エピローグ
◇
神社に戻る頃には、すっかり夜になっていた。
群青の空に散る星の光は静かに瞬き、澄んだ冬の夜を飾っている。
青から、黒へ。
濃く色を変えて遥か宇宙まで続く空。銀色の月が雲から現れ、地上に光の影を落とす。
リィン、と。鈴の音がなった。
石段の向こうに、月よりも明るい銀色が揺れる。
リィン、と。またひとつ。いなりがジャンプしている。
「よつば、おかえりぃ!」
「……ただいま、いなりさん」
よつばが石段を上りきるのと同時に、袴の腰にいなりが飛びついてくる。
不意打ちによろけそうになるのを気合で踏ん張って、
「ねえ、どうだった? 大丈夫だった? しょーたくんちゃんと起きた?」
「はいはい、大丈夫ですよ。翔太さんはちゃんと起きました」
「本当!? よかったああ!」
微妙な角度で傾いていた耳が、ピンッと元気よく立ち上がる。
ふさふさと上機嫌に揺れる尻尾。不気味な音を立てる樹々の葉擦れが、少しだけ柔らかい音に変わった。
「で? で? 恋愛成就は叶いましたか……!?」
迫真。握った拳をマイクのように四葉の口元に突きつけて、いなりは問う。
四葉はいなりに冷ややかな目線を向けて、突き出された手を押し返した。
「さあ、分かりません」
「えぇー! そんなあ……」
叫んだいなりはまた萎れてしまう。しょんぼりと垂れた尻尾が、パタン、と力なく地面を撫でた。
注ぐ月明りが、いなりの白い肌を照らす。透けるような色に、ぽつんと灯る淡い桃色。
鼓動が、鳴る。ほのかに耳が熱い。吐き出した息は白を結び、群青の空気に溶けて消える。
彼女の頬にかかる銀髪に指先で触れた四葉は、いなりの瞳を覗き込んだ。
「――俺が、試してみても?」
「え?」
瞼を閉じる一瞬、いなりがきょとんと首を傾げるのが見えた。
彼女の頬に指先を残したまま、四葉は心の中で祈る――指先に触れる、想い人へ。
冬の夜風が、音もなく吹く。冷えた風は少しだけやわらかく、樹々の隙間を抜けて、天に還るように抜けていった。
祈りを唱え終えた四葉は、ゆっくりと瞼を開く。
目の前にはいなりの桃色の瞳があって、眉間に皺を寄せ、難しい顔をしていた。
「……何か?」
「んー? 四葉のお祈り、叶ったかなって」
「……やはりあなたに恋愛成就の神は無理ですね」
「なんでぇ!?」
いなりの叫びが、風をつれて天を震わせる。
木の上で羽根を休めていたカラスたちが、羽音を響かせ一斉に飛び立っていった。
◇
後日。社の中を掃除していた四葉の背中目掛けて強襲する影があった――いなりだ。
不意打ちにつんのめりかける身体を、四葉は壁に手をついて堪えた。
朽ちかけた木材がミシリと不穏な音を立てる。
「あなたは……もう……っ」
静かに怒りを燃やしかける四葉の口をいなりの両手が塞いでくる。
かなり無理やりな姿勢のため、四葉はいなりの手首を叩いて掌を剥がし、軽くジャンプして彼女を背負う。
「……なんですか」
小声で問うと、いなりはしきりに社の戸口を示した。
誰か来たのだろうか。
四葉はなるべく床が鳴かないように丈夫そうな板を踏んで移動し、社の戸にピタリと背中をつける。
祈りの鈴の前に、人影が2つあった――
カスカス、と。およそ祈りなど届きそうにない音の鈴に笑って。2人揃って手を合わせる。
閉じた瞼に、ジッと祈りを捧げる2人。背中に負ったいなりの体温が、じわりと心地よい温度で伝わってきた。
神様には人の祈りが要る。特にいなりのような、力の弱い神様には。
――人に祈られなければ、いなりは消えてしまう。
昔、消えかけたいなりの手を握って、必死に祈った記憶。思い出すたび、腹の底が冷えた。
そのとき本気で願ったのだ――人になりたい、と。
いなりは知らない、四葉だけの秘密。
四葉は背中の温度を確かに感じて、フゥと短く息を吐いた。
「りっちゃん、なにお祈りしたの?」
「なにをって言うか、お礼をね。翔ちゃんが回復できたの多分、神主さんのお陰だし」
「ああ……例のイケメンの」
翔太の声が一段低くなる。四葉は息を詰めて、身体を縮こまらせた。
「……翔ちゃんまさか嫉妬してる?」
「どうせ俺はイケメンじゃないよ」
「そんな話してないでしょ! なんでそんなこと気にするかなあ」
丈夫でない階を慎重に降りて、2人はまた石段を下っていく。
ふたつの手は、まだぎこちないながらも確かに結びついていた。
四葉は淡い息を漏らし、2人の姿が完全に見えなくなったところで社の扉を開けた。
澄んだ朝の光が満ちる。
不意に背中が軽くなり、いなりが飛び降りたのだと気づく。
恋愛成就の神様だと、誇られてしまうだろうか。
隣に並ぶいなりの横顔を見た四葉は、顔を引きつらせ、うめき声を喉奥にしまう。
いなりの瞳は、またもや決意に燃えていた。
「よつば……わたし、決めたよ」
「またろくでもないことを」
2回目はもう隠さない。実際は2回目どころではないし。
「いなりちゃんは今この瞬間より――病気平癒の神様になります!」
「それは無理です」
「なんでぇ!?」
いなりの叫びは穏やかな朝を乱し、またもやカラスの群れを飛び立たせた。
《END》
いなりちゃんは恋愛成就の神になりたいっ! 依近 @ichika115
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