第7章. 運命は変えるためにある(2)

『よく』にだけ、鋭く力がこもる。

 礼儀は保っているが、普段よりも冷ややかな声。


 その声音だけで、歓迎していないことは誰の耳にも明らかだった。


 だが、目の前の女性は全く気づいていないように、朗らかに笑って応じる。


「高貴なる白金のローゼンハイトに栄光を! 本日、皇子殿下の尊顔を拝し、光栄です。オブロフから来たエカテリーナ・アースナヤポリャーナ・イリィチャと申します。どうか気軽にエカテリーナとお呼びください」


「……!」


 一見すれば無礼にも見える挨拶。

 アルブレヒトの声に肩をすくめていた人々が、一斉に息を呑む。


 礼法を破ってはいない。

 だが、青い悪魔と呼ばれる七皇子、今や帝位目前の男だ。

 こんなにも明るい声をかけた者がいただろうか?


 冷たい沈黙が落ちる。

 表情を取り繕えず目を見開く者たち。

 その中で驚きが薄かったのは二人だけ。


 数日間エカテリーナを見慣れたエーリヒと、常に冷静な参謀ユルゲンだ。


 アルブレヒトの眉がわずかに動いた。


 強烈な予感がした――この女のせいで腹を痛めることになる、という強烈な予感が。


 それなのに、ごくわずかに視線が逸れず、胸の奥に小さな熱が残った。


「……そうか。帝国の宴を楽しむがいい、オブロフの使節」

「恐れ多いことです、皇子殿下。やはり噂通り、お優しいのですね」

「……はっ!?」

「ほう……」


 本当に嬉しそうに、にこやかに笑うエカテリーナ。


 その瞬間、誰かの小さな悲鳴が空気を切った。

 すでに凍り付いていた会場は、さらに冷たく沈黙する。


 刀身のように鋭いアルブレヒトの瞳が彼女を射抜く。

 しかし、その視線を真正面から受けながらも、彼女は微笑を崩さなかった。


 フランツは心の中で感嘆した。


 ……アルブレヒト殿下に『噂通りお優しい』だと?

 高度な皮肉か、単なる無鉄砲か。

 だが、殿下のあの視線を受けて平然としているなんて!――並の女じゃない。


 乱れた銀髪を耳の後ろに流しながら、フランツはふと唇の端を上げた。


 ――面白い。

 舞踏会の喧騒の中で、ほんの少し長く彼女を目で追ってしまう自分に気づく。


 しかし参謀さんぼうユルゲンの考えは違った。

 彼は表情を変えず、眼鏡を押し上げる。


 ……何も知らない未熟者にできることではない。

 むしろ――


 世間で言われるように、美男子や華やかな物ばかりを追いかける愚か者なら、とっくにアルブレヒト殿下の威圧に押し潰されていただろう。


 笑うどころか、立っていることすらできなかったはずだ。


 あれほど堂々と殿下を見据えられる。

 それは、単なる放蕩者ではない証拠。


 バルデマーがユルゲンと目を合わせる。

 小声でささやいた。


「皇子殿下の命令を破って、エーリヒと共にここまで来た……やはり並じゃないな」

「ああ、その通りです」


 ユルゲンの冷たい視線が、エカテリーナをなぞるように動く。


「一見は恭しい。しかし態度は堂々としている。

 賓客に許されるギリギリの線を、完璧に突いている……」

「うむ」

「今日は戦勝の宴ですから。

 皇子殿下が賓客である自分を咎めにくいと踏んだのでしょう。

 攻め時を見極める勘も、相当なものです」


 そして、視線を引きつけながら追及をかわす、あの明るい微笑みまで。


「さすが、狸の中でも特に狡猾と噂されるオレスキーの娘だ」


 ――要注意。


 参謀ユルゲンは無表情のまま、エカテリーナへの評価を塗り替えた。

 会場の視線は依然として、二人の男女に釘付けになっていた。


「……」

「……」


 不快な沈黙の中、アルブレヒトの冷たい眼差しが、彼女の瞳を正面からとらえた。


 ――エカテリーナ、だったか。


 オブロフが王政だった頃、帝国に嫁いだ皇后の中にもいた名前だな。

 オブロフ統領オレスキーも、古い王家の傍系だと聞く。


 シャンデリアの光を受け、青緑色の瞳が多彩な輝きを放つ。

 一瞬、視線を外しそびれた。

 異様なほど鮮明で強烈な瞳だったから。


 ……今すぐでも牢に放り込みたくなるほど生意気だが、その度胸だけは認めてやろう。


 香水の匂いを漂わせながら扇子ばかりあおぐ貴婦人たちの濁った瞳とは違う。

 あの女は、自分の視線を正面から受けても、一切怯まずに見返してくる。


 その煌めく瞳にあるのは、敵意でも羨望でもない、見慣れぬ感情。


 ……好奇心?

 いや、それだけではないような……。


 着ている服も噂とは違った。


 寒さを嫌って毛皮に包まれた帝国の女性たちとは対照的に、白く滑らかな肩と腕を惜しげもなくさらす銀灰色のドレス。

 華美ではないが、澄んだ清潔感と、目を引く静かな美しさを放っていた。


 裾には灰色の毛皮が豊かにあしらわれ、出自を示すようだ。

 そして首には控えめに輝く真珠のネックレス。


 そのネックレスが地味だと考えてから、アルブレヒトはふと視線を外す。





 ***



 エカテリーナは、相変わらず微笑んでいた。


 ……わあ。

 本当に噂どおり。北極の氷よりも冷たい男。


 私はできるだけ平然と演技しながら、冷や汗をかいた。


 ただそこに立っているだけで、周囲の空気をまるごと凍らせてしまうんだ。

 恐ろしい。


 ぴたりと体に馴染んだ礼装軍服は、まるで彼の肉体の一部のよう。

 痩せているように見えて、その下には鍛え抜かれた力強さが隠れているのがわかる。


 整いすぎた顔立ちは、並の女性よりずっと美しいのに、不思議と女性的な柔らかさは感じさせない。

 鋭い顎のラインと、研ぎ澄まされた剣のような気配のせいだろうか。


 気づけば、その鋭く炯炯とした瞳に目を奪われ、無意識に唾を飲み込んでしまった。


 ……肖像画が美化だなんて思ってた自分を反省します。

 あれは現実の方がずっと危険な美貌だ。


 しかも、その絶世の美男子が、熱烈な視線をこちらに向けている。


 普通なら嬉しい場面のはずなのに……全然嬉しくない!

 好意なんて一粒も混ざっていない、氷の刃みたいな視線が容赦なく突き刺さってくるのだから。


 痛い。ほんとに痛い――!


 助け船を出そうとしたエーリヒも、殿下の『口を出すな』と目で睨みつけたため足を止めた。


 ……はい、孤立無援確定。


 はぁ……。

 イメージ管理など必要ないのか、この人?


 ――いや、する必要ないか。

 どうせ皆粛清して皇帝になる男だ。


 冷や汗を背中に感じながらも、私は最後まで図太く、知らんぷりを貫いた。

 むしろ逆に、より明るい笑顔を向けてやる。


 ――さすがに、笑顔を返さず毒を吐くなんてしないでしょ?


 ……と思ったら、あっさり顔を背けられた。


 私はビビっていながらも、むっとした。


 ちょっと、ちょっと!

 見たくないものを見たって顔でそらすの、わざとですか?

 いくらこちらが意図したことでも、胸に刺さるんですよ?

 ねぇ? あの? 皇子殿下!?

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