第二話
札幌駅に着いたのは、二十一時の大台を回った頃だった。
改札付近にはまだ、家路を急ぐ通勤客や、酒の匂いをさせたグループの賑やかさが余韻のように残っている。だが、そこから乗り換えた地方行きの列車は、まるで時間を遡る装置のようだった。一駅ごとに人が降り、車内の明かりが寒々しく目立ち始める。
車窓の灯りは急速にまばらになり、巨大な闇を孕んだ山々が線路の両脇から迫ってきた。雄大で、それでいて余所者を拒絶するような深い森林。辺りを埋め尽くすその気配に、圧倒される。
車内には俺の他に、所在なげに目を閉じる老人と学生服の少年だけだ。誰も口を利かず、ただディーゼルエンジンの重低音だけが、雪に閉ざされた夜の底に響き渡っていた。
極度の緊張と疲れがたまっていたのだろうか。
うつらうつらと意識を飛ばしていた時、不意に、夜の静寂を切り裂くような鋭い汽笛が鳴り響いた。
ガクンと車体がのめり込み、悲鳴のようなブレーキの軋み音が床下から伝わってくる。窓の外に目を向けると、列車の放つ強烈なヘッドライトの先に、数頭のエゾシカの親子の姿が浮かび上がっていた。
雪原に立ち尽くし、こちらを見下ろす濡れた瞳。冬毛に覆われた巨大な体躯。その圧倒的な存在感に、この土地が本来誰のものであるかを思い知らされる。
彼らは線路を横切るでもなく、ただ、太古からの住人のような顔でこちらを眺めていた。短い沈黙。やがて鹿たちは、興味を失ったようにふいと闇へ消えた。残された列車は、再び重い腰を上げるように動き始める。
道内の闇は深い。灯りの燈らない場所はいくらでもある。そこは人間ではなく獣たちの領域のように思えた。そこを開拓してきた歴史の上で、ちっぽけな人間たちがしがみつくように暮らしている。
かつてこの町を捨てた時、俺はその雄大な自然が語り掛ける闇が怖くて、煩わしくて、光の多い方へと逃げたはずだった。だが、十年の歳月を経て戻ってきた俺を迎えたのは、あの頃よりもずっと濃密になった逃げ場のない夜だった。
目的の駅に着いたのは、日付が変わる頃だった。
吹きさらしのホームに降り立つと、列車の去っていく赤い尾灯が、雪の中に溶けるように消えていく。途端に、冷気が肺を刺した。骨身に染みわたる、懐かしくも忌々しい感覚。澄んだ空気の中、雪を踏みしめるブーツの音だけが、やけに高く響く。この町特有の、すべてを押し黙らせるような静寂だ。
改札を出て、周囲を見回す。駅前の暗がりに一台の軽自動車がエンジンをかけたまま停まっていた。
排気ガスが白く、巨大な生き物の吐息のように夜気に溶けている。短くクラクションが一つ鳴った。運転席のドアが開き、十年前よりも一回り小さくなった母が降りてきた。
「……響介。よく、戻ったさ」
母はそう言って、俺の腕を軽く叩いた。記憶にある姿よりずっと老けていたが、掌の温もりだけは変わっていない。言葉の響きには、十年間の空白に対する叱責ではなく、それさえもそっと受け入れるような、諦めにも似た優しさが満ちていた。
しばらく、車を山へと走らせる。チェーンが雪を噛む音と、エアコンの轟音だけが車内を支配していた。
会話はない。ただ、黙ったまま窓の外を見上げる。ふと、雪雲の切れ間に、遠くの山肌で赤く点滅する光が見えた。
電波塔だ。窓の外の遠く雪の間にそびえる、ひときわ高い赤錆びた塔。幼い頃、あの光を見失わなければ、この深い雪の中でも迷うことはないと信じていた。俺にとっての、北極星のような存在。
「……そういえばね、響介」
俺の視線に気づいたのか。母は躊躇うように、どこか覇気のない声で続けた。
「あの電波塔、古いからってさ。近いうちに壊されることになったんだってさ」
電波塔の解体。胸の奥がざらついた。
あの無骨な鉄骨の塊が、俺の知らないところで、静かに消えようとしている。
「…………そうか」
零れ落ちた言葉は、自分でも驚くほど冷えていた。突き放すような声音に自分自身で戸惑ったが、母の受け取り方は違った。
「同じだわ」
母は少しだけ笑みを取り戻し、目を細めた。
「お父さんも、あんたと一緒さ。それを知った時、妙に寂しそうにしてたんだよ。『ああ、そうか』って」
父の表情は、どうしても思い出せない。いつも無愛想で、何かにつけ文句を言っていた覚えしかない。なぜ、母があんな男と結婚したのか。そんな問いが喉元まで出かかり、聞きたいような、聞きたくはないような気分に沈む。
だが、ハンドルを握る母の横顔には、取り残された者だけが纏う、拭い去れないほど濃密な孤独が滲んでいた。それは決して、ただ不幸なだけの人間が浮かべる表情ではなかった。
俺は、何も言えなかった。
ただ、点滅を繰り返す電波塔の光を目蓋に焼き付け、静かに目を伏せるしかなかった。
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