第三話


 実家の引き戸を開けると、特有の匂いが鼻を突いた。線香と埃、それに染み付いた生活の残り香。自分の家なのに、どこか他人の家へ上がり込むような落ち着かなさがある。

 大黒柱にそっと触れる。そこには俺の背丈を刻んだ跡が並んでいた。最後の一本に記された『9才』の文字。指先を滑らせると、ささくれた木の感触が皮膚をひっかいた。


 仏間には父の遺影が飾られている。そこから目を逸らすように、俺は線香をあげ、瞼を閉じた。父はいま、俺をどんな目で見ているだろうか。不義理を呆れているだろうか。あるいは何も言わず、ただ黙ったままなのか。


「……親父」


 骨が答えてくれるわけもない。だが、縋るような心地で、つい問いかけてしまう。

 深く息を吐き出し、周囲を見渡せば、遺品整理はすでに始まっていた。生花の数や、整然と積み上げられた芳名帳ぼうめいちょう。そこにあるのは、多くの人々が父を頼りにしてきたことを示す、膨大な感謝の集積だった。俺の知らない父の人生が、そこには確かに存在した。


「あの人、役場じゃ口下手だっけ分、仕事だけはきっちりやるって評判だったっしょ。まさか、あんなに皆に好かれてたなんてさ、私だって知らねかったわ」


 遺影に茶を供えながら、母が独り言のように溢した。その言葉を受け、脳裏には父の背中が浮かんだ。役所勤めだった父は、俺にとって退屈な大人の象徴のような男だった。この閉鎖的な町で波風を立てず、黙々とルーチンをこなす。俺の知っている父はそういう面白みのない実直な男だった。

 だが、今この家に寄せられているのは、俺の知らない父への情愛ばかりだ。俺は得体の知れない居心地の悪さを感じ、逃げるように父の書斎だった和室に足を踏み入れた。


 主を失った部屋は、想像していたよりもずっと物で溢れていた。几帳面なイメージとは裏腹に、一見すればガラクタにしか見えない電子部品やジャンク品が棚を埋めている。

 不意に、部屋の隅にある作業台で視線が止まった。使い込まれた工具箱の横に、ぽつんと忘れ去られたかのように、それは置かれていた。


 古い真空管ラジオだ。木の筐体は経年変化で深い飴色に沈み、ボリュームつまみは父が何度も触れたであろう脂とヤニで鈍く光っている。

 裸電球の下、丸めた背中で内部を弄っていた父の姿が鮮明に蘇る。熱を帯びた沈黙を、俺はただ背後から眺めることしかできなかった。


 手に取ると、ずっしりとした重みが腕に伝わる。つまみは固着し、びくともしない。裏側からは数本の配線がむき出しになっていた。

 父は、これを直そうとしていたのだろうか。そっと、指を這わせる。硬質でありながら、どこか温かいそれは、まるで途切れてしまった会話の残骸を、そのまま手渡されたかのような心持ちにさせた。


 気付けば、俺はそのラジオを居間のテーブルに運び出していた。


 工具箱を開ける。十年以上も前に見たきりの、父の手垢が染み込んだ道具たち。ハンダごて、テスター、そして黄ばんだ回路図の束。それらには、地方公務員としての表の顔とは異なる、不器用で熱狂的な趣味人の匂いが凝縮されていた。


 自分の手をじっとみつめる。何かを成してきた、誇れるような手ではない。

 それでも、俺は吸い寄せられるように筐体を分解し、内部の配線に目を凝らした。デジタル機器とは違う、どこか血の通ったようなアナログの構造。


 父が生前、自分で交換したらしい抵抗器には、ハンダ付けの跡が残っている。プロの仕事には程遠い、素人のものだ。わずかにズレた配置、多すぎるハンダ。それは、人前では決して見せない、父の不器用さそのもののように見えた。


 ああ、そうだった。


 銀色の塊を指先でなぞる。その鈍い輝きに導かれるように、封印していた幼少期の記憶が、鮮明な色彩を伴って蘇った。


 あの電波塔を目指した、雪の日。


 小学三年生の俺は、あの塔を世界の果てへ続く門だと信じて、膝まで埋まる雪の中をがむしゃらに登った。この静まり返った町から、何者でもない自分から、一刻も早く逃げ出したかった。上へ、上へ。それは幼いながらも切実な、生存本能に近い衝動だった。


 しかし、頂に手が届く前に、吹雪の向こうから俺を呼ぶ声がした。父だった。


 雪まみれになった俺を見つけたとき、父は怒鳴ることも、理由を問うこともしなかった。ただ、冷え切った俺の体を無言で抱き上げ、一歩ずつ、深い雪を漕いで家へと連れ帰った。分厚い防寒着越しに伝わってきた、父の重い鼓動と、熱い吐息。


「馬鹿なことをするな」


 玄関先に俺を下ろし、雪を払った父が口にしたのは、その一言だけだった。


 当時の俺にとって、父の沈黙は常に拒絶だった。あの時、父は自分を危険から守ったのではなく、世界の果てへと続く唯一の道を塞いだのだと、そう頑なに信じ込んだ。父の寡黙さは、俺の情熱や夢を理解しようとしない、この退屈で閉鎖的な町の番人のように思えた。


 その歪んだ誤解が、あの日から俺と父の間の回路を、不自然に断ち切ってしまったのかもしれない。




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2026年1月11日 19:01
2026年1月11日 19:02

さようなら、電波塔 神山 @kami_yama

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