第7章. 運命は変えるためにある(3)
短い睨み合いのあと、アルブレヒトは誰にも気づかれぬほど小さく息を吐いた。
この場で外国の使節にいつまでも噛みつけば、自分の威信を削るだけ。
それは理解している。
――遊び好きなパーティー狂いで、数ヶ月ごとに男を乗り換え、今やオブロフ社交界で彼女と関わった男は十人を超える、と聞いたが。
そんな噂は、帝国に来てからの彼女の行動と相まって、『男好きの放蕩者』という印象を決定的にしていた。
すでにマイナスに近かった評価は、さらに奈落まで落ちていたはずだ。
だが、直接会えば違う。アルブレヒトは確信した。
頭の中に花畑しかない馬鹿に、あんな瞳はできない。
――だとすれば?
……これまでの奇妙な行動は何のためだ?
今になって演技をやめた理由は?
エーリヒ目当てではなかったのか?
わざわざアウフェンバルトまで来て、何を狙っている?
わからない。
だが確信できる。
――この女は、腹立たしいほど読めない。
うっとうしい。
気に入らない……。
それ以上に、気になって仕方ない自分が気に入らない。
冷えきった空気の中、アルブレヒトは部下を従えて壇上へ上がる。
軽く鳴らした手拍子がホールに響いた。
パチッ――。
恐れまじりの視線の中で、彼は唇の端を巻き上げた。
「今回のリューネの日は、我が戦勝宴会も兼ねている。
記念に小さな余興を用意した。
……存分に楽しむがいい」
余興というが、彼の口元に宿ったのは冷たい嘲笑だった。
合図とともに、両腕を縛られた男が引き出される。
血と汚物で汚れてはいるが、かつては華やかだったろう服。
髪はアルブレヒトと似た金だが、くすんで見える。
引き出された男が壇の下に跪かされると、ざわめきが広がった。
「三皇子、三皇子だ!」
「内戦で二倍の兵力を持ちながら敗れて……、国外逃亡の途中で捕まったのよ!」
誰かは顔を背け、誰かは新しい権力に媚びようと、必死で拍手をおくった。
アルブレヒトが手を上げると、水を打ったように静まり返る。
「どうだ、諸君? 見覚えのある顔ではないか?
数ヶ月前までは、帝国で最も高貴な座に就くと豪語していた男だ」
「貴様、アルブレヒト!」
髭も剃らず、みすぼらしい顔を上げた男の目には、なお軽蔑と憎悪が満ちていた。
「卑しい血が流れる貴様ごときが!」
「これは失礼、諸君のご容赦を願おう」
アルブレヒトは無感情な目で見下ろすばかりだった。
「口を塞がなかったのは失敗だったな……。
犬には口輪をはめるべきだった」
「四肢を引き裂いて死ね、アルブレヒト!
俺には高貴な血が流れているんだ!
卑しいお前が俺を犬呼ばわりするとは!!」
「この有様になっても、状況を自覚していないのか、クラウデルン?」
「卑しく生まれたせいで、高貴な血筋が守るべき名誉も知らぬのか?
たとえ運が味方せず、このような結果になったとしても、俺は帝国の第三皇子であり……お前の兄だ!」
「……兄だと? ふっ……はははっ!」
静まり返ったホールに、アルブレヒトの嘲る笑いが響き渡った。
「俺を弟とも認めず、口を開けば『卑しい血』だと罵っていたのは、他ならぬあなたではなかったか。
そうしておいて、今さら兄として扱えと?」
「そ、そうだ!
俺はお前と違って、高貴な血のみを受け継いでいる!
皇室の血を卑しいお前が継いだなど、認められるものか!
そもそも――。あんな汚らわしい娼婦から生まれたお前が、本当に父上の子だと……」
ガキッ!
「くっ……ううっ!」
「そうだな。
あなたはいつも、俺を侮辱するだけでなく、亡き母上や姉上までも、足を開くだけの売女だと罵っていたな」
その言葉を吐きながらも、アルブレヒトの口元には静かな笑みが浮かんでいた。
「卑しい、卑しいと叫ぶが……。
その下劣な口の方が、よほど卑しくはないか、クラウデルン。
まるで今のあなた自身のように」
「ぐっ……」
「運が味方しなかったと言ったか?とんでもない。
あれほど多くのものを手にしておきながら、まともに使いこなせず、このざまだろう。
何も持たなかった卑しい俺に、あっさり負けたな……『兄上』」
「そ、それはお前が卑劣な手を使ったからではないか!
汚いアルブレヒト!」
「卑劣? 誰が?
……ああ、民の命を守るために平和交渉を持ちかけた席で、裏から襲いかかって殺そうとした――あなたの話か?」
「黙れ、黙れ!」
アルブレヒトは首を振り、短く笑った。
今すぐ剣を抜き、その舌を抉り出したい衝動がこみ上げる。
だが、吸い込んだ息を押しとどめた。
――ここは外国の使節も列席する宴の場。怒りを曝すわけにはいかない。
――そうだ。
簡単には死なせない。
十五年耐えた。待った。
あの地獄を、一度で終わらせる気はない。
母上……。
弱い母上をいたぶり抜き、最後には毒殺した首謀。
それがこの三皇子の母だということを、誰もが知っていた。
ただ、彼女が外国の王女という立場であったがゆえに、誰一人口にすることはなかっただけ。
彫刻のように整いながらも荒い手が、ワイングラスを高く掲げた。
「吠えるのに必死で、さぞ喉も渇いているだろう?
なかなかのワインだ。
存分に味わえ、『兄上』」
とくとく――。
静まり返った空間に、赤い液体の細い流れが落ちる音だけが響く。
頬を濡らして下りてきたワインが、大きく揺れる喉仏を伝ってさらに下へ向かった。
服の胸元へ染み込み、赤い色がじわじわと広がっていく。
まるで顔と体が血にまみれたかのように。
「くっ、アルブレヒト! 俺を辱めるな!
……お前は皇族の誇りもないのか!」
「誇り? ……はは!
十年前、あなたはエーリヒを気絶するまで鞭うっていたな。
『助けたければ、その卑しい頭を地に擦りつけて頼め』と言っていた。
……あの時、あなたは俺の誇りを守ってくれたか?」
「……!」
――急いで三皇子の宮殿に向かった時のことは、今も鮮明に覚えている。
『なんだ、まだ息があるじゃないか?よこせ。
今度は俺が直接やってやる!』
『で、殿下、もし間違って死んでしまったら……』
『それがどうした? あんな奴一人死んで誰が困る?
俺は皇子だ!まず生意気な目玉から抜いてみるか?焼きごてで炙るのもいいな』
今でも鼻腔にこびりついている、あの日の血の匂い。
血まみれになっても反抗すらできず、痛みに震えるエーリヒ。
その横で、一方的に暴力をふるいながら嘲笑していたクラウデルン。
十歳だった。
唯一の友を失う恐怖に、誇りなどすべてかなぐり捨てた。
言われた通り、頭を地面に押し付け、声を枯らして頼み込んだ。
『お願いです……! エーリヒを、助けてください、兄上……!』
『黙れッ! 誰に兄上だ、下賤の分際で!』
『……お願い、いたします、皇子殿下』
『は? はは! やっと分を弁えたか?
二度と兄上などと呼ぶな。殺したくなる』
力尽きたエーリヒを支えて帰った。
付き従う者もなく、ただ二人きりで。
『エーリヒ』
『申し訳、ござい、ません……。アルブレヒト、殿下……』
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殿下、お断りいたします ~私は自由を求める魂なので~ 彩月ノヨル @noyoru
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