10.風がなき

 開店祝いに贈られる、大きな立て看板のようなフラワーギフトがある。

 自立式の台に生花を豪華に飾ったそれは、「スタンドフラワー」と呼ばれ、新しい門出をその彩で祝福する。


 白の胡蝶蘭を加えて、青バラやパープルのデルフィニウムを基調に集まった花束に、「祝 開店 靴工房 風」のプレートが添えられている。


 特別な思い入れがあるのか、加賀さんというお客様は終始にこにこしていた。

「出来の悪い子たちでね」と言いつつも、自慢の生徒さんであることは、明らかだった。


 運命というものは、思い付きで随分と思い切ったことをする。

 トラックから降りて花を下ろそうとして、表に出てきた彼を見て、すぐに分かった。彼が、彼であること。そしてそれが、彼も同様だということを。


 バンダナ状に頭にタオルを巻いて、身体が大きくなったきみは、それでもあの頃と変わらない。変わっていなかった。私には、そう見えた。

 一つ違うのは、左手の薬指に光る、銀色の輪。


「・・・・・・お店、開いたんだね」


 ユウくんの、とは、言わなかった。


「ああ・・・・・・。花屋になったんだな」


 カコの、とは、言われなかった。


「おめでとう」と言ったときの私は、ちゃんと笑えていただろうか。

 目の前の、男の子だったきみがしているような顔を、ほんの少しでも、してないだろうか。


「あ、お疲れ様ですー! 加賀先生からですよね?」


 お店のドアが開いて、ショートカットの作業着姿の女性が姿を見せた。充実した職人の笑顔が、私にも向けられていた。


 気持ちに、まったく嘘がなかったわけじゃない。それでも私は、伝票を受け取りながら、きみが夢を叶えたこの日を、覚えておこうと思った。


 帰りのトラックの中で、ふとあのノートのことを思い出した。

 

 「風が鳴き 独りよがりのきみさえも 月が満ちても 苦しい夜は」


 おめでとう。きみの夜は、明けたんだね。

 私もだよ。強くなったよ。頑張ってるよ。


「泣くんじゃないんだよ。鳴くんだよ。何でもしてやるって、感じするじゃん」


 そう言って、それいいねって、無邪気に笑った。笑いあえた。


 あの二文字で、私はあなたに、出会えたから。




 遠ざかっていく軽トラを見送って、俺たちは工房に戻った。まだ真新しい作業台も棚も、木槌や銀ペン、包丁も。ここが自分の場所だと、改めて告げていた。


 あれが、あのカコか。


 黒のエプロンにブルーの作業用パンツを履いて、自分ほどの大きさのある花の台を抱えてやってきた姿は、あの頃の、触れれば散りそうな弱々しさとは、別人だった。

 手は水仕事のせいか荒れていたし、体幹がずいぶんしっかりしたように思う。そして何より、満ち足りた、強く輝く目をしていた。


「ありがとう」としか言えなかった俺に、それでも彼女は笑って言った。


「おめでとう」と。


 あの時何もかもを投げ出しかけた俺が、目の前の景色に気づき、今度こそ、俺も頑張ろうと思えたのは。


 彼女を、裏切ってしまったから。


 それでも彼女のあの言葉には、真実があった。そう考えてしまうのは、都合のいい願望だろうか。あのころの距離を、俺はきっと、忘れ物のように置き去りにしてしまった。取り返したくて、だから頑張れた。


 すっかり無骨になってしまった俺の手を、窓から一筋の風が撫でた。


 さよならの声が、聞こえた気がした。


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二文字だけで、会いたいきみへ。 西奈 りゆ @mizukase_riyu

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