灰の渚の馬
屑木 夢平
灰の渚の馬
破り捨てられるだけの絵を描いている。
弟のアトリエは海岸通りの西の端にひっそりと建っていた。通りには観光客向けの飲食店やサーフショップ、ダイビング用品などを扱うマリンスポーツ店が軒を連ねていて、この時期は一年のうちでいちばんの賑わいを見せている。それに比べると、通りの端で看板も掲げずに黙りこんでいるアトリエはまるで仲間はずれにされているかのようだった。それとも、建物はそこに住む人間に似るのだろうか。もともとは写真館として使われていたのを、経営者が引退するにあたって父が買い上げたのだった。
父は海と芸術を愛する人だった。双子の私たちはその片方ずつを受け継いで生まれた。
合い鍵を使ってなかに入ると、弟がカンバスに筆を走らせていた。胸の鼓動さえも丸裸にされてしまうほど静かな室内に、筆の滑る音だけが響いている。私は戸口に立ち尽くしたまま動けなくなった。かつて写真スタジオであった名残で全体が白く塗られているその部屋では、壁と床の境界がとても曖昧だ。まるで部屋全体が一つの大きなカンバスであり、私がそこに描かれた人物であるかのような錯覚が、肉体的な動きを極度に制限した。
「ご飯、持ってきたよ」
弟は筆を動かし続けたまま答えなかった。私は先ほどよりも大きな声で繰り返した。
「来てたんだ。気づかなかった」
弟は額の汗を手で拭いながら笑う。額を覆う手には黄色の絵の具が付着していて、それが頭上にほとばしって拡散した。黄色は驚きのイメージ。ということは、私を無視したわけではないらしい。
「そんなんじゃ、盗みに入られても気づかないでしょうね」
私はテーブルの上に散らばる錠剤を避けてバスケットを置いた。弟はすでにカンバスに向き直っている。今度は無視されたようだ。
弟がアトリエに籠もるようになったのは十五年前。父が亡くなってすぐだった。父を敬愛し、また父から絵の才能を見出された弟が、その父の不在を創作によって埋め合わせるに至ったのは自然な成り行きだった。私たちは父から別々のことを教わった。私は海への潜りかたを、弟は絵の描きかたを。私もまた、父を思い出したいときには海へ出かける。父が死んだ海に行くと、海鳴りに紛れてあの優しい声が聞こえてくるのではないかという気がした。
弟の背後からカンバスを覗きこむ。水平線に沈む夕日を背景に、黒毛の馬が砂浜を駆けている絵だった。弟が筆を動かすたびに、長い後ろ髪が小刻みに揺れた。もともと癖毛だったが、切るのを面倒くさがっているうちにすっかり伸び放題になってしまったのだった。ところどころもつれて、みすぼらしい馬のたてがみのようだったが、嗅ぐと甘い匂いがした。
私はベッドに腰を下ろし、弟の後ろ姿をまじまじと見つめた。黙々と絵を描く弟の頭上には、カンバスに描かれた夕日と同じ赤色の靄が立ちこめ、渦を巻いている。私はそれを『吹き出し』と呼んでいた。吹き出しの色はそのときどきによって異なるが、絵を描いているときはたいてい赤色と決まっていた。
作業が一段落すると、弟はテーブルの上に散らばった白い錠剤をいくつかまとめて飲みこんだ。
「食後に飲めばいいのに」
「空腹のときのほうが効くんだ」
色を失いかけていた吹き出しが、薬を飲んだ瞬間にまた赤く染まっていく。拡散する力とは別に中心方向へ引っ張る力も同時にはたらいているようで、一定の範囲まで広がると、今度は逆に収束していった。私は星がブラックホールになる瞬間を想像した。あるいは表現欲求とは無限の質量と体積を持っており、それを一枚のカンバスに圧縮することが創作なのかもしれない。
部屋の隅には完成した絵が束になって置かれていた。私はそのうちの一枚を取り上げる。夜の泉に口をつける黒毛の馬の絵だった。
「これ、もらってもいい?」
弟はカンバスを見つめたまま頷いた。弟はこんなにも夢中になって絵を描くくせに、できあがった作品には興味も愛着もほとんど持たなかった。私は絵を家に持ち帰り、母に見つからないように自分の部屋にこっそりと飾った。しかし、次の日に仕事から帰ってくると絵はもうなくなっていた。私は足下に一枚の切れ端が落ちているのを見つけて拾い上げる。そこには水面に反射した馬の顔が描かれていた。
自宅と職場のあいだにあるアトリエを、朝と晩に訪ねるのが日課だった。弟に食事や入り用のものを届けるためである。弟がアトリエから出ることはほとんどない。本人曰く、外に出て他人と話す時間があるなら少しでも絵を描いていたいということらしい。ただ、絵を描いていればカンバスも絵の具も切らしてしまうし、生きていればお腹も空く。そういうときのために私がいるのだ。
その日、病院の待合室から私は弟にメッセージを送った。
「そっちに行くのが遅くなるかも。病院が混んでて」
しばらくして、弟からサムズアップの絵文字だけが送られてきた。基本的に弟から私にメッセージを送ってくることはなく、また返事も絵文字だけというのがほとんどである。弟とのやりとりを遡ってみれば、数え切れないほどのサムズアップに出会えるだろう。
私たちは同じ日に同じ人間から生まれたが、なにもかも正反対だった。私は一重だけれど弟はくっきりした二重だし、私は米派だけれど弟はパン派だし、『それ』を体質的に受け付けない私と違って、弟のからだはむしろ受け入れすぎた。
それは誰しもの脳内に存在する。この世に生まれ落ちると同時に注入され、定着し、活動し、増殖する。それのおかげで私たちはあらゆる感情を制御できるようになった。いまでは怨恨による殺人などは起こり得ないし、肩がぶつかって舌打ちをする人もいない。あらゆる負の感情はそれによって瞬時に抑制され、分解される。それは私たちの脳に、心に、世界に安寧をもたらす救世主なのだ。
病院の先生が言うには、私の脳内ではそれの動きが極端に鈍くなるらしい。それはあらゆる人間の脳に定着するよう設計されているが、定着の度合いには個人差がある。どうして差が生まれるのか、原因はいまのところ明らかになっていない。
「定着が弱くても機能しないわけではありませんから、安心してください」
先生は笑いながらタブレットの画面を見せてくれた。画面には私の脳神経回路の3Dマップが映し出され、そのなかを無数の光の粒がうごめいている。この粒のひとつひとつが『それ』なのだと最初に聞かされたときは、吐き気に襲われたものだ。いまとなってはもう見慣れてしまったけれど。
定期検査を終え、アトリエに向かう頃には日が暮れかけていた。海岸通りを歩くカップルや家族連れの顔を夕日が赤々と照らしている。彼らの頭上には灰色の吹き出しが立ちこめていた。先生曰く、吹き出しの正体は脳内で機能を終えたそれの死骸のようなものだという。私のようにそれの定着が弱い人間にだけ、死骸が見えることがあるという話だった。
最初に見えたのは小学一年生のときだ。クラスメートの頭上に灰色の靄がかかるのを見つけた私は漫画の『吹き出し』みたいだと面白がったが、当然ながらほかの誰にも見えておらず、教室内は一瞬のうちに静まり返った。話はすぐに担任教師から母へと伝わり、私は病院で精密検査を受けることとなった。そして、定着障害が発見されたのである。
吹き出しが見えるといっても、日常生活に支障があるわけではない。そこになにかが書かれているわけでもないし、せいぜい夕焼けの赤を灰色で汚してしまうのが無粋だなという程度である。しかし、問題は私の頭上に別の色の吹き出しが浮かんでいるということだ。色はそのときどきで異なるものの、灰色であったことは一度もない。私の脳内で機能不全を起こしている『それ』は、働きを完全に終えるまえに排出されてしまう。だから私の吹き出しは色つきなのだった。他人と違う色を持つというのは欠陥ではなく個性だ。私の事情を知る人間は口を揃えて言うが、私からすれば彼らの言う個性とは孤独と同義だった。みんなと同じになれない私。世界に定着できない私。私にとって灰色とは孤独の色に他ならない。
弟は外出中なのか、アトリエは無人だった。おそらく薬を買いに行ったのだろう。夕飯をテーブルに置いた私は、着替えて海へ潜りに出かける。太陽はほとんど見えなくなっていたが、海水は昼間のぬくみを辛うじて保っていた。わざわざ日没の時間帯を選ぶのは、他人の吹き出しに邪魔されることなく海を独り占めできるからだ。海の底を目指して潜りながら、父のことを考える。水のなかだと吹き出しが見えないと気づいた私に、父が真っ先に教えてくれたのが素潜りだった。独りであることが辛いときは、海に潜りなさいと父は言った。光すらも届かない海底では誰もが孤独だ。そして誰もが孤独であるという点において、私は孤独ではないともいえる。人間の本質的な孤独。吹き出しのなかの空白に隠された真実を、父は海底で教えてくれた。
暗闇が私のすべてを包みこんで、心臓の音だけがからだの内側から鳴り響いている。父さん。心のなかで呼びかけながら、右手の薬指にはめた指輪に触れた。父が亡くなるときに身につけていたものだった。
アトリエに戻ると、弟がカンバスのまえに座っていた。頭上には赤い吹き出しが浮かび、濃淡や大きさが刻々と変化している。私は弟のからだに抱きついた。
「せめてタオルで拭いてからにしてよ」
「ごめん。どうしても我慢できなくて」
私は弟の首筋に頬をこすりつける。少し冷えたからだが弟の体温で温められていく。海から上がった直後は最も孤独を感じた。だから弟の体温が、吹き出しの色が愛おしくてたまらない。
ふと視線をテーブルに移すと、空の弁当箱のまわりに錠剤が散らばっていた。どうやら弟はこれを買いに出かけていたらしい。弟は私と反対に、『それ』を受け付けやすい体質だった。それは弟の脳に強く定着し、脳はそれにとことん服従した。本来、弟の吹き出しは誰よりも灰色になるはずだった。しかし、弟の描きたいものは失われた色彩のなかにこそあった。
私が定着障害と診断されたとき、母は青ざめた顔で医師に訊いた。
「うちの子、回収されるなんてことはありませんよね?」
「心配いりませんよ。回収されるのは、阻害剤を使用して違法に定着を妨げている人たちだけですから」
と医師は言った。
私はテーブルに転がる錠剤をつまみ上げる。
「もしも私がこれを飲んだらどうなるんだろう」
「やめておいたほうがいい。脳の神経が焼き切れて、最悪死んじゃうかも」
弟は絵を描きながら答えた。私はつまんだ錠剤を手のなかにそっと隠した。
弟の絵には必ず馬が描かれている。しかも、決まって黒毛の馬が。私たち姉弟にとって黒毛の馬は特別な意味を持っていた。あれは父と三人で海に遊びに来ていたときのこと。近くの牧場から脱走した馬が砂浜に迷いこんだことがあった。
海水浴客たちの悲鳴をかきわけて走る黒毛の馬を弟は指さした。
「きれい」
私はというと、まったく正反対の感想を抱いていた。痩せて筋張った体躯はみすぼらしく、毛並みには艶もない。縮れたたてがみは使い古したモップを連想させた。馬はしばらく立ち止まったのち、あろうことか沖のほうへと走り出した。あまたの灰色の吹き出しを引き裂いて駆ける馬。そのたてがみがなびくのを見た瞬間、私は弟の言っていることをようやく理解した。弟は立ち止まっている姿ではなく、走っているときの馬を見てきれいだと言ったのだ。
「馬のたてがみって、走っているときだけなびくんだね」
という弟の言葉に、父が頷いた。
「だから馬は走るんだ。走らなければ馬ではない。それをわかっているからね」
沖に沈んだ馬はそのまま上がってこなかった。その数年後、父もまた嵐の夜に海へ出たまま帰らぬ人となった。
父は私たち姉弟に多くのことを教えてくれた。潜りかた。絵の描きかた。孤独との向き合いかた。あるいは孤独でいられないことに抵抗する方法を。私たちのあいだではいまも父のことがよく話題にあがる。お父さんはこう言っていたよね。もしお父さんが生きていたらこう言うんじゃないかな。私たちの回顧と空想のなかで父はいまも生き続けている。もうなにも教えてはくれないけれど。
弟が黒毛の馬ばかりを描いているのは、過去にとらわれているからだろうか。弟は自分の絵についてなにも語らないし、私もあえて問うたことがないので本当のところはわからない。ただ、弟は私よりも父に懐いていたから、同じ死にかたをした黒毛の馬に父を重ねている可能性は高いはずだ。思えば、弟が黒毛の馬を描くようになったのは、父が死んでからだった。そして描かれた馬はどれも、異様なまでに健康的で、逞しく、美化されていた。
「おまえにはいろんな風景を描いてほしい」
生前、父は弟によく言って聞かせていた。もともと内向的であった弟の描く絵もまた、弟に似て内向的なものが多かった。ひとつのものを繰り返し描くことは得意だが、何度描いても同じ絵が完成してしまう。弟の絵は過去作の非常に精緻な複製でしかなく、父はそのことに首を捻っていた。父はきっと弟に視野を広く持ってほしかったのだろう。この世界には弟の描きたいものがもっとたくさんあるのだということを、父は伝えたかったのではないか。
そんな父がいまの弟を見たらどう思うだろう。アトリエに引き籠もり、黒い馬ばかりを描き続けている弟は、父の望んだ生きかたをしているとはとうてい思えなかった。弟の創作活動は過去への憧憬でしかない。弟は世界を見ていない。父との思い出で目隠しをして、暗記した情報を複写しているにすぎない。
父が私たちに別々のことを教えたのは、別々のことを知ってほしかったからだ。私には自分との向き合いかたを。そして弟には自分以外との向き合いかたを。そうすることで、私たちに世界との折り合いをつけさせようとしたのだ。父は私たちになにが必要であるかを、私たちよりも理解していた。
「もういいんだよ。お父さんのことを描かなくても」
弟に何度そう言おうとしたかわからない。しかしそのたびに、私は喉にせり上がってきた言葉を飲みこんだ。弟は父以外の人間から指摘されるのを望まないだろうし、なにより弟自身、そのことを誰よりもわかっているはずだから。
それに、私だって弟をとやかく言える立場ではない。私もまた海に潜るとき、いつも父のことを思い出してしまう。定着障害が発覚したあと、私は母から障害を隠しとおす方法を徹底的に教えこまれた。他人の頭上を見るな。自分の頭上を見るな。吹き出しが見えてもなにも考えるな。私が誰かの頭上に視線を逸らすと、母はほとんど罵るような口調で私を叱責した。そんな私を慰めてくれたのが父だった。父は定着障害を個性という単語で片づけなかった。障害と、そのために私が背負わされたものの成り立ちを理解し、寄り添ってくれた。
「誰だって孤独だ。でも孤独は悲しみではないよ。おまえの孤独が、おまえ自身や、おまえの大切な誰かの道標になることもあるだろう」
父は自分と対話する方法として、私に素潜りを教えてくれた。なのに、私は海底で自分ではなく記憶のなかの父と対話している。海のなかで孤独を忘れられるのは、そこに父の思い出が沈んでいるからだった。そして、思い出にすがっている限り、陸では孤独でしかいられないのだろう。
台風が迫っていた。テレビを点けると画面の上に絶えず警報が表示され、不要不急の外出を控えるようにと繰り返していた。私は弟に『今日はそっちに行けないかも』というメッセージを送ったが、返事はなかった。予報では今夜から明日の未明にかけて台風が最接近し、朝には雨や風も止むとのことなので、アトリエに向かうとしたら明日の朝になるだろう。
「お母さん。冷蔵庫の卵、ぜんぶ使うけどいいよね。あの子にサンドイッチかなにか作ってあげたいんだけど」
家じゅうに聞こえるくらいの大声で言ってみたものの、答えは返ってこなかった。もしやと思い、二階の私の部屋に向かうと、やはり母がいた。昨日、アトリエから持ち帰った絵をカッターで切り刻んでいる。
「なにをしてるの」
私は母から絵を奪い取った。すでにズタズタに引き裂かれたカンバスの破片が床の上に散らばっていた。
「絵なんて描いてちゃいけないのよ」
母はカッターの刃を伸ばしながら言った。
「どうして。あの子は必死に向き合おうとしてるよ。お父さんが死んでしまった現実と」
私は思わず言い返したが、声には力がなかった。
「違法な薬を飲んで絵を描き続けることが、どうして現実と向き合うことになるの。同じような絵ばっかり描いて、むしろ現実から目を背けてるみたいじゃない」
「いまはそうかもしれないけど、でもお願い。あの子を信じてあげて」
「無理よ。私がいくら信じようとしても、あなたたちが私を信じてくれないんだもの。あなたたちが信じているのはあの人だけなんでしょう」
恨めしそうな目が私の頭上を射抜く。母の頭上に浮かぶ紫色の吹き出しを見つめていた私は、視線を母の顔へと下げた。
「だから密告したの?」
ずっと押し殺していた言葉が私の口から漏れる。母の顔が強張った。どうしてそれを、とでもいうかのように、見開かれた目が左右に泳ぐ。
「お父さんは海で死んだんじゃなくて、回収されたんだよね」
なぜ父は嵐の夜に海へと出かけたのか。なぜ捜索がろくに行われなかったのか。なぜ遺体が見つからなかったのに、形見の指輪だけが見つかったのか。考えればすぐにわかることだった。そして、私がいままで考えないようにしてきたことでもあった。
「私はあの人を信じきれなかった。私にとって世界は灰色で、あの人の頭上に浮かぶ色は結局、紛い物でしかなかった。薬でどれだけ着色しても、灰色は灰色のままなのよ。あなただってわかってるでしょう」
「わかるよ。でも、灰色であることを拒絶した父さんやあの子の気持ちは、きっと紛い物なんかじゃない」
母にゆっくりと近づいて、手に握られたカッターを取り上げた。同じ定着障害であることを示す色つきの吹き出しが、私の眼前に広がる。
私たち親子はどうしようもなく孤独だ。ある者は父を忘れられず、ある者は父の死を受け入れられず、また別のある者は父を信じきれなかった。もしかしたら、私たちの孤独は同じ場所で生まれたのかもしれない。ならば、やがて行きつく先も同じなのだろうか。父は私に孤独を克服しろとは言わなかった。むしろ道標だと言ったのだ。わからなかった。私たちの孤独の行方も、父の言葉の意味も。
「私、やっぱりアトリエに行ってくる。あの子からの返信がないの」
無駄よ、と母は力なく言った。
「じきあの子は回収される。もしかしたら、すでにされているのかもしれない」
私は母の言葉を聞き終えるより先に駆け出していた。キーを手に車に乗りこみ、ノイズまみれのカーラジオで台風の進路を確認しながらアトリエへと急ぐ。海岸通りでは店という店のシャッターが閉められ、人っ子ひとりいなかった。海底から打ち上げられ、通りに横たわる静寂を、風雨がこれでもかといじめ抜いていた。
弟はまだ回収されておらず、アトリエでいつものように絵を描いていた。私が呼びかけても気づく様子はなく、一心不乱に筆を走らせている。
弟の肩越しにカンバスを見る。そこに描かれていたのは、やはり黒毛の馬だった。雄々しく逞しい、艶めく毛並みの馬。たとえ嵐でも回収は行われるだろう。私は弟を強く抱きしめた。
「もういいんだよ。お父さんのことを描かなくても」
しかし、弟は首を横に振った。
「これは父さんじゃない」
私はハッと息を呑んだ。まさか。部屋の隅に束になっている絵を一枚ずつ並べてみる。どの絵にも逞しい黒毛の馬が描かれていたが、背景はひとつとして同じものはなかった。あるときは森を駆け、またあるときは湖畔で眠りにつき、ときには焼け野原を逃げ回る姿が描かれていた。
弟の長い髪が、筆を動かすたびに揺れていた。かつて見たたてがみにそっくりな縮れ毛が、いま確かになびいている。
そうか。この馬は父ではなく、弟自身だったのだ。
私も母も、弟はずっと父を描いているのだとばかり思っていた。父の死を受け入れられずにいるのだと。そうではなかった。この逞しい馬は父ではなく弟であり、弟は絵のなかで世界を駆け巡っていた。とっくに父の死の向こうへと走り出していた。立ち止まっていたのはむしろ私と母のほうだ。受け入れられない事実を、定着し得ない感情を弟に押しつけて、理解した気になっていただけだった。
走らなければ馬ではない。私は父の言葉を思い出した。弟はずっと走り続けていた。馬が馬であり続けるために。彼が彼であるために。孤独さえも追いつけないスピードで、弟の筆はカンバスの上を走っている。
弟は確かに風景を描いていた。私や母や、あるいは父でさえもたどり着けなかった、弟だけの風景を。
弟の頭上の吹き出しが、急速に色を失って灰色に染まっていく。テーブルの上を彼の手が滑ったが、そこに探しているものはなかった。私は隠し持っていた錠剤を取り出し、弟の口にねじこんだ。歯が手に食いこみ、激痛が走る。
「走れ」
私は悲鳴の代わりに叫んだ。歯が指のさらに奥深くへと食いこみ、もはや骨まで断ち切る勢いだったが、それでも私は錠剤を喉の奥へと押しこんだ。
やがて灰色の吹き出しが色彩を取り戻していく。弟は口の端から血を流しながら、筆を動かし始めた。私はなおも叫んだ。
まだだ。
走れ。
速く。
もっと速く。
遠くでサイレンが鳴っている。
灰の渚の馬 屑木 夢平 @m_quzuki
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