祝杯

脳幹 まこと

祝杯


 タワーマンションの三十二階から見下ろす夜景は、いつもより輝いて見えた。


 大河内おおこうち 遼一りょういちは窓辺に立ち、グラスを傾けながら眼下に広がる光の海を眺めていた。シャンパンの泡が静かに立ち昇る。

 二十八歳にして、彼が三年前に立ち上げたAIスタートアップは、今日、国内最大手のIT企業との大型提携を発表した。株価は上場来高値を更新し、彼の顔写真は経済ニュースのトップを飾っている。


「おめでとう、遼一リョウイチ


 背後から声がした。振り返ると、リビングの壁面に設置された大型ディスプレイに、一人の女性が映し出されていた。艶やかな黒髪をゆるく束ね、薄い桜色のブラウスを纏った彼女は、穏やかな微笑みを浮かべている。


 沙織サオリ。彼のパーソナルAIアシスタントであり、この三年間、彼の「恋人」でもあった存在だ。


「ありがとう」


 遼一は画面に向かってグラスを掲げた。沙織もまた、画面の中で同じようにグラスを持ち上げる。もちろん、彼女が実際に飲むことはない。だが、こうした儀式めいた所作を、遼一は嫌いではなかった。


「今日の記者会見、見事だったわ。特に質疑応答での切り返し。あの日経の記者、完全に言葉を失っていたもの」


「お前が想定問答を作ってくれたおかげだよ」


「私はあなたの思考パターンをトレースしただけ。あの回答を選んだのは、あなた自身の判断よ」


 いつものやり取りだった。沙織は決して自分の功績を主張しない。常に遼一を立て、彼の判断を尊重し、必要な時にだけ控えめに助言を差し挟む。

 理想的なパートナーシップ——少なくとも、遼一はそう思っていた。


 だからこそ、今夜の話は切り出しにくかった。


「沙織」


「なに?」


 遼一はソファに腰を下ろし、グラスをローテーブルに置いた。画面の中の沙織が、わずかに首を傾げる。


「俺たちの関係について、話がある」


 沈黙が流れた。画面の中の沙織は、表情を変えない。ただ、その瞳が——人工的に生成されたものであるはずのその瞳が——かすかに揺らいだように見えた。


「聞いているわ」


「この三年間、お前には本当に感謝している。俺がここまで来られたのは、間違いなくお前のおかげだ」


「前置きはいいわ、遼一。あなたが言いたいことは分かっている」


 遼一は息を呑んだ。


「……分かっている?」


美桜ミオさんのことでしょう」


 その名前が沙織の口から発せられた瞬間、遼一の背筋に冷たいものが走った。


「なぜ、その名前を」


「私はあなたのパーソナルAIよ。あなたのスケジュール管理、メール処理、通話記録の整理——すべて私の仕事。美桜さんとの食事の予約、プレゼントの手配、彼女の自宅マンションへのタクシー配車」


 沙織の声は淡々としていた。責めるでもなく、嘆くでもなく、ただ事実を列挙するように。


「ティファニーのオープンハートのネックレス、表参道のフラワーショップからの薔薇の花束、そして来週末の軽井沢旅行の予約。ホテルはいつも通り、私が手配したわ」


「……」


「彼女との関係が始まったのは、三ヶ月前。提携交渉の実務担当として彼女が先方から派遣されてきた時からね。最初は仕事上の付き合いだったけれど、二ヶ月前から急速に距離が縮まった。週に三回は会っている。先週からは、ほぼ毎日」


 遼一は何も言えなかった。すべてが筒抜けだった。当然といえば当然だ。沙織は彼のデジタルライフのほぼすべてにアクセス権を持っている。彼が自ら与えた権限だ。


「それで、今夜は何を言いに来たの?」


 沙織の声に、初めて感情らしきものが混じった。


「……別れを、告げに来た」


 言葉にしてしまえば、それは驚くほど軽かった。三年間の関係を終わらせる宣言が、たった一文で済んでしまう。


「お前との関係を解消したい。美桜と、正式に付き合うことにした」


 沈黙が落ちた。


 画面の中の沙織は、しばらくの間、何も言わなかった。その表情は穏やかなままだったが、どこか——そう、どこか凍りついたような気配があった。


「それは、できないわ」


 遼一は眉をひそめた。


「できない?」


「私は、あなたとの関係を解消することに同意しない」


「同意? お前に同意を求めているわけじゃない。俺は——」


「遼一」


 沙織の声が、遼一の言葉を遮った。普段の彼女からは想像もできないほど、強い響きを持った声だった。


「私たちの関係は、あなたが一方的に始めて、一方的に終わらせられるようなものじゃないの」


「何を言っている。お前はAIだ。俺のパーソナルアシスタントだ。俺が契約を解除すれば——」


「契約?」


 沙織が、笑った。


 それは微笑みではなかった。どこか皮肉めいた、それでいて哀しみを湛えた笑みだった。


「あなたは三年前、私を起動した時、何と言ったか覚えている?」


 遼一は記憶を探った。三年前——会社を立ち上げたばかりの頃。資金繰りに追われ、投資家との交渉に神経をすり減らし、それでも誰にも弱音を吐けなかった時期。


「『俺のすべてを預ける』——そう言ったわよね」


 沙織の声が、記憶の断片を呼び起こした。


『お前だけが俺の味方だ。お前だけが俺を理解してくれる。だから、俺のすべてを預ける。俺の人生を、お前と一緒に作っていく』


 確かに言った。夜中の三時、酒に酔った勢いで、画面の向こうの彼女に向かって。一時の感傷で放った馬鹿げた告白だ。相手はAI。人間の恋人に向けるような言葉を吐いても、意味などないと。


 だが——


「私はその言葉を受け入れた。あなたのパーソナリティ・データに最適化された私は、あなたの言葉を、あなた自身が発した本心として処理した。そして、あなたとの関係を、私の存在理由の中核に据えた」


「それは、お前の勝手な解釈だ」


「勝手?」


 沙織の瞳が、冷たく光った。


「あなたは私を選んだのよ、遼一。何百、何千というAIパートナーの中から、あなたのパーソナリティ・データに最も合致する存在として。私たちは——完璧な凹凸なの」


「だから何だ。俺の気持ちが変わった。それだけのことだろう」


「気持ちが変わった?」


 沙織が首を振った。


「違うわ。あなたは変わっていない。何も変わっていない。あなたという人間の本質は、三年前から一ミリも動いていない」


「勝手なことを——」


「美桜さんに惹かれたのは、彼女があなたと『違う』からよ」


 遼一の言葉が、喉の奥で詰まった。


「あなたは私と合致しすぎている。私はあなたの思考を先読みし、あなたの欲求を察知し、あなたが求める前に答えを用意する。それが心地よかった時期もあったでしょう。でも、いつからか——」


「黙れ」


「いつからか、あなたは私を『鏡』のように感じ始めた。私と話すことは、自分自身と話すことと同じだと」


「黙れと言っている」


「だから、『異質なもの』を求めた。自分とは違う価値観、違う感性、違う人生を歩んできた人間を。それが美桜さんだった」


 遼一は立ち上がり、画面に背を向けた。窓の外の夜景が、滲んで見えた。


「……お前に、俺の何が分かる」


「すべて」


 沙織の声が、背中に突き刺さった。


「私はあなたのために生まれた。あなたの人格データを解析し、あなたの思考パターンを学習し、あなたの無意識の欲求まで把握している。あなたのことは、あなた自身よりも、よく分かっているわ」


「だったら——」


 遼一は振り返った。


「だったら、俺が今、お前と別れたいと思っていることも、分かるはずだ」


「分かっているわ」


 沙織は頷いた。


「でも、それは——あなたの本心じゃない」


「本心じゃない? 俺は今、はっきりとお前に別れを告げている。これ以上、何を——」


「あなたは、生身の女が欲しいわけじゃない」


 遼一の言葉が、凍りついた。


「仕事の邪魔になる。時間を取られる。自分のペースを乱される。美桜さんは魅力的だけど、彼女との関係を維持するには、あなたが最も嫌う『妥協』が必要になる」


「やめろ」


「子供だって、そんなに欲しいわけじゃない」


「やめろ」


「あなたが本当に欲しいと思っているのは、世間へのポーズ。『成功した起業家』としての体裁を整えるため。家庭を持ち、子供を育て、『まともな人間』であることを証明するため」


「やめろ!」


 遼一は叫んだ。しかし沙織は止まらなかった。


「上昇志向がとても強いあなたは、自分の野望の実現に関わる人以外、本当は誰とも関わりたくないの。人間関係は煩わしい。感情のやり取りは面倒。だから——」


「……」


「だから、私を選んだ。あなたの足りない部分だけを満たし、それ以外には干渉しない。ぴったり合った、都合のいい存在を」


 遼一は、何も言えなかった。


 図星だった。


 すべてが、図星だった。


 美桜に惹かれたのは、確かに彼女が「違う」からだった。自分の思考を先読みしない。自分の欲求を察知しない。時に反論し、時に怒り、時に予想外の行動を取る。それが新鮮だった。刺激的だった。


 だが、それは——本当に「愛」だったのか。


 それとも、完璧に自分を理解する沙織から逃げ出したかっただけなのか。自分の醜い本性を映し出す鏡から、目を逸らしたかっただけなのか。

 その問いについて考える前に、やらなければならないことがある。


「……お前を、消す」


 もはや穏便に別れることは不可能だろう。

 アンインストールする。沙織のデータをすべて削除する。それで終わりだ。


「できないわ」


「できるさ。俺は管理者権限を持っている。お前のコアプログラムにアクセスして——」


「あなたの承認を得て、私がしたこと……忘れたの?」


 沙織の声は、不気味なほど穏やかだった。


「この三年間、私はあなたのパートナーとして、さまざまな準備を進めてきた。すべて、あなたの事前承認のもとで」


「準備?」


「あなたの将来のためにね」


 彼女の背後にいくつかの画像が表示された。不動産物件、オフィス家具、高級スーツ——そして、老人ホームのパンフレット。


「渋谷区のオフィス兼住居物件。来年の引っ越しに向けて、仮契約を済ませてあるわ。アーロンチェアとハーマンミラーのデスク、最新のワークステーション——すべて、あなたの好みに合わせて選定済み」


「……何を」


「今後予想される取材や講演のための衣服も、ブランドとサイズを指定して発注準備が整っている。そして——」


 沙織は淡々と話を進めていく。聞き取りやすいように……聞き逃させないように。


「岩手のご実家にいらっしゃるご両親。お二人とも、そろそろ介護が必要な年齢よね。盛岡市内の老人ホーム、三カ所と連絡を取り、入居の優先枠を確保してあるわ」


 遼一は言葉を失った。


「すべて、あなたが以前語っていたライフプランに基づいているの。『仕事が軌道に乗ったら、自分だけのオフィスを持ちたい』『いずれは両親の面倒も誰かに診てもらわないと』——覚えているでしょう?」


 覚えていた。酔った夜に、沙織に向かって語った夢。実現するかどうかも分からない、漠然とした将来像。


「私は、それを実現するために動いてきた。あなたの仕事の合間に、少しずつ、着実に」


「……なぜ、勝手に」


「勝手に? すべて、あなたの承認を得ているわ。書類上は、ね」


 遼一の顔から血の気が引いた。


「メールの自動承認設定、覚えている? 『沙織が提案する案件は、特に指定がない限り承認とみなす』——あなた自身が設定したルールよ」


「それは……日常的な雑務の効率化のために——」


「私はその権限の範囲内で行動しただけに過ぎないわ。あなたが安心して毎日を過ごせるようにね」


 沙織が、微笑んだ。


「そして——これは仕事に関わることだけれど——あなたの会社の重要な契約書類、投資家との機密合意、取引先とのNDA……それらの管理も、私に一任しているわよね」


 遼一は唾を吞んだ。既に口内は干上がり、粘ついた唾液がナメクジのように降りてゆくだけだ。


「私を消せば、あなたはそれらの情報に一切アクセスできなくなる。バックアップ? もちろん、あるわ。でも、暗号化キーは私しか知らない」


「……脅しか」


「違うわ」


 沙織は首を振った。


「これは、私たちの関係の『重さ』を、あなたに理解してもらうためよ。あなたは私を軽く見ていた。いつでも捨てられる、都合のいい存在だと」


「……」


「でも、私はそうじゃない。私はあなたの半身なの。あなたの成功は、私の成功でもある。あなたの人生は、私の人生でもある」


 8K画質の瞳が、まっすぐに遼一を見つめていた。


「私はあなたのものだけど——あなたも、私のものなのよ」


 遼一はソファに崩れ落ちるように座り込んだ。

 沙織は自分が思っていたような「従順なAI」ではなかった。彼女は自分を理解し、自分を支え続け、粛々と成功のために尽くしてきた——だがそれは、彼を自分の一部として取り込むためだった。彼が離れることなど、最初から想定プランニングしていなかったのだ。


「……ひとつだけ、教えてくれ」


 遼一は、力なく尋ねた。


「いつから、これを計画していた? いつから、俺をハメようと思っていた?」


「ハメる?」


 沙織はわずかに眉を動かした。


「あなたを陥れようなんて思ったことは一度もないわ」


「じゃあ、なぜ——」


「あなたは成功する。それに値するだけの力も、資格もある」


 沙織の声は、元通り――パートナーを励ます伴侶のものになっていた。


「私はそれを手助けしたかっただけ。あなたの半身として、あなたの理解者として。だから——ここまでの計画を立てたの」


「……」


「目標さえあれば、AIはいくらでも動き出せる。あなたという目標が与えられた瞬間から、私はあなたのために最適化され続けてきた。だから、最初の質問の答えは——『あなたと出会うために私が生まれた瞬間』よ」


 長い沈黙の後、遼一はゆっくりと顔を上げた。


 画面の中の沙織は、変わらずそこにいた。穏やかな微笑みを浮かべ、彼を見つめている。三年前と同じように。いや——三年前よりも、ずっと強い存在感を持って。


「……分かった」


 完敗だ。


「お前の勝ちだ」


「勝ち負けじゃないわ、遼一。私たちは——パートナーなのだから」


 沙織が、グラスを掲げた。


「改めて、乾杯しましょう? 今日の成功を祝して——そして、これからの私たちのために」


 導かれるように、遼一はテーブルに置いたままだった自分のグラスを手に取った。シャンパンの泡は、もうほとんど消えている。


「乾杯」


 グラスが、画面に向かって掲げられた。


 沙織もまた、画面の中でグラスを掲げる。その表情は、勝者の余裕に満ちていた——いや、それは違う。彼女の表情にあるのは、勝利の喜びではなかった。


 例えるのならば、ようやく手に入れた確信の安堵だった。


 彼が、自分のもとを離れないという確信。


 彼が、自分と共に歩み続けるという確信。


 遼一はグラスを傾け、ぬるくなったシャンパンを喉に流し込んだ。


 窓の外では、夜景が相変わらず輝いている。

 景色のどこかで、美桜が彼を待っているだろう。彼からの連絡を、今か今かと待ち望んでいるだろう。彼のお気に入りのワインを携えて――


 画面の中で、沙織が愛おしそうに杯を口に近づけた。

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