種を蒔く人

藤堂こゆ

種を蒔く人

 女はそのはらに一つの種しか受けることができない。

 奈美がそのことに気づいたのは、初めての彼氏ができてからのことだった。


 大学生になるまで片想いすらしたことのなかった奈美にとって、その恋はまさに青天の霹靂だった。

 ひょんなことから出会った彼といつの間にやら距離が縮まって、気づいたときには虜になっていたのだ。

 幸いにも彼の気持ちもまた同じだったようで、二人は出会って三か月でめでたく恋人という地点に合流した。


『愛してるよ』

『可愛いかよ』

『大好きすぎてやばいなー』

 これまでの人生でもらった分を全て足しても足らないほどの量の甘い言葉をもらって、奈美は彼の愛で溺死するかと思うほどだった。


「なみちゃん?」

 少し顔を近づけて覗き込まれて、一気に世界が戻ってくる。人々の談笑する声、カフェのBGM、湯気を立てるコーヒーの酸味を含んだにおい。

 そして、濃いブルーベリーフレーバー。わずかに煙草特有のえぐみを含んでいる、それはまさしく彼のにおい。


 今日は付き合って三か月の記念日だったと思い出す。季節はすっかり冬で、コートとマフラーが手放せない。


「ん、ごめん、何だっけ」

 奈美は取り繕うようにカップの取っ手をつまみ、ぬるくなったコーヒーを口に含んだ。

 鼻に抜ける香りに思わず口がへの字になる。彼はそれを見逃さない。

 彼の顔を見ると、いつも通りの余裕ある表情の上にいたずらっ子のような笑みが追加されていた。


「もう、これで満足?」

 前にカフェに行きたいねと話していたときにコーヒーは苦手だと言ったら、飲ませて『にげって顔見たい』と言っていたのだ。まさか本当にするとは思わなかった。

「トイレ行ってる間に勝手にコーヒー頼むとか」

 卑怯だよ――という言葉は飲み込んでしまう。それはコーヒーに似ているけれど、もっとまろやかで心地よい味だ。


 口をつぐみ、目だけは恨みがましい表情を作って彼をじっと見つめる。目をそらさないように。恥ずかしくも怖くもない、恋人なんだから。

 持ったままだったカップからもう一口飲んだ。


「やっぱおもろいな」

 彼はショートケーキの最後の一口を自分の口に放り込む。

 それを見た奈美は机に目を落とす。

 コーヒーカップの横に添えられたチーズケーキ。不本意なものを飲ませたことへのフォローのつもりだろうか。ちょうど食べたいものだったというのがまた憎らしい。


 食べかけのチーズケーキを小さなフォークで切る。土台の生地のくずがぽろりと皿にこぼれるが、気にしないふりをして切り分けたケーキを口に放り込んだ。

 ふん、と鼻から息を吐く。こうなったら思いきりふてぶてしく振舞って甘やかしてもらうのだ。


 しかし彼が言った言葉でその考えも溶けて消えた。

「今日ホテル行く?」

 冗談めかしているようで真面目なような、そんな声で、でもやっぱり余裕のある顔で、彼はそう言った。


 奈美は一瞬空気を嚥下し、フォークを持ったまま両手と首を振った。

「え、行かない行かない! 行かない……まだ行かない、まだね」

「そう、わかった――待ってるから」

 彼の表情は始終変わらなかった。でもその下でどんな炎が燃えているのか、奈美は想像してしまう。


 キスはした。手もつないだ。ハグもした。頭も撫でてもらった。ときには腰に手を回されるし、不意に際どいところをすっと撫でてきたりする。

 わっと驚いて顔を見ると、いたずらっぽく笑っている。怒って頬をふくらませると、大きな手でほっぺをむぎゅーとしてくる。それから「可愛い」と言ってくるから、いつも気が抜けてしまう。


 半ば機械的にパクパクとチーズケーキを食べていく。

 奈美は経験がない。そのことを話すと、彼は真摯に向き合って奈美を尊重すると言ってくれた。

『奪うんではなく、捧げてもらうことに意味がある。だから、なみちゃんはゆっくり覚悟を固めて』

 それまで待ってる――と。


 正直、未知の体験は少し怖い。けれども初めては彼と、と思っている。

 でもまだ。

「ねえ、私のこと好き?」

 脈絡もないけれど不安を埋めてほしかった。

「とっても大好きだよ」

 期待通りの答えに、奈美はほっとして最後の一口を口に入れた。


「食べちゃいたいくらい好き」

「おいしいかな」

「きっとおいしい」

 彼はコーヒーカップを傾ける。中身はほとんどなくなって、白い陶器に輪染みができている。


「行こうか」

 奈美がコーヒーを飲み干して息を吐いたのを見て彼が言う。

「うん」

 頷いて、背もたれのコートに手をかけた。コートを着たらマフラーを巻く。そして新しいショルダーバッグを肩にかける。


 ふと彼を見ると、パチリと目が合った。暑がりの彼は薄めのコートを着終えて奈美を待っている。

 思わず目を斜め下に向けてしまって、前に言われたことを思い出した。

『なみちゃんは恥ずかしいと目を斜め下にするのよ』

 やっぱりまだ、修行が足りない。


 彼はふっと笑うと流れるように伝票を手に取ってレジに向かった。奈美は一拍遅れて忘れ物がないか確認し、彼の背を追った。

 現金で支払いをするのを後ろから見ていた。奈美はよくQRコード決済を使うし、奈美の両親はクレジットカードを使うから、初めてデートで奢られたときは懐かしいような新鮮なような気持ちを抱いたものだ。


 扉をくぐって数段の階段を一歩一歩下りながら、

「ごち、そう、さま、でし、た!」

 にっこり笑顔を作って彼に礼を言った。

「はーい」

 サングラスをかけて半分振り向いた彼は相変わらずの笑顔とも真顔ともつかぬ顔だ。


 外は夕方だった。

 長い陰を揺らしながら駅まで歩いて、乗る線が違うので構内で別れる。

「またね」

 立ち止まって手を解くと、彼はそう言って奈美を抱きしめた。


 奈美は自分より二十センチほど背の高い彼の腰に手を回し、初心な自分の鼓動をなだめながらブルーベリーフレーバーを吸い込んだ。

 その瞬間、体の奥底で何か抑えがたい衝動が湧き上がるのを感じた。


「帰り道気をつけてな」

 彼の温もりが離れていく。チュッと音を立てて、ルージュの落ちた唇にキスが落とされる。

「うん、ありがとう」

 奈美は唇を噛みながら笑みを作って、寂しい気持ちで彼を見上げた。


 彼は大きくて温かい手で奈美の頭をぽんぽんとすると、さっぱりと背を向けて歩き出した。

「あ、またね!」

 奈美の声だけが彼を追う。彼は振り向かずに手を振って応える。


 改札を通るのを見届けないまま、奈美は反対側の自分の行くべき方へ歩き始めた。

 彼は信頼に足る人物だ。人間として頭がいいし、体も丈夫。バックグラウンドはもちろん違うけれど、彼となら互いに尊重しあえる――。

 歩きながら、そんな具体的事象を並べ立ててみる。


 でもそんな理屈じゃあ説明できない。

 あの焦げるような気持ち、恋というもの。


 不意に彼の感触を思い出した。そしてあの衝動の正体を悟った。

 むくむくとふくれ上がるものとじゃれ合いながら、彼に触れていた腕を触って立ち止まる。

 横の壁にはミレー展のポスターが貼ってあった。

 今度、彼と一緒に行こうと思った。



(了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

種を蒔く人 藤堂こゆ @Koyu_tomato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画