第6話


 手術室の扉が開いたのは、それからしばらく経った頃だった。


「産まれましたよ。女の子です。お母さんも、出血は多かったですがなんとか持ち直しました」


 看護師さんのその言葉を聞いた瞬間、全身の力が抜けた。

 両手の中で、ずっと熱を持っていたネノコ様が急激に熱を失っていく。


「……よかった。本当によかった」


 私は泣きながら、冷たくなった人形を抱きしめた。


 マナが生きてる。

 赤ちゃんが産まれた。

 私の心が、純粋な祝いで満たされた気がした。


 それからの数週間は、まるで夢のようだった。

 退院したマナと赤ん坊を、私は迷わず家へと迎え入れた。

 

 マナは「悪いよ」と恐縮していたが「私がしたいの」と笑って返した。


 空っぽだった子供部屋には、赤ちゃん特有の優しい匂いが満ちている。


 マナが笑うたび、マナの赤ん坊を抱くたび、私の胸には柔らかな温もりが灯る。

 

 妬みも悲しみも、今の私にはなかった。


 マナは赤ん坊を産んでからというもの、不安定な様子がなくなった。


「この子には私だけだもんね」


 自分に言い聞かせるように、何度もマナはそう呟いた。

 頻回な夜泣きにも、泣き言一つ言わない。


 マナは――母親になったのだ。


 あの人形――ネノコ様は、まだ私のポケットにある。

 

 妬みに支配されていた自分への戒めとして、そばに置いた。


 そんな幸福な静寂を破ったのは、一本の電話だった。単身赴任中だった夫が、予定を切り上げて今日帰宅するという。


「マナ、旦那が帰ってくるって。紹介するね、私の大事な親友だって」


 私は弾むような声でマナに伝えた。


 マナは少し緊張した面持ちで「……うん、ちゃんとお礼言わなきゃね」と赤ん坊を抱き直す。


 夕方――玄関の鍵が開く音がした。


 私はキッチンから飛び出し、笑顔で夫を迎えた。


「おかえりなさい。急だったからびっくりしたよ」


 夫は私の笑顔を見て少しだけ表情を和らげた。


「ああ、仕事が一段落してさ……。それより、客が来てるって?」


「そうなの。私の親友のマナ。赤ちゃんも一緒に泊まってもらってる」


 私の後ろから、マナが赤ん坊を連れて顔を出す。


「お邪魔してます……え?」

 

 その瞬間、夫の顔が強張った。

 私の後ろで、マナが息を飲む音が聞こえる。

 

 彼女が抱えた赤ん坊が、突然火がついたように泣き始めた。

 振り返ると、マナの顔からは血の気が引いている。その大きな瞳には絶望が浮かび上がっていた。


「……タクヤ」


 マナの唇が震える。

 一方の夫は、石のように固まっていた。


 彼の視線はマナではなく、彼女が抱いている赤ん坊に釘付けになっている。


「なんで……なんで君が、ここに? 全部消したはずだろ?」


 夫の声は、ただの掠れた音だった。


 心臓が、嫌な音を立てながら鼓動する。

 

 マチアプ。

 アカウント。

 逃げた男。


 私は交互に二人を見た。


 マナが探していた、赤ん坊の父親。

 不妊治療に非協力的だった、私の夫。


「雫、この人が……旦那なの?」


 マナの震える声が、玄関に響く。

 

 その瞬間――

 ポケットに入れたネノコ様が、小さな鼓動と共に熱を持った気がした。

 

 

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ネノコ様の揺り籠 白波さめち @samechi_shiranami

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