征くぜ、相棒
脳幹 まこと
残酷、を絵に描いたような
一
夜の路地裏は、いつだって冷たい。
イータは息を殺しながら、湿った煉瓦の壁に背中を預けていた。三日前から続く追跡劇。組織の犬どもは執念深い。かつて自分もその一員だったのだから、よく知っている。
足音が近づく。二人——いや、三人か。
舌打ちをこらえた。弾は残り四発。三人を相手にするには心許ない数だ。
「よう、相棒」
背後から声がした。
イータの心臓が跳ねる。振り向くと、闇の中に筋肉の塊のような男が立っていた。顔の造作は悪くないが、その体躯は常軌を逸している。首の太さだけで、イータの腿ほどもあるだろう。
「相変わらず人気者だな」
男——ゴーダは、まるで旧友に声をかけるような気安さで笑った。
足音が角を曲がる。黒いコートの男たちが三人、銃口をこちらに向けた。
「動くな——」
言葉は最後まで紡がれなかった。
ゴーダの腕が閃き、先頭の男の首を掴んだ。握る。ただ、握る。それだけで、人間の頸椎は乾いた音を立てて折れた。残り二人が引き金を引くより早く、ゴーダの拳が顎を砕き、蹴りが肋骨を陥没させた。
三秒。
路地裏には、三つの骸と、二人の男だけが残された。
「怪我はねえか」
ゴーダが振り返る。その顔には返り血一つ付いていない。
イータは黙って首を横に振った。
「そうかい。なら、一杯やろうぜ。お前——まだ飯食ってねえだろ」
ゴーダの手がイータの肩を叩く。
その力加減は、血溜まりの主とは思えぬほど優しかった。
二
場末のバーは、煙草の煙と安酒の匂いで満ちていた。
カウンターに並んで座り、ゴーダはウイスキーをストレートで煽る。イータはビールをちびちびと舐めるように飲んでいた。
「なあ、イータ」
ゴーダがグラスを置く。
「お前、この先どうすんだ」
「……さあな」
「相変わらず口が重いな、お前は」
ゴーダは豪快に笑った。
「まあいい。俺はお前の味方だ。何があってもな」
イータはグラスの縁を見つめたまま、小さく頷いた。
「お前みてえなやつがいると、退屈しなくて助かるぜ」
ゴーダの言葉は続く。彼が話題にするのは、いつだって決まっていた。
ひとつは相棒——イータとの思い出話。特に最初の出会い、危機的状況を抜け出し、背中を預けあってヒットマンと交戦した話は何十回と語っていた。
もうひとつは相棒——イータとの将来のライフプラン。「逃げ切れたら、二人でパン屋でもやらねえか」と熱っぽく語るゴーダの目は真剣そのものだ。
イータは彼の一方的な話に相槌を打ちながら、時折短い言葉を返した。
夜が更けるにつれ、ゴーダの舌は滑らかになり、やがて呂律が怪しくなっていく。
「なあ、イータ……俺たち、最高の……相棒だよな……」
そう言って、ゴーダはカウンターに突っ伏した。規則正しい寝息が聞こえ始める。
イータは立ち上がった。
財布から紙幣を取り出し、勘定の三倍をカウンターに置く。
「チップをはずむ代わりに、寝かせてやってくれ。じきに迎えが来る」
バーテンダーは黙って頷いた。
イータは振り返ることなく、店を出た。
三
三ブロック離れた公衆電話。イータは受話器を握りしめていた。
「——俺だ。合流地点を変える。明日の昼、例の倉庫だ」
電話の向こうで、聞き慣れた声が応答する。
「わかった。気をつけろ」
通話を切ると、イータは深く息を吐いた。
ようやく、だ。
ゴーダ——あの男との最初の接触は、二ヶ月前だった。
組織のヒットマンに追われ、廃ビルに逃げ込んだ夜。突然、あの巨躯が現れた。「よう、相棒」と。
イータには全く面識がなかった。
組織にいた頃、あんな男は見たことがない。新手の刺客かと警戒したが、そうでもない。ゴーダはただ、イータを「相棒」と呼び、敵を排除し、まるで長年の友人のように振る舞い始めたのだ。
心底、不気味だった。
最初は利用できると思った。圧倒的な戦闘力。組織の犬どもを何人屠ったかわからない。だが、その認識は長く続かなかった。
一週間後、イータは同僚のゲーテルを紹介した。組織から共に脱走した、信頼できる仲間だ。
その翌朝、ゲーテルは変死体となって発見された。
全身の関節が逆向きに折り曲げられ、まるでマリオネットのように吊るされていた。顔だけが無傷で、その表情は恐怖に歪んでいた。
現場には争った形跡がない。ゲーテルほどの男が、抵抗すらできなかったのだ。
見た瞬間、これだけの離れ業ができる人物が一人に絞られた。
そしてその日の夕方、その男は何事もなかったかのように現れた。
「よう、相棒。昨日はよく眠れたか」
イータは本能で悟った。
どうやら――こいつにとって「相棒」は自分だけでなければならないらしい。他の誰かがその座に近づこうとすれば、容赦なく消される。
理由は分からない。まるで分からないのだが、その掟があることだけは理解できた。
それからは何度も何度も逃げた。
街を変え、国境を越え、時には死んだことにして身を隠した。だが、数日もすれば、ゴーダは何食わぬ顔で現れるのだ。「よう、相棒」と。
一度、賭けに出たことがある。
ヒットマンとの戦闘中、混乱に乗じてゴーダの後頭部を撃ち抜いた。至近距離。外しようがなかった。
ゴーダは振り返った。
頭蓋骨を貫通したはずの弾丸は、彼の体のどこにも痕跡を残していなかった。ただ、少しだけ寂しそうな目で、イータを見つめた。
「お前、だいぶ疲れてんな。今日は早く休め」
その夜、イータは生まれて初めて、恐怖で眠れなかった。
強さだの、信念だの、覚悟だの——そんな言葉が空虚に響いた。あれは人間ではない。化け物だ。神話に出てくる、人の形をした災厄そのものだ。
逃げなければ。
何としても、あの男から逃げなければ。
四
倉庫街は、錆びた鉄と潮の匂いがした。
イータは指定した建物の前で立ち止まった。周囲に人影はない。約束の時間より三十分早い。
扉を押し開ける。薄暗い内部に、人影が見えた。
「——遅かったな、イータ」
聞き慣れた声。だが、その響きには、かつての親しみがなかった。
「クラウス」
イータは仲間の名を呼んだ。組織を共に抜け、共に逃げ、共に夢を語り合った男。
クラウスの背後から、黒いコートの男たちが現れた。五人。全員が銃を構えている。
「悪く思うなよ。俺も生きていかなきゃならねえんだ」
クラウスの声には、僅かな罪悪感が滲んでいた。だが、その目は冷たかった。
背後で足音がした。振り返ると、さらに三人。
袋のネズミ、という言葉が頭をよぎった。
イータは笑った。
「そうか」
不思議と、恐怖はなかった。最初から、こうなる運命だったのかもしれない。組織を裏切った男が、仲間に裏切られる。因果応報。お似合いの末路だ。
「撃て」
クラウスが命じた。
八つの銃口が火を噴く、はずだった。
「すまねえ――犬どもを片付けるのに手間取っちまった」
声は、イータのすぐ背後から聞こえた。
振り返る間もなかった。気づけば、巨大な背中が目の前にあった。いつの間に。全く気配がなかった。どこから。どうやって。
ゴーダが立っていた。
「征くぜ、相棒」
その言葉と同時に、ゴーダの体が弾丸のように飛んだ。
最初の男は、顔面を掴まれ、頭蓋骨を握り潰された。二人目は胴体を蹴り抜かれ、文字通り上半身と下半身が分離した。三人目と四人目は、両腕で同時に首を掴まれ、互いの頭をぶつけ合わされた。果物が潰れるような音がした。
銃声が響く。残りの男たちが必死に引き金を引いている。
だが、弾は——命中しているはずなのに、ゴーダの体には傷一つ付かない。まるで肉体という概念が、この男には通用しないかのように。
五人目。六人目。七人目。
人間の体が、紙細工のように引き裂かれていく。
クラウスが悲鳴を上げながら逃げようとした。
ゴーダの手が、その背中を掴む。
「てめえが一番の泥棒犬か。地獄でケルベロスにかわいがってもらえ」
その声は、今まで聞いたどの声よりも冷たかった。
イータは目を背けた。クラウスの絶叫が、不自然な角度で途切れた。
五
静寂が戻った倉庫の中で、イータは物陰に身を隠していた。
震える手で、携帯電話を取り出す。連絡先を探す。誰か、誰でもいい。まだ生きている仲間がいるはずだ。組織を抜けた時、十二人いた。クラウスを除けば、まだ——
「電話はもう使い物にならねえぞ」
声が、すぐ隣から聞こえた。
ゴーダが立っていた。返り血に塗れながらも、その表情は穏やかだった。
「電話帳のやつらは全員、この世からバカンスに出たからな」
イータの手から、携帯電話が滑り落ちた。
全員。
電話帳の全員。
「手間取った」——あの言葉の意味を、今、理解した。
ゲーテル。クラウス。そして、残りの九人。
組織を抜け、共に逃げ、共に夢を見た仲間たち。汚れた金ではなく、民を守る義侠の集団を作ろうと誓い合った仲間たち。
全員、殺された。
この男に。
この男の、ままごと遊びのために。
「お前、疲れてんだろ」
ゴーダが近づいてくる。その声は、どこまでも優しかった。
「今日はゆっくり休め。明日からまた、二人で」
イータは笑った。
乾いた、空虚な笑いだった。
「ああ――そうだな」
ポケットに手を入れる。
拳銃の冷たい感触。残り三発。この化け物には通用しない。だが——
「相棒」
イータは、初めて自分からその言葉を口にした。
ゴーダの目が、僅かに見開かれた。喜びとも、驚きとも取れる表情。
イータは銃口を自分のこめかみに当てた。
「じゃあな」
バンという音が、倉庫に響いた。
六
ゴーダは目を見開いた。
彼の物語が始まってから、初めて見せる表情だった。驚愕。困惑。そして——理解の欠如。
イータの体が崩れ落ちる。
床に倒れたその手は、中指を立てていた。死の間際、最後の意思表示。誰に向けたものかは、明白だった。
だが、ゴーダがその意味を理解することはなかった。
「やれやれ」
ゴーダは呟いた。どこか残念そうに、どこか寂しそうに。
しばらくの間、立ち尽くしていた。
やがて、踵を返す。
倉庫を出て、錆びた鉄と潮の匂いの中を歩く。
夜明けの光が、廃墟の街を照らし始めていた。
ゴーダの足取りは軽かった。どこへ向かうでもなく、ただ歩いていた。
そして、誰にも聞こえない声で、呟いた。
「次の相棒を探さないとな」
〈了〉
征くぜ、相棒 脳幹 まこと @ReviveSoul
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