椿の影

 香歴千五百二十三年 椿静月(一月)一日 椿静陽(零刻半)

 神殿島 第三 姫寮環

 椿の影 〈苺の余香、白椿の静けさ、鐘の尾、紅の影〉


 香ひらきから半刻。室内には淡い苺の残り香が漂う。そのまばゆさがまだ残っている証のようで、くすぐったい誇らしさと、どこか落ち着かない心地が一緒に胸のあたりで行き来していた。月光が祈祷書の頁に淡く落ちる。窓の外の白椿は寒い中で凛と咲く。セラフィナは椅子の背に指を添えて姿勢を整える。甘さがゆるやかに満ちていく。手首の白馬のたてがみの腕輪があたたかい。


 廊の突き当たりで足音が生まれ、重く、間の詰まった響きが短い石廊を渡る。

 扉が叩かれた。静寂しじまがひび割れ、金具が鳴り、扉がゆっくり押し開かれる。視界がぼやける。部屋の音が弱まる。その隙間に、樹脂の鋭さと鉄の冷え、古い蜜のような粘りが差し込んできた。


 ――どうやって、ここへ。今夜は選聖部直属の守護隊が見回りを強めているのに。


「入る」

 低い、有無を言わせぬ一声が落ちる。血の流れが止まり、胸がひやりと縮む。指先の熱が引く。


「……お父、さま」


 調停府長官ダリウス=ラ・リュミエール。扉枠をほぼ埋める肩幅が影を作る。外套の留め金が月光を弾く。片手に何かを携え、靴底が石を低く鳴らす。まなざしは祈祷書を掠め、セラフィナに向いている。――けれど、遠く感じた。右耳へ髪を払う癖を探すのは、彼のいつもの癖。香が薄く酸を帯びる。父が、いつもの父ではないと、何かが警告を鳴らした。


「お父さま……今は一人で過ごす時間です。お帰りください」

 言葉に苺が薄く力を貸してくれた。震えそうな声の底に、かろうじて細い反発の芯が通う。

 靴音が一歩深まる。部屋がひと回り狭まっていく。樹脂と鉄の向こうに古い蜜がわずかに満ちる。


「成人――おめでとう」

 祝う響きよりも、何かを確かめる調子に聞こえた。

 みぞおちがきゅっと締まる。

 祝われた嬉しさと、その手に掴まれたくない怖さを一緒に浮かび上がらせた。


「ほう」

 視線がセラフィナを捉える。

「苺が……見事にひらいたな」


 セラフィナはダリウスの手のものに視線を止めた。深い紅の椿。苺がすっと引いていく。

「お父さま……それは……」


 窓辺には清らかな白椿。

 彼の手の椿は血を思わせる紅。香ひらきの夜は白のはずなのに、紅。


「この季は――厄介だ」

 手にある赤椿を見下ろし、苦い吐息を落とす。

「椿が至るところで息をしておる。生々しい……神の残り香だ」

 無造作に椿が卓に置かれる。勢いで花だけが外れ、卓の縁で音なく止まる。

「この椿が――今夜、お前を見ている」


 いつもは優しい色の赤椿が、とても禍々しい。

 赤椿は嫌いではないのに、今夜はその紅が嫌な色に見えた。


 彼はこちらを見ているのに、視線が交わらない。

「ところで」

 外套の裾が床を擦って音が伸びる。距離が詰まってくる。


 セラフィナは一歩退く。祈祷書の角が胸の高さで小さく震えている。背が壁の冷えを拾い、吸う息で胸の内が痛む。


「どうあっても――聖女候補を望むのか」

 心で固い音がひとつ跳ね、数刻後の三儀式告知がよぎる。

「……はい」

 声にした途端、手のひらがこわばっていく。


「エヴァリエだけで足りる」

 ひと息、すくむ。

 家より神殿を選ぶ自分の答えが、その場で切り捨てられてしまうかもしれない怖さが、一気に冷えて広がった。


「家にも――人が要る」

 言い回しは理をまとっている。裏に固い意図がある。

「お前には家に戻ってほしい」

 その瞬間、ようやく目が合う。

「戻ると言うなら――後はなんとでもなる」


 その重さは知っている。お父さまなら、神殿の定めさえ動かせる。言葉が擦れる。ひとつ、間を置く。


「いえ」

 首を振る。

「わたしは――神殿にいたい」

 顔を上げる。

「聖女候補になって、選定を受けたいです」

「決められぬなら」

 ダリウスが一歩踏み出す。

「決められるようにさせてやろう。告知の前に」

 低い一言が空気を押し下げる。そして彼は踏み出してきた。


 一歩目。

 足音が近づき、体と香が一気に強張る。下がる。

「お父、さま……?」


 二歩目。

 影が床へ広がり、月明かりが弱まっていく。背中が冷たい。声が震える。

「お願い……さがって……」


 三歩目。

 手を伸ばせば届く距離。肩が強張り、手のひらの力が抜けていく。祈祷書が滑り、革の重みが床を打って跳ねる音が遠い。

 灰青の瞳が目前――顎を上げなければ見えない近さ。息が止まる。静けさが肌の冷えに重なる。


「椿の夜は――雪の底でまだ息をしている」

 視線がセラフィナの首元へ落ちる。

「香を……確かめたい」

 布擦れ。樹脂の薄い膜が近づく。


 セラフィナは両手を鎖骨の中心に重ねる。手のひらのぬくもりがじんわり広がっていく。

 彼の指が、セラフィナの手のひらを割り、喉のくぼみに触れる。

 接触の瞬間、自分の香が震え縮こまる。父の意思が入り込んだよう。舌の裏に冷たい金属の残像が残る。混ざった香が下へ降りる。彼の指が冷たい。


「……リリカ」

 初めて父の口から聞く母の名。なんて切ない声。視界が滲む。母の名が喉で凍りつく。


「苺の香……」

 声が低くなる。

「甘く、清らかだ。あの夜を――思い出す」

 視線がセラフィナの髪へ移る。

「お前も、あの夜のように――」

 乾いた余韻が小さく残る。


 風もないのに花首が床に転がる。月光に濡れて血のような赤。卓に残されたのは茎だけ。

 窓辺の白椿が視界の端に映る。純白で清らかな花。胸が熱く跳ねた。


「だめっ!」

 熱が弾け、左手が走る。

 爪先が頬をかすめ、繋がりが断たれていく。すぼまっていた考えがほどけ、空気が戻る。

 薄い音。頬に一筋の朱。耳に響きが残り、部屋の輪郭が遅れて戻ってくる。


 沈黙が落ちる。

 彼は頬に触れた指先を見る。ゆっくり瞬く。

「……お前は」

 重苦しい空白。

「拒否できるのか」

 彼の掠れた声。


 灰青の瞳に、驚きと屈辱が走ったように見えた。その底に、長い絶望めいた影も――。


「そうか」

 焦点が遠のく。

「お前は……リリカとは、違うのだな」


 胸で苺が細く立つ。自分の選択だけは守りたいと、細いながらもまっすぐに主張していた。セラフィナは震えながらも、毅然と視線を返す。


「わたしは――わたし自身です」

 セラフィナは父を見据える。

「お母さまでは、ありません」

 その一言で、彼の最後の支えが砕けていくのが見えるようだった。


 ダリウスは赤椿を見下ろす。灰青の瞳に冷ややかな光が宿る。


「椿の夜も……」

 赤椿を見つめる。

「再び繰り返すことは――できぬか」

 低い独白が夜に沈む。長い沈黙。


「椿の夜は、二度とは戻らぬ」

 視線がセラフィナの腕輪へ落ちる。

「血だけが――まだ道を覚えている」


 セラフィナは何かが終わった気がした。

 室内の温度がひとつ下がったように感じる。彼の背がひと回り小さく見える。視線がセラフィナの袖口から覗く腕輪へ落ち、侮蔑の色が差す。


「……ああ」

 すぼめた目が腕輪に固定される。

「厩舎の蠅が」

 毒のある呟き。

 名指しもされない毒に反応しかけた怒りが、父の影を見た途端、何も言えなくなり心の底で沈んでいく。


 彼の踵が返る。裾が床を擦って遠ざかっていく。

「お前の香は――危うい」

 ダリウスは扉に手をかける。

「私だけの香でなければ、お前は神の証として――世界に奪われる」

 言葉を残して、扉が薄い音とともに閉じられた。


 残された空気が沈み、衣の縁に静けさが貼りつく。


 セラフィナは壁から背を離すが、膝が抜け、床に座り込んでしまう。

 胸が詰まり、肩が細かく震えている。涙が先に落ちる。みぞおちが冷え、指先が震える。


 膝を抱え、息を整えていく。自分の香をゆっくり吸い込むと、甘さの底が少し固まっていく気がする。さっきまで父に乱された自分を、何とかその甘さで拾い直していくようだった。鼻の違和感が遠のく。


 床の赤椿は色のみが残り、香気はもう弱い。代わりに苺が少し高く立ち、支える。もう父の香ではなく、自分の香で立っていられると、小さく確かめる。


 喉の違和感が残っていないか探る。床を押して立ち上がる。震えは残るが、まっすぐに歩ける。

 窓辺へ。白椿の前に立つ。月光が頬を透かす。花弁の縁がわずかにそよぎ、息と合う。


 その静寂を、新たな音が震わせた。


 鐺――。


 一打ち。高く、澄んだ響きが夜気を裂く。先ほどの重厚な祓いの音とは違う。もっと鋭く、冷たく、けれど確かな始まりの音。


 椿静陽(一刻)。

 神々の空白である“零”が満ち、一日の最初の呼吸を始めた合図。


「……わたしは」

 セラフィナは白椿に手を伸ばす。

「わたし」


 小さく、しかしはっきり。声は弱くても消えないでいる。

 数刻後には三儀式告知の典がある。呼ばれるだろう名と、歩く回廊がある。祈祷書は床に落ちたまま。けれど聖句は胸に残っている。


 落ちた花首を拾い、白から離して置く。深紅に引きずられないと指先で誓う。

 苺香がひそやかに変わる。甘さの底に透明な芯が通る。

 さっき父に向けて言った『わたしはわたし』という言葉を、今度は自分の側から言い直す決意がそこに形を持った。


 鐘の余韻は遠のき、夜は深くなる。空が星の色に戻る。白椿はただ白い。


 腕輪に触れる。編み目が皮膚になじむ。

 祈祷書を拾い、行の始まりに指を置く。目を滑らせず、ひとつずつ読む。紙のざらりが心を落ち着かせる。


 甘い香と白い香、石壁に潜む鐘の残りが淡く重なっていった。

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2026年1月2日 20:00
2026年1月3日 20:00
2026年1月4日 20:00

香誓の王国譚(星読の夜、苺の暁) 丈王 音羽 @The_Queen_Of_Hearts

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