天キー

脳幹 まこと

空の模様はよく変わる


 五月の空は、さっきまでが嘘のようにどしゃ降りだった。


「うわ、マジか」


 駅前のバス停に飛び込んだとき、俺の制服はすでに肩のあたりが濡れていた。天気予報は晴れだったはずだ。折りたたみ傘なんて持ってきていない。

 屋根の下で息を整えていると、隣に誰かが滑り込んできた。

 同じ学校の制服。長い黒髪。見覚えのない横顔。


「……すごい雨」


 彼女はそう呟いて、空を見上げた。その瞳に、灰色の雲が映っている。


「降るなんて聞いてなかったよな」


 俺が言うと、彼女は少しだけ首を傾げた。


「聞いてなくても、降るときは降るよ」


 なんだか不思議な言い方だった。



 一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――


「はいはい、今やりますからね」


 誰に言うでもなく呟きながら、モニターに向き合っていた。

 月末の締め作業。経費精算。売上集計。

 推しのポスターとアニメキャラのねんどろいどがちょこんと置かれ、彼女を癒している。

 デスクの右側には、処理待ちの伝票が山を作っている。


 カタカタカタカタ。


 彼女は華麗なタイピングで入力を進めていく。7、8、4、5、エンター。3、3、2、1、エンター。


「若い子はねえ、こういう仕事やりたがらないのよね」


 独り言。画面には数字の羅列。

 窓の外で、空が暗くなっていることに、彼女は気づいていなかった。



 雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。


「俺、二年の相川あいかわ。お前は?」


「……三組の、水瀬みなせ


 水瀬、と彼女は名乗った。苗字だけ。


「この雨、なんか変じゃないか? さっきまで晴れてたのに。今も、強くなったり、弱くなったりだ」


 俺がそう言うと、水瀬はふっと微笑んだ。


「それはね、天から授かった鍵のせいだよ」


「は?」


「こういう雨はね、誰かが鍵を開けちゃったの。空の、水道の蛇口みたいなところ。天使たちが遊んでるのかな」


 ポエムか。いや、かわいいけど。


「……お前、不思議なこと言うな」


「よく言われる」


 彼女は気にした様子もなく、また空を見上げた。

 雨粒がアスファルトを叩く音。排水溝に流れ込む水の音。二人きりのバス停。


 悪くない、と思った。



 一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――


「えーと、これが147,800円でしょ、こっちが98,500円……」


 電卓を叩く。エクセルに入力する。確認する。また電卓を叩く。


「あら、合わない」


 やり直し。


 デスクの伝票の山が、微妙に傾いた。

 彼女は気づかない。

 カタカタカタ。打鍵音だけが、静かなオフィスに響いていた。



「あ、止んできた」


 空を見ると、雲の切れ間から薄日が差し始めていた。


「ほんとだ」


 水瀬が目を細める。睫毛が長い。


「お前の言う『鍵』、誰かが閉めたのか?」


 冗談のつもりで言った。


「ううん、違うと思う」


 彼女は真面目な顔で答えた。


「今日は季節が風邪を引いてるから」


「……は?」


「だから、熱が出たり下がったりするの。空も、体調悪いときあるんだよ」


 なんだそれ。意味わかんない。

 でも、なんか、いいな、と思った。


「お前さ」


「うん」


「もしよかったら、連絡先とか」


 言いかけたとき、彼女のスマホが鳴った。



 一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――


 席を立っていた。


「あー、肩凝った。ちょっと休憩」


 自販機コーナーへ向かう彼女の背中を、誰も見ていなかった。


 デスクの上。


 処理待ち伝票の山が、ついに限界を迎えていた。

 ゆっくりと、傾いて。

 崩れた。


 バサバサバサ、と紙がなだれ込む。

 一枚二枚と、キーボードの右の部分に重なっていく。

 その重みがついにある1つのキーを押すに至った。



「……なんか暑くなってない?」


 俺は額の汗を拭った。

 さっきまで涼しかったはずなのに、急に蒸し暑くなってきた。五月とは思えない。


「うん……暑い、かも」


 水瀬も頬が紅潮している。いや関係ないかもしれないけど。


「おかしいな、天気予報じゃ最高気温23度だったのに」


「……季節の、熱が」


「いや関係ないだろ季節の風邪」


「そうかな」


 彼女は首を傾げた。汗が一筋、首筋を伝っていく。

 目のやり場に困る。


「あ、あの、連絡先なんだけど」


「うん」


「だから、その」


 暑い。暑すぎる。これは気温のせいか、それとも。



 その頃、青田株式会社。

 岡崎多江さん(52)は自販機の前でカフェオレを選んでいた。


「Bossにしようかな、いやジョージアかな」


 至福の悩み。


 その間に。


 彼女のデスクでは。

 伝票の重みに押されたキーボードが。

 延々と。


「8」を。


 入力し続けていた。


8888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888



 この世界には、特別なキーボードが一台あった。

 青田株式会社、経理部。

 岡崎多江さん(52)のデスクに置かれた、何の変哲もないキーボード。


 そのテンキーは、なぜか天気と連動していた。


 押されたなら、天気は晴れにも、曇りにも、雨や雪にもなる。

 強風が吹き、霧が立ち込める。時折特定地域に雷が何十、何百と轟くのもまた、彼女のタイピングによるものなのだ。


 経費精算の数字を打ち込むたびに、空模様は目まぐるしく変わる。

 この日、岡崎多江さん(52)が「147,800」と入力した瞬間、空は晴れから一転して雨になった。 「4」のせいだ。

 

 そして今、キーボードの上には伝票が載っている。 テンキーの「8」を、押し続けている。



 気温35度。


 36度。


 37度。



「やばい、暑すぎ」


 俺は制服のボタンを一つ外した。水瀬も髪をかき上げている。


「これ、熱中症になるやつだろ」


「……うん」


「コンビニ行こう。涼みに」


「……うん」


 連絡先は、アイスを買ってから交換した。



――そして、青田株式会社。


「あら、なんか暑いわねえ」


 休憩から戻った岡崎多江さん(52)は、デスクの惨状を見て目を丸くした。


「あらあら、崩れちゃってる」


 伝票を拾い上げる。キーボードの上のものも。


「あら、なんか変な入力しちゃったかしら」


 画面を見る。


8888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888


「あらまあ」


 BackSpaceキーを、押す。



「あれ、涼しくなった」


 コンビニから出た俺と水瀬は、顔を見合わせた。

 空には虹がかかっていた。


「ね、言ったでしょ」


 水瀬が微笑む。


「季節が風邪引いてるって」


「……ああ、うん」


 そうかもしれない。

 虹を見上げながら、俺は思った。


 天気なんて、よくわからないものだ。


 誰かが鍵を開けたり閉めたりしているのかもしれない。

 あるいは、どこかの会社で、誰かがテンキーを叩いているだけなのかもしれない。


「また会える?」


「うん。晴れの日に」


 彼女はそう言って、反対方向のバスに乗っていった。



 翌日、天気は晴れだった。

 岡崎多江さん(52)が、集計作業を終えて有休を取ったからである。

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