夜、止まらず
栗パン
月下
夜は、黒いレースのように、私の目を塞いでいた。何も見えない。それでも、夜だけは確かにそこにあった。冷えは刃となり、頬や指先、外気にさらされた肌の上を、触れるともなく触れながら、そこに残っていた。
私はそっと右手を伸ばし、頼りなく路上に落ちる灯りを、掴もうとした。
「ねえ、お嬢ちゃん。こんな時間に、ひとりで何をしているんだい。」
背後から、声がした。
それが震えだったのか、それとも、ただ身がすくんだだけなのか、自分でも判然としない。
気がつけば、私は無意識のまま、歩調を早めていた。
「おや、お嬢ちゃん。話くらい、聞いてくれてもいいだろう。」
光と影が、地面の上で入れ替わっていく。
何度も折り畳まれては、また広げられる紙のように。
明暗の境目で、足元の影は少しずつその輪郭を膨らませながら、
それでも、決して距離を詰めてはこなかった。
足音が、重なっている。
「あら、お嬢ちゃん。月の下で、少し遊ばない?」
喉の奥が、無意識に強張った。
恐怖というよりも、体のほうが先に状況を理解してしまった、そんな感覚だった。
私は走り出していた。
荒い空気が、一気に胸の奥へ流れ込んできた。
汗の匂いでもなければ、土の匂いでもない。
何度も舐められた鉄のような生臭さに、夜露の湿り気が混じった、そんな匂いだった。
その瞬間、私は李徴のことを思い出していた。
才を恃み、夢を抱いたまま身動きが取れなくなった、あの李徴を。
思えば、無縁でいられる者など、いるのだろうか。
臆病な自尊心が、 己の無為を、最後まで見届けていた。
「こんな夜に、知らない人と話すわけないだろ——」
振り返ることもせず、私は声を張り上げていた。
ただ、胸の奥で、ひとつの可能性がよぎった。
それは、人ではないのかもしれない、ということ。
息づかいは、ほとんど聞こえなかった。
それでも、抑え込まれたリズムだけは、はっきりと感じ取れていた。
短く、慎重で、いつでも弾けうる気配。
ふと、ひとつの考えが浮かぶ。
猛獣は、追いかける必要などない。
獲物が「もう遅い」と気づく、その時を待てばいい。
私はすでに、結末を予見していた。
影が、目の前で止まる。
立つのではなく、身を低くする。
すべての関節が、ただひとつの瞬間のために力を溜めているかのようだった。
自分の血の音が聞こえた。
鼓膜の内側で、せわしなく反響している。
次は――
跳躍だ。
月下の獣が、私を呑み込む。
私はもう、痛みを受け入れる姿勢を取っていた。
両腕を開き、訪れるはずの衝撃を待つ。
逃げることには、すでに意味がなかった。
それに――
私は、どこへ逃げられるというのだろう。
その瞬間、視界の高さが、ふいに変わった。
目の前に、ひとつの輪郭が立ち上がった。真っ直ぐに。
月光が、ようやくそれを照らす。
縞はない。
爪もない。
裂けるように開いた口も、そこにはなかった。
銀白の光は、その背の線を描ききれず、
それは、一歩、また一歩と前に出る。
円舞曲に合わせるかのような、
タッ、タッ、タッ。
なぜ手を伸ばしたのか、自分でも分からなかった。
理性は、何ひとつ許可を出していない。
それでも、身体だけが、先に動いていた。
指先が、その
温かい。
わずかに、震えている。
その生々しさに、胸がひりついた。
次の瞬間、それは動いた。
考える間もなく、私は両手で鬣を掴んでいた。
気づいた時には、身体はすでに引き上げられ、その背へと投げ出されていた。
風が、正面から叩きつけてくる。
月は、視界の両脇で引き裂かれ、流れていった。
世界が、後方へと退いていく。
自分の息づかいが聞こえる。
そして、それとは別の、もうひとつの呼吸。
ふたつは、区別のつかないまま、混じり合っていた。
私はその背に身を伏せ、
内側から伝わってくる、期待を孕んだ律動を感じていた。
――それを、私は自由だと思い込んだ。
失速を、疾走と取り違え、
前へ進み続けることを、解放だと誤解した。
夜は、何ひとつ与えてはくれなかった。
ただ、恐怖が、しばらくのあいだ止まらずにいてもいいと、
そう許しただけだ。
私は目を閉じた。
もしかすると、これらすべては幻だったのかもしれない。
彼は何と言うだろうか。
「今の君は、どこへ逃げられるというのだ。」
声は、すぐ近くから聞こえた。
外から耳に届いたというより、
ずっとそこに潜んでいて、
私がそれを認めるのを待っていた――
そんな気がした。
「目の前の行き詰まりを、まだ認めていないのか。」
その音は、穏やかすぎるほどだった。
私は、なおも目を閉じていた。
だが、闇はそれ以上、深くはならない。
ただ、輪郭に頼って、
まだ見ていないふりをすることが、
もうできなくなっただけだ。
月光は、すでに失われていた。
走り続けていたはずの感覚も、
いつの間にか、終わっていた。
私は座っている。
だが、そこはもう、馬の背ではない。
足元の地面は、異様なほどに確かだった。
確かすぎて、後ずさる余地すらない。
「君は、恐怖を先送りにし、崩壊を分割払いにした。
走ることだけが、君に残された支払い方法だった。」
私はうつむいた。
両手は、強く拳を握りしめている。
そして、目を開けた。
そこに立っていたのは、
彼は、ただそこに立っている。
衣の裾が、わずかに濡れている。
まるで、夜の中から歩み出てきたかのようで、
私の意識の奥から現れた存在とは、思えなかった。
「だが、君も分かっているはずだ。」
彼は、そう言って、わずかに笑った。
「君は、止まらない。
なぜなら、一度でも止まってしまえば、
認めざるを得なくなるからだ――」
そこで、声は途切れた。
だが、その続きを、
私はすでに知っていた。
――自分は、強いられていたわけではない。
その場に、沈黙が落ちた。
本当に止まらないのは、
走り続けることではない。
自分自身を、どう理解しているか――
その在り方だった。
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01.07:
新年、あけましておめでとうございます。
久しぶりの更新が、取りとめのない文章になってしまい、
読んでくださる方には、少し申し訳なかったかもしれません。
この間、家のことや体調のことで気持ちが落ち込みがちになり、
しばらく更新を止めていました。
できるだけ前向きな言葉を残したいと思っている分、
書けないまま時間だけが過ぎてしまった、というのが正直なところです。
それでも、この間にいただいたコメントや、
南砂さん、無名の人さんからのギフトには、本当に励まされました。
いつもありがとうございます。
どれだけの方に届くかわかりませんが、
これまでに言葉を交わしてくれた皆さんへ。
新しい一年が、穏やかでありますように。
お仕事が順調に進み、
そして何より、心と体が健やかでありますように。
今年も、どうぞよろしくお願いいたします。
夜、止まらず 栗パン @kuripumpkin
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