遅れて届いた贈り物

成田紘

息子からのメッセージ

 ねえ、聞いた?七〇一号室の自殺した……。


 夜遅くに救急車やパトカーが来て大変だったのよ。


 優秀な子だったらしいわね……。


 それが、どうもスマホが見つかってないらしくて――





◇◇◇





 死んだ息子が、気づけば私の背後に立っている。




 息子の四十九日を終えたばかりの家は、線香の匂いと、生活の名残が混じった、奇妙に落ち着かない空気に満ちていた。

 七階建てマンションの最上階の一室。

 窓の外には、いつもと変わらぬ住宅街が広がっている。人の営みは続いているのに、この家だけが時間から切り離されたようだった。


 先ほど、夫婦で離婚届にサインをした。

 妻が用意したものだったが、泣きはらした目で差し出されたそれは、私の氏名欄以外はすべて記入済みだった。決まっていた離婚だとはいえ、さすがに胸に苦いものが広がる。サインが終わると、そのまま妻は出ていった。


 去り際に零した妻の言葉が、抜けない棘のようにじくじくとした痛みを生む。

「あなただけのせいじゃないわ……」

 これで、この家には私ひとりだけになった。


 いや――違う。

 私の背後には、息子がいる。






 ひとり息子は中学三年生。

 この街で一番の進学校を受験する予定だった。成績は悪くなく、とても頑張り屋で真面目な子だったと思う。


 妻は、その息子を残して家を出た。

 夫婦仲はとっくに冷え切っていた。離婚の話も進んでいたが、受験を控えた息子の環境を変えるのはよくないと私たちは話し合い、受験が終われば必ず迎えに来ると言って妻だけが実家に戻った。


 ――私がもっと、ちゃんとやれていれば。

 

 その思いが、胸の奥で何度も反芻される。

 妻が家を出てから、当然の如く家のことが回らなくなった。仕事に追われた私は、家政婦を雇い家事を任せ、家の中から目を逸らした。

 そのせいか息子と過ごす時間は徐々に減っていき、結果として、私は息子の変化に気づいてやれなかったのだ。


 受験生だった息子は、黙々と机に向かっていたが、あれは努力ではなく、孤立だったのかもしれない。


 もっと息子と向き合うべきだった。

 もっと話を聞いてやれば。

 もっと一緒に食事をしていれば。


 息子は、自室の窓から転落した。

 七階から落ちたのだ、即死だった。

 遺書は見つからなかったが、恐らくは突発的に自ら飛び降りたのだろう。

 受験のストレス、母親の不在――探せば理由はいくらでもあった。

 けれど、誰よりも近くにいたはずの私の不甲斐無さが招いた結果だったのだと、今更ながらに思う。


 そしてあの日から、気づけば私の背後には息子が佇んでいる。

 何も語らず、じっと至らない父親の背中を見つめている。






 私は、息子の部屋の前に立ち尽くしていた。

 遺品整理をしなければならないのだが、ドアを開ける踏ん切りがつかない。

 そこは、息子が最期の瞬間を迎えた場所。

 私の罪を咎める場所だった。


 それでも意を決しドアを開ければ、目に飛び込んできたのは勉強机、参考書、壁に貼られた志望校の紙。

 すべてが、息子が生きていた証だ。


「……片づけなきゃな」


 誰に言うでもなく呟くと、私はゆっくりと部屋に入った。


 すると、背中に感じる視線が強くなる。

 振り返らなくても分かる。

 息子は責めているのだろう。

 私は、父親失格だ。


 机の抽斗を開ける。

 文房具、ノートが数冊、塾で受けたのだろう模試の結果。

 息子の性格が現れているかのようにきちんと整頓されている。

 そんな抽斗の一番奥に、白い封筒があった。

 几帳面な字の表書き。




 『お父さんへ』




 心臓が跳ねた。

 息子から、私へ?


 震える指で封を切る。

 中から出てきたのは、誕生日カードと、温泉旅館のペア宿泊券だった。




 『誕生日おめでとう』




 それだけが、丁寧に書かれている。


「……そうか」


 いつから用意した物か、息子はこれを渡したかったのだ。

 私の誕生日は過ぎてしまったけれど、本当は妻とふたりで行ってほしかったのだろう。

 息子なりに、両親に関係を修復してほしかったに違いない。

 それを気づかせたくて、息子はずっと私の傍にいてくれたのだ。


「ありがとう……」


 声が震えた。

 罪悪感と後悔が、救われたような気がする。

 本当は喜んではいけなのだろうけれど、息子は、私を恨んでいない。

 そう思ってもいいだろうか。

 優しい子だった。

 最期に、こんな父親の誕生日を祝ってくれたのだから。






 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 重く湿ったものが、壁から滲み出すように広がる。




「おとうさん」




 耳元で声がした。

 間違いない、息子の声だ。

 聞き間違えるはずのない声が私を呼び、冷たい腕が背中から回されて首に絡みつく。

 



「どうして、僕を殺したの」




 息子が耳元で囁いた。

 ぞくりと肌が粟立ち、ずしりと身体が重くなる。

 

「……何を、言ってるんだ」

 上擦った声で私は言った。

「お前は、自分で……。苦しかったんだろう。父さんが気づいてやれば――」


「違う」


 遮るように、低い声が言った。


「父さんが、殺した」


 ごくりと私の喉が鳴る。


「僕はあのとき、まだ生きてたんだ」


 視界が歪んだ。

 思い出したくない記憶が、無理やり引きずり出される。


 ――あの夜。

 ああ、すべてはあの夜だ。

 あの夜に始まった――いや、終わったのだ。






 あの夜、風呂から上がると、息子がリビングで私を待っていた。

 珍しいことだった。


「父さんに話があるんだ」


 この頃になると息子は、私を避けるようになっていた。

 妻のこと、受験の重圧などからくる反抗期か、家政婦の作る食事にも手をつけず、洗濯も自分の分だけを自らやるようになった。

 学校にはきちんと通っているが、家にいるときは部屋に引きこもることが増えた。


 青白い顔をして目の下に隈を作った息子が、私に話があると言う。

「どうしたんだ」

 笑顔で尋ねる私を、息子は冷ややかな目で見返した。

 まるで、見下すように。


「あの家政婦だけどさ、あの女、父さんの不倫相手だよね」


 息子がきっぱりと言い切った。

 私は、顔から血の気が引いていくのを感じた。


「お母さんを傷つけて、なのにまだ別れていないどころか家に連れ込むなんて。家政婦だなんて嘘までついて、最低だよ、父さん」


 何を言っているんだ、この子は。

 息子は、いつから気づいていたんだ——



 

 妻との仲が壊れたのは、私の浮気がバレたからだった。

 上手く隠していたと高を括っていたが、妻は興信所を雇って私に探りを入れていたのだ。

 相手の女性とはきっぱり別れると約束させられ、それだけでは気が済まなかった妻は、そのまま家を出て行った。


 馬鹿な女だ。

 妻のいなくなった家に、私は不倫相手を招き入れた。

 女手が無くなって、家事ができずに困っていたことは本当だったし、それはいい口実になった。


 息子は妻が出て行った原因を知ってはいたが、私の相手のことまでは知るはずがない。

 そうだ、どうせ何も知らないのだ。

 私は必死に誤魔化すことにした。

 なに、自分の子供だ、言いくるめることなど造作もない。


「誤解だ、何を勘違いしているんだ。そりゃあ父さんは過ちを犯した。一時の気の迷いとは言え、母さんやおまえを傷つけた。悪かったと思っている。だから、母さんの言い分を全面的に受け入れ離婚にも応じたんだ」


 弁明しながら私は息子との距離を詰めた。

 ローテーブルを挟んで私たちは向かい合う。

 息子の目の高さが私と変わらないところにあって、ああ、この子はいつの間にかこんなにも大きくなったんだなと、ぼんやりと思った。


「おまえたちと離ればなれになるなんて、本当は父さんだって耐えられない。けれどおまえたちが父さんを許せない気持ちも分かる。おまえが受験でナーバスになっていることも。だからって、何の関係もない家政婦さんを疑うような発言はどうかと思うぞ」


 私は少しだけ語気を強めた。

 父親の威厳を見せて息子を諭す。

 息子は俯いて、肩を震わせている。

 どんなに身長が伸びようとも所詮は子供。

 もうひと押しだ。


 私が次の言葉を発しようと息を吸ったタイミングで、息子が吐き捨てるように言った。


「気持ち悪い」


 顔を上げた息子は、まるで幽鬼のように白いおもてを私に向け、汚物を見るような目で私を見た。いや、実際、汚物に見えていたのだろう。


「気づいてないとでも思った?あの女の父さんを見るいやらしい目つき。あんな女の作った料理なんか食えるもんか。吐き気がする」


 そう言った息子の声は震えていた。

 肩をいからせ、今にも泣きだしそうに、震えながら両足を踏ん張って立っていた。

 何か言わなければ、私は必死に言葉を繋ぐ。


「だから、それは、おまえの誤解で……」

「いい加減にしろよ」


 言うや息子はズボンのポケットからスマートフォンを取り出すと、何やら操作をし、私に突きつける。


「これでもまだとぼける気?」


 空気まで凍りついたかのような室内に、再生された音声が流れた。

 それはひどく場違いで、滑稽な男女の声。


『……もう少し、待ってくれ。受験が終われば、即、離婚だ。そうしたら君と』

『早くしてよ。ああ、あたし、もう待てないから……、ああ』


 荒い息遣い。

 その合間に、無様な企みの証。


「や、やめろお!」


 咄嗟にスマートフォンを叩き落とし、息子を殴りつけた。

 倒れた息子を見下ろし、私は怒声を飛ばす。


「なんだこれは、何なんだおまえは!おまえも母さんのように、父さんをおとしめるのか!!」


 興信所を使って浮気の証拠を集めたあの女。

 息子もあの女の血を引いている。

 いつの間にか盗聴なんて卑劣なまねをして、私を追い詰めて。


「父親に対してこんなまねをして、許されると思っているのか?!何とか言ったらどうなんだ!」

 唾を飛ばしながら息子を見下ろし続ける私に、息子は何も言い返さなかった。


 言い返せなかったのだ。


 倒れた拍子にローテーブルの角に頭をぶつけたのだろう、息子はぴくりとも動かない。

 じわりと広がる息子の血が、フローリングの床を赤く汚していく。

 静寂のなかに、私の心臓の音だけが、やけに耳元近くに聞こえた。




 ――殺してしまった。

 いやだ、息子殺しの罪を背負うなんて絶対に嫌だ。

 どうにかしないと、どうにかしないと。

 どうすればいい。

 ああ、私はどうすれば——

 


 その瞬間、私の脳裏にある考えが閃いた。

 天啓を受けたと言ってもいいだろう。




 息子が自殺したと偽装できれば——




 このまま息子がこの世からいなくなれば、受験を待たずに離婚できる。

 彼女と一緒になれる。

 自殺ならば私の犯した過ちも消えてなくなる。

 そうだ、過ち、過失だったのだ。

 それで私が罪を背負うなんて割に合わないじゃないか。


 そのために必要なことは、息子に手をかけたのが私だとは悟られないこと。

 大丈夫だ、この家には私たち親子しかいないのだから。絶対にバレやしないさ。

 落ち着け、落ち着け。


 私は何度も深呼吸して息を整えると、息子のスマートフォンを回収し、ぐったりとした息子を抱え上げた。

 まだ暖かいその身体は、肉が薄く骨ばっていて、想像よりも重くはなかった。

「食事を抜いたりしているからだぞ。好き嫌いせずに何でも食べないとなあ」




 そして私は息子を部屋へと運び、窓を開けるとベランダに立ち、夜空を見上げた。

 月だけが煌々と輝く星のない夜だった。

 私は新たな未来へ向かって、息子を抱える手をそっと離した。






「父さん、笑ってたね」


 背中にへばりついた息子の声が、嘲笑うように歪む。


「父さんに殴られ、頭を打って動けなくなったけど、僕の意識はまだあった。だから見てたよ、父さんが笑顔で僕を運んで」


 息子の言葉に、私の全身が震えた。


「嗤いながら僕を落としたんだ」


 部屋に充満する湿った闇がその濃度を増して、私に覆い被さってくる。

 金縛りに遭ったかのように身体が重く冷えて、潰れてしまいそうだった。


 これが、恐怖なのか。

 私は死んだ息子を恐れているのか。


「……だから、どうした」


 恐怖を振り払うように私は叫ぶ。

「おまえはもう死んだんだ!死人に何ができる!」

 私は誕生日カードと宿泊券を握り締めた。

「……お前の用意してくれた誕生日プレゼント、彼女と使わせてもらうよ」


 勝ち誇ったように笑ってやったその瞬間。

 ぞわり、と身の内を何かが這いずりまわる感触に襲われた。

 何かが私の中に侵入してくる。

 何かが。


 息子が——


「遅くなったけど、父さん」


 全身の骨が凍りついてしまいそうなほどの冷たい声音が、頭の奥で響いた。




「誕生日おめでとう」




 その言葉が合図だとでもいうように、私の足が勝手に前に進んだ。

 どうしてか、身体が言うことをきかない。


「……やめろ」


 操られたように窓に向かって歩いて行くと、私の身体はベランダに出てしまう。

 体重をかけるように柵にもたれかかり、危うくバランスを崩しそうになった。


「やめろ、何をする……!」


 抵抗も空しく頭を下に向かされると、七階分の景色が視界いっぱいに広がった。

 私は自分の意志とは無関係にベランダの床を蹴り、この身を宙に躍らせる。

 すると、あんなに重く冷たかった息子の感触が離れていくのを感じた。




 息子の勝ち誇った嗤い声が風に吹かれて遠ざかっていった。





◇◇◇




 ねえ、聞いた?七〇一号室の自殺した……。


 生前の息子さんからの誕生日カードを握ってたんだって。


 息子さんに先立たれて、きっと耐えられなかったのね……。


 それが、その息子のスマホが見つかって、中から――





 

  完

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