られた。


 だが龍弘は、父を憎むことができなかった。憎むことを許されなかった。「親を敬え」と教えられて育った子供は、憎悪の矛先を見失う。代わりに恐れた。父の手を。その太い指を。振り下ろされる拳を。


 やがて、その恐怖は父の手だけに留まらなくなった。


 学校で、級友の手が動くたびに身を竦めた。先生が黒板を指す手に怯えた。握手を求められれば逃げ出した。誰もが当たり前に持っているもの——二本の腕、十本の指——それが龍弘には凶器に見えた。


「変人」「気狂い」


 子供は残酷だ。大人も残酷だ。そして、噂は一朗の耳にも届いた。


「恥を晒しおって」


 その日、一朗の手は龍弘を階段の上から突き落とした。



 意識が戻ったとき、龍弘は病院の白い天井を見ていた。


「認識に障害がある」と医者は言った。「長い治療が必要です」とも言った。龍弘は頷きも拒みもしなかった。どこにいようと同じだった。この世界には手があり、手は暴力を振るう。それだけが真実だった。


――五年。


 五年という歳月を、龍弘は病院の中で過ごした。誰とも話さず、誰の目も見ず、ただ時間が過ぎるのを待った。生きているのか死んでいるのか、その境界すら曖昧なまま。




 聡子さとこが現れたのは、龍弘が二十一になった春のことだった。


 最初に目に入ったのは、彼女の左側だった。


——袖が、空だ。


 先天性の病だと、後に聞いた。左腕が赤ん坊の頃から成長しなかったのだという。肩から先、あるべきものがない。その姿ゆえに虐げられ、心を病み、この病院へ流れ着いた。龍弘と同じように。


 龍弘は、自分の中に奇妙な感情が芽生えるのを感じた。


 それを言葉にするならば——優越感、だったのかもしれない。恐れるべき手を、この女は持っていない。片方しかない。自分を脅かすことのできない、不完全な存在。踏みつけにできる何か。嬲ることのできる弱者。


 歪んでいると、龍弘自身も分かっていた。だが、その歪みこそが、彼を動かした。


「——君は、この病院に来て長いのか」


 誰にも話しかけなかった龍弘が、初めて口を開いた。


 聡子は驚いた顔をした。そして、微かに笑った。


「三月ほどです」


 その声は、柔らかかった。怯えを含んでいたが、それ以上に、人と話せることへの喜びがあった。彼女もまた、孤独だったのだ。片腕であるがゆえに、人として扱われることの少なかった女。


 龍弘は話しかけ続けた。周囲の患者たちは気味悪がった。あの無口な男が、あの片腕の女に、熱心に言葉を注いでいる。異様な光景だった。


 だが、聡子は拒まなかった。


 彼女にとって龍弘は、初めて自分を人として見てくれた存在だった。哀れみでも、嫌悪でも、好奇でもなく、ただ一人の人間として。たとえその動機が歪んでいたとしても——いや、聡子はその歪みに気づいていなかった。気づく術もなかった。


 月日が流れた。


 龍弘は、少しずつ変わっていった。聡子の右手が、彼に触れることがあった。肩を。腕を。頬を。その手は、柔らかかった。温かかった。父の手とは、まるで違った。


 ああ、と龍弘は思った。


——手というものは、こういうものでもあるのか。


 暴力だけではない。温もりを伝えるものでもある。人と人を繋ぐものでもある。二十余年の人生で初めて、龍弘は手の持つもう一つの意味を知った。


 恐怖が、少しずつ溶けていった。

 氷が解けるように。蝋が柔らかくなるように。長い長い冬が、ようやく終わりを告げようとしていた。


 一年。


 そして、半年。


「——退院したら、一緒に暮らさないか」


 龍弘の口から出た言葉に、聡子は涙を流した。




「ただいま戻りました」


 退院の日、龍弘は聡子の手を引いて実家へ戻った。久方ぶりの我が家。玄関を開けたとき、龍弘は気づくべきだった。あの頃と何も変わらない空気に。煙草と酒と、古い畳の匂いに。


「帰ったか」


 一朗は、座敷に座っていた。


 五年の歳月は、父を老けさせていた。だが、その目は変わっていなかった。濁った、獣のような目。そして——その手も。


「何だ、それは」


 龍弘が答える前に、一朗は立ち上がっていた。


片輪かたわか」


 その言葉が合図だった。


 父の手が、龍弘を殴った。何度も、何度も。五年間溜め込んだ怒りをぶつけるように。病院送りにした息子。世間の笑い者。親不孝者。その全てを、拳で清算しようとするかのように。

 龍弘は抵抗できなかった。体は成人のものになっていたが、心は——あの頃の子供のまま、凍りついていた。


 そして、一朗の手は聡子へ向かった。


 やめろ、と龍弘は叫んだ。声にならない声で。だが一朗は止まらなかった。片腕の女を組み敷き、その衣服を剥き——龍弘の目の前で、全てを蹂躙した。


 絹子は、それを見ていた。

 慣れた目つきで。何も言わず、何もせず。自分もまた何度もそうされてきたというように。


 龍弘の中で、何かがかちりと音を立てた。

 すなわち、手というものは、やはり、こういうものなのだ。

 あれは夢だった。現実には、手は暴力のためにある。弱者を踏みにじるためにある。


 ひとしきり聡子を穢した一朗は、小刀を取り出した。


「これで腹を切れ。お前の手で」


 それを龍弘の前に差し出した。畜生は死なねばならない。


 龍弘は、小刀を手に取った。

 静かに。


「相分かりました」


 その声は、妙に澄んでいた。


「手というものは——このように使うのですね」




 小刀が向かったのは、絹子だった。

 一朗の驚愕を背に、龍弘は母の首筋に刃を当てた。


「犯したければ犯せばよかろう。だが、私は外へ出て、近隣の皆様にお見せいたしましょう。この家で何が行われていたか」


 一朗の顔が、怒りに歪んだ。

 卑怯者。化けの皮が剥がれたな。臆病者のくせに。言葉にならぬ罵声を浴びせながら、突進した。


 龍弘の手が動き、小刀が一朗の腹にずぶり、と沈んだ。

 一朗が崩れ落ちた。


 腹を押さえ、呻き、悶え。畳に血が広がっていく。その姿を見下ろしながら、龍弘は絹子に向き直った。


 母は、何も言わなかった。あの頃と同じように。自分が殴られても、息子が殴られても、黙って見ていた女。助けも、止めも、しなかった女。


 龍弘の拳が振り下ろされた。


 一発。


 二発。


 べこり、と鈍い音がした。


「ご覧ください、父上。私があなたの息子である証拠だ」


 三発。四発。五発。


 聡子との時間が、龍弘に教えたことがあった。手は温もりを伝えるということ。それにより——彼は手の恐怖を乗り越えた。


 今、龍弘の手は自由だった。振り下ろす拳に、もう怯えはなかった。

 むしろ——快感があった。無力なものを打ち据える感触。父が欲するのも分かる。この甘美。この支配。この愉悦。


 ああ――これが、手の持つ力なのだ。


 絹子は、何も言わぬまま動かなくなった。一朗も、腹の傷から血を流しきり、事切れた。六畳の部屋は血の海となり、二つの骸が転がっていた。


 聡子はぼんやりとそれら全てを見ていたが、龍弘に促されると、服を整えて、外へと出ていった。


 亡骸となった夫婦が発見されたのは、それから三日後。

 

 一朗の悪行は近隣住民も知るところであり、警察は「度重なる暴力に耐えかねた妻が、小刀を使って夫を刺し殺し、その後力尽きた」として処理された。




 逃げ延びた龍弘と聡子は同棲することになった。


 しかし、もはや聡子には夢も現実も見えていなかった。

 当然のことだった。愛する男は両親を殺し、そしてその父親に自分の身体を穢されたのだ。聡子にとって、これは悪い夢であり、地獄の責め苦であった。


 ある日、聡子は逃げた。

 行く当てはない。ただその場からいなくなりたかった。


「待ってくれ」


 その声は、かつて病院で彼女に語りかけたときと同じ調子だった。穏やかで、静かで、どこか優しげな。


「やるなら、一緒だ」


 聡子は振り向かなかった。ただ走った。片腕の不自由さを押して、必死に。


 人気のない茂みで、龍弘は追いついた。

 そして、その両手を——倒れた彼女の首に押し当てた。


 血潮の感触。


 聡子の右手が、龍弘の腕を掴んだ。振りほどこうと、懸命に。その手は、かつて龍弘に温もりを教えた手だった。優しく触れ、人の心を溶かした手だった。


 だが今、その手は——あまりにも無力だった。


 龍弘は力を込めた。


 聡子の目が見開かれた。口が開き、声にならない声が漏れた。彼女の右手は、なおも龍弘の腕を掴んでいた。弱々しく。縋るように。


 やがて、その手から力が抜けた。



 龍弘は、長い間そのままでいた。


 動かなくなった聡子の体を抱き、その右手を見つめていた。柔らかな手。温かかった手。今は冷たくなり始めている手。


 彼は思い出していた。


 この手に触れられたとき、自分は何を感じたのだったか。恐怖が溶けていくのを感じた。人の温もりを知った。手というものが、暴力だけのものではないと——そう思った。


 だが、違った。


 結局、手というものは、そういうものなのだ。奪うためのもの。壊すためのもの。支配するためのもの。

 父がそうしたように。そして、自分もそうしたように。


 温もりなど、幻想だった。


 束の間の夢だった。


 龍弘はそのまま近くの崖に向かい、その身を放り出した。




 四畳一間。


 意識を取り戻した後からずっと、龍弘はそこにいた。

 膝の上に両手を置き、それを見つめていた。


 父を刺した手。母を殴った手。聡子の首を絞めた手。

 この手は、もう何も掴めない。何も繋げない。何も伝えられない。


 龍弘は、ゆっくりと手を動かした。


 虚ろな目で。涅槃に至ったような、しかし何処にも辿り着けない空虚な表情で。


 あの日、聡子が彼の腕を掴んだ感触が、まだ残っていた。柔らかく、温かく、そして——縋るような。

 その感触だけを反芻しながら、龍弘の手は動き続けた。


 何も生まない動きを。何処へも至らない動きを。


 かつて父は言った。「お前は俺の子ではない」と。

 その言葉が、今は正しかったように思える。

 自分は、誰の子でもない。誰の父にもなれない。誰とも繋がれない。

 手があるのに、何も掴めない。


 精々——己を慰めることだけが、残っていた。

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