天キー
脳幹 まこと
空の模様はよく変わる
五月の空は、さっきまでが嘘のようにどしゃ降りだった。
「うわ、マジか」
駅前のバス停に飛び込んだとき、俺の制服はすでに肩のあたりが濡れていた。天気予報は晴れだったはずだ。折りたたみ傘なんて持ってきていない。
屋根の下で息を整えていると、隣に誰かが滑り込んできた。
同じ学校の制服。長い黒髪。見覚えのない横顔。
「……すごい雨」
彼女はそう呟いて、空を見上げた。その瞳に、灰色の雲が映っている。
「降るなんて聞いてなかったよな」
俺が言うと、彼女は少しだけ首を傾げた。
「聞いてなくても、降るときは降るよ」
なんだか不思議な言い方だった。
*
一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――
「はいはい、今やりますからね」
誰に言うでもなく呟きながら、モニターに向き合っていた。
月末の締め作業。経費精算。売上集計。
推しのポスターとアニメキャラのねんどろいどがちょこんと置かれ、彼女を癒している。
デスクの右側には、処理待ちの伝票が山を作っている。
カタカタカタカタ。
彼女は華麗なタイピングで入力を進めていく。7、8、4、5、エンター。3、3、2、1、エンター。
「若い子はねえ、こういう仕事やりたがらないのよね」
独り言。画面には数字の羅列。
窓の外で、空が暗くなっていることに、彼女は気づいていなかった。
*
雨脚は強くなったり弱くなったりを繰り返していた。
「俺、二年の
「……三組の、
水瀬、と彼女は名乗った。苗字だけ。
「この雨、なんか変じゃないか? さっきまで晴れてたのに。今も、強くなったり、弱くなったりだ」
俺がそう言うと、水瀬はふっと微笑んだ。
「それはね、天から授かった鍵のせいだよ」
「は?」
「こういう雨はね、誰かが鍵を開けちゃったの。空の、水道の蛇口みたいなところ。天使たちが遊んでるのかな」
ポエムか。いや、かわいいけど。
「……お前、不思議なこと言うな」
「よく言われる」
彼女は気にした様子もなく、また空を見上げた。
雨粒がアスファルトを叩く音。排水溝に流れ込む水の音。二人きりのバス停。
悪くない、と思った。
*
一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――
「えーと、これが147,800円でしょ、こっちが98,500円……」
電卓を叩く。エクセルに入力する。確認する。また電卓を叩く。
「あら、合わない」
やり直し。
デスクの伝票の山が、微妙に傾いた。
彼女は気づかない。
カタカタカタ。打鍵音だけが、静かなオフィスに響いていた。
*
「あ、止んできた」
空を見ると、雲の切れ間から薄日が差し始めていた。
「ほんとだ」
水瀬が目を細める。睫毛が長い。
「お前の言う『鍵』、誰かが閉めたのか?」
冗談のつもりで言った。
「ううん、違うと思う」
彼女は真面目な顔で答えた。
「今日は季節が風邪を引いてるから」
「……は?」
「だから、熱が出たり下がったりするの。空も、体調悪いときあるんだよ」
なんだそれ。意味わかんない。
でも、なんか、いいな、と思った。
「お前さ」
「うん」
「もしよかったら、連絡先とか」
言いかけたとき、彼女のスマホが鳴った。
*
一方その頃、青田株式会社のベテラン事務職・岡崎多江さん(52)は――
席を立っていた。
「あー、肩凝った。ちょっと休憩」
自販機コーナーへ向かう彼女の背中を、誰も見ていなかった。
デスクの上。
処理待ち伝票の山が、ついに限界を迎えていた。
ゆっくりと、傾いて。
崩れた。
バサバサバサ、と紙がなだれ込む。
一枚二枚と、キーボードの右の部分に重なっていく。
その重みがついにある1つのキーを押すに至った。
*
「……なんか暑くなってない?」
俺は額の汗を拭った。
さっきまで涼しかったはずなのに、急に蒸し暑くなってきた。五月とは思えない。
「うん……暑い、かも」
水瀬も頬が紅潮している。いや関係ないかもしれないけど。
「おかしいな、天気予報じゃ最高気温23度だったのに」
「……季節の、熱が」
「いや関係ないだろ季節の風邪」
「そうかな」
彼女は首を傾げた。汗が一筋、首筋を伝っていく。
目のやり場に困る。
「あ、あの、連絡先なんだけど」
「うん」
「だから、その」
暑い。暑すぎる。これは気温のせいか、それとも。
*
その頃、青田株式会社。
岡崎多江さん(52)は自販機の前でカフェオレを選んでいた。
「Bossにしようかな、いやジョージアかな」
至福の悩み。
その間に。
彼女のデスクでは。
伝票の重みに押されたキーボードが。
延々と。
「8」を。
入力し続けていた。
8888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888
*
この世界には、特別なキーボードが一台あった。
青田株式会社、経理部。
岡崎多江さん(52)のデスクに置かれた、何の変哲もないキーボード。
そのテンキーは、なぜか天気と連動していた。
押されたなら、天気は晴れにも、曇りにも、雨や雪にもなる。
強風が吹き、霧が立ち込める。時折特定地域に雷が何十、何百と轟くのもまた、彼女のタイピングによるものなのだ。
経費精算の数字を打ち込むたびに、空模様は目まぐるしく変わる。
この日、岡崎多江さん(52)が「147,800」と入力した瞬間、空は晴れから一転して雨になった。 「4」のせいだ。
そして今、キーボードの上には伝票が載っている。 テンキーの「8」を、押し続けている。
*
気温35度。
36度。
37度。
*
「やばい、暑すぎ」
俺は制服のボタンを一つ外した。水瀬も髪をかき上げている。
「これ、熱中症になるやつだろ」
「……うん」
「コンビニ行こう。涼みに」
「……うん」
連絡先は、アイスを買ってから交換した。
*
――そして、青田株式会社。
「あら、なんか暑いわねえ」
休憩から戻った岡崎多江さん(52)は、デスクの惨状を見て目を丸くした。
「あらあら、崩れちゃってる」
伝票を拾い上げる。キーボードの上のものも。
「あら、なんか変な入力しちゃったかしら」
画面を見る。
8888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888888
「あらまあ」
BackSpaceキーを、押す。
*
「あれ、涼しくなった」
コンビニから出た俺と水瀬は、顔を見合わせた。
空には虹がかかっていた。
「ね、言ったでしょ」
水瀬が微笑む。
「季節が風邪引いてるって」
「……ああ、うん」
そうかもしれない。
虹を見上げながら、俺は思った。
天気なんて、よくわからないものだ。
誰かが鍵を開けたり閉めたりしているのかもしれない。
あるいは、どこかの会社で、誰かがテンキーを叩いているだけなのかもしれない。
「また会える?」
「うん。晴れの日に」
彼女はそう言って、反対方向のバスに乗っていった。
*
翌日、天気は晴れだった。
岡崎多江さん(52)が、集計作業を終えて有休を取ったからである。
天キー 脳幹 まこと @ReviveSoul
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