エピローグ



 神社に戻る頃には、すっかり夜になっていた。

 群青の空に散る星の光は静かに瞬き、澄んだ冬の夜を飾っている。


 青から、黒へ。


 濃く色を変えて遥か宇宙まで続く空。銀色の月が雲から現れ、地上に光の影を落とす。


 リィン、と。鈴の音がなった。

 石段の向こうに、月よりも明るい銀色が揺れる。

 リィン、と。またひとつ。いなりがジャンプしている。


「よつば、おかえりぃ!」


「……ただいま、いなりさん」


 よつばが石段を上りきるのと同時に、袴の腰にいなりが飛びついてくる。

 不意打ちによろけそうになるのを気合で踏ん張って、四葉よつばはいなりを引きずりながら社まで進む。


「ねえ、どうだった? 大丈夫だった? しょーたくんちゃんと起きた?」


「はいはい、大丈夫ですよ。翔太さんはちゃんと起きました」


「本当!? よかったああ!」


 微妙な角度で傾いていた耳が、ピンッと元気よく立ち上がる。

 ふさふさと上機嫌に揺れる尻尾。不気味な音を立てる樹々の葉擦れが、少しだけ柔らかい音に変わった。


「で? で? 恋愛成就は叶いましたか……!?」


 迫真。握った拳をマイクのように四葉の口元に突きつけて、いなりは問う。

 四葉はいなりに冷ややかな目線を向けて、突き出された手を押し返した。


「さあ、分かりません」


「えぇー! そんなあ……」


 叫んだいなりはまた萎れてしまう。しょんぼりと垂れた尻尾が、パタン、と力なく地面を撫でた。


 注ぐ月明りが、いなりの白い肌を照らす。透けるような色に、ぽつんと灯る淡い桃色。


 鼓動が、鳴る。ほのかに耳が熱い。吐き出した息は白を結び、群青の空気に溶けて消える。


 彼女の頬にかかる銀髪に指先で触れた四葉は、いなりの瞳を覗き込んだ。


「――俺が、試してみても?」


「え?」


 瞼を閉じる一瞬、いなりがきょとんと首を傾げるのが見えた。

 彼女の頬に指先を残したまま、四葉は心の中で祈る――指先に触れる、想い人へ。


 冬の夜風が、音もなく吹く。冷えた風は少しだけやわらかく、樹々の隙間を抜けて、天に還るように抜けていった。


 祈りを唱え終えた四葉は、ゆっくりと瞼を開く。


 目の前にはいなりの桃色の瞳があって、眉間に皺を寄せ、難しい顔をしていた。


「……何か?」


「んー? 四葉のお祈り、叶ったかなって」


「……やはりあなたに恋愛成就の神は無理ですね」


「なんでぇ!?」


 いなりの叫びが、風をつれて天を震わせる。

 木の上で羽根を休めていたカラスたちが、羽音を響かせ一斉に飛び立っていった。



 後日。社の中を掃除していた四葉の背中目掛けて強襲する影があった――いなりだ。


 不意打ちにつんのめりかける身体を、四葉は壁に手をついて堪えた。

 朽ちかけた木材がミシリと不穏な音を立てる。


「あなたは……もう……っ」


 静かに怒りを燃やしかける四葉の口をいなりの両手が塞いでくる。

 かなり無理やりな姿勢のため、四葉はいなりの手首を叩いて掌を剥がし、軽くジャンプして彼女を背負う。


「……なんですか」


 小声で問うと、いなりはしきりに社の戸口を示した。


 誰か来たのだろうか。


 四葉はなるべく床が鳴かないように丈夫そうな板を踏んで移動し、社の戸にピタリと背中をつける。


 祈りの鈴の前に、人影が2つあった――六花りっか翔太しょうただ。


 カスカス、と。およそ祈りなど届きそうにない音の鈴に笑って。2人揃って手を合わせる。


 閉じた瞼に、ジッと祈りを捧げる2人。背中に負ったいなりの体温が、じわりと心地よい温度で伝わってきた。


 神様には人の祈りが要る。特にいなりのような、力の弱い神様には。


――人に祈られなければ、いなりは消えてしまう。


 昔、消えかけたいなりの手を握って、必死に祈った記憶。思い出すたび、腹の底が冷えた。

 そのとき本気で願ったのだ――人になりたい、と。


 いなりは知らない、四葉だけの秘密。


 四葉は背中の温度を確かに感じて、フゥと短く息を吐いた。


「りっちゃん、なにお祈りしたの?」


「なにをって言うか、お礼をね。翔ちゃんが回復できたの多分、神主さんのお陰だし」


「ああ……例のイケメンの」


 翔太の声が一段低くなる。四葉は息を詰めて、身体を縮こまらせた。


「……翔ちゃんまさか嫉妬してる?」


「どうせ俺はイケメンじゃないよ」


「そんな話してないでしょ! なんでそんなこと気にするかなあ」


 丈夫でない階を慎重に降りて、2人はまた石段を下っていく。


 ふたつの手は、まだぎこちないながらも確かに結びついていた。


 四葉は淡い息を漏らし、2人の姿が完全に見えなくなったところで社の扉を開けた。


 澄んだ朝の光が満ちる。


 不意に背中が軽くなり、いなりが飛び降りたのだと気づく。


 恋愛成就の神様だと、誇られてしまうだろうか。

 隣に並ぶいなりの横顔を見た四葉は、顔を引きつらせ、うめき声を喉奥にしまう。


 いなりの瞳は、またもや決意に燃えていた。


「よつば……わたし、決めたよ」


「またろくでもないことを」


 2回目はもう隠さない。実際は2回目どころではないし。


「いなりちゃんは今この瞬間より――病気平癒の神様になります!」


「それは無理です」


「なんでぇ!?」


 いなりの叫びは穏やかな朝を乱し、またもやカラスの群れを飛び立たせた。



《END》

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いなりちゃんは恋愛成就の神になりたいっ! 依近 @ichika115

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