香ひらきの夜
香歴千五百二十二年 花忘月 三十日 薔荊陰(二十三刻半)
グランメル王国 王都アストリア 神殿島 第三 姫寮環
香ひらきの夜 〈鐘の余韻、白椿、月にほどける苺の初香〉
尖塔の鐘が星空へ音を解き放ち、先刻の余韻が、まだ夜気に微かに残っている。
最後のひと打ちは長い。静けさがわずかに揺らいで、すぐに落ち着いていく。
セラフィナは月明かりの寝台に腰をおろす。
薄絹の寝衣が肌にやわらかく触れ、白金から紅藤へ変わる髪が肩でさらりと流れる。左手首には、白馬のたてがみで編んだ細い腕輪。夕刻、愛馬ソレイユの厩にそっと置かれていた。
誰が作ったかは、想像がついている。触れると、編み目のぬくもりが指先へ移る。緊張がほんの少しゆるむ。
窓辺には白椿の澄んだ匂い。その奥に、苺の香がうっすら混じる。まだ頼りない香だけれど、自分の内から立ち上がってくるのがわかると、思わず息をのんだ。
成人の刻まで、あと少し。手のひらが汗ばみ、視界がかすかにぶれる。期待と恐れが同じ重さで並んでいた。
「……こわい」
思いが胸を刺す。苺香が胸の奥で浅く震え、怖れの形をそのままなぞる。
今夜、香がひらけば、子どもの守りは外れる。
今まで当たり前だった距離や触れ方が、きっと変わる。
指先が腕輪を探し、指腹で確かめるようになぞる。編み目の粗密が皮膚に触れ、そこだけあたたかさが増す。苺がその温度に寄り添うようにたゆたう。心細さをかろうじてつなぎとめた。
窓を開く。
冬の夜気が頬に触れ、髪がかすかにそよぐ。冷たさがざわめきを少しずつ澄ませていく。吐く息は薄く白い。
王都の灯が水面に細かな粒となって散る。香塔の尖塔に薄紫の星読の灯がひそやかにまたたく。高い空に寄り添う二つの微かな光――
きっと同じ空の下で、今年十八を迎える者たちがそれぞれの部屋でこの刻を待っている。
そう思うと、心がおだやかになる。苺がかすかに息づき、ひとりではないという思いが細く灯った。
神殿の大鐘が深く鳴りはじめた。
鐺――鐺――鐺――
始鐘。
音が硬く入る。蕾が開き、若い香が細く立つ。苺がふっと混じり、腕輪がわずかにぬくもる。
鐺――鐺――鐺――
揺鐘。
息が落ち着きはじめる。苺はまだ薄いまま、怖さの角を少し丸める。
鐺――鐺――鐺――
澄鐘。
鐘の低い余韻が支えになり、白椿の清さが重なる。苺がそこへ定まり、自分のものだと分かる。
鐺――鐺――鐺――
交鐘。
肩のこわばりがほどける。苺が白椿と月の冷えに触れ、部屋の空気がひと息ぶんやわらぐ。
鐺――鐺――鐺――
温鐘。
苺が蜜の厚みを帯びる。その甘さが、ひとりで抱えていたものをほぐす。
鐺――鐺――鐺――
彩鐘。
指先がわずかに震え、髪先が淡い紅を拾う。冷えとぬくもりの境がゆるむ。
鐺――鐺――鐺――
護鐘。
あたたかな香りが肌を包み、苺が手のひらへ寄る。守られるだけではないと、ふと分かる。
鐺――鐺――鐺――
映鐘。
目の縁がうるむ。鐘が拍を合わせ、苺がその拍で澄む。泣くほどではない安堵が、そこに残る。
鐺――鐺――鐺――
幻鐘。
肩の重みがふっと抜ける。幼さの惜しさと、新しい喜びが同時に残る。
鐺――鐺――鐺――
転鐘。
足裏が床板の冷えを確かめる。“わたしは、わたし”――その言葉がぶれずに定まる。
鐺――鐺――鐺――
祝鐘。
苺香がやわらかく広がり、部屋を満たす。世界へ差し出すように、誇らしさが小さく灯る。
その瞬間――聖鐘が夜空を貫いた。
雪花陰(二十四刻)の余韻が落ちきる前に、暦は椿静陽(零刻)へ移った。
香歴千五百二十三年 椿静月 一日 椿静陽(零刻)。
王国の統一暦が示す、成人の刻。
光が香に重なり、まばゆさがセラフィナを包む。
体に熱が満ち、産毛が静かに逆立つ。
胸の糸がひとつ解け、月の薄紗が輪郭に降りる。
香がひらく。苺がゆるやかに溢れ出す。
その香は、自分自身をまるごと認めるようなあたたかさを帯びていた。
遠くの光が微かに滲み、細かな粒となって寄せてくる。
「ああ……嬉しい……」
息が小さく震えた。気持ちがじんわりあたたかくなる。
恐れの痕は遠のき、感謝が広がっていく。
青い初々しさが熟し、甘さを増す。やがて、人を包むぬくもりへ落ち着く。
苺がその変化を自分で確かめるように、淡く脈を打った。
言葉にしづらい。
それでも、それは彼女の核。腕輪が小さく応え、編み目の間からあたたかさが伝わる。
「これが……わたしの香……」
深く息を吸う。香が満ち、心の芯が静かに整う。
鐘の余韻はなお続き、香塔の灯は遠く高く瞬いている。
中庭の白椿が月光を浴びて凛と咲く。清められた空気が新しい頁の匂いを帯びる。
指先が落ち着き、握っていた寝衣の端がするりと離れた。
セラフィナはそっと窓を閉じた。
震えが静まり、視線がまっすぐ定まる。苺香が室内にふわりと漂い、細い決意の光が灯る。耳に残る聖鐘の尾が、ゆっくり細くなった。
――これからは、この香と一緒に。
そう思った瞬間、まとっていたものがほどけて落ちる。
これまで身体を包んでいた守りの気配が、香ひらきとともに消える。
床板の冷えはそのまま。足裏のあたたかさは、それを怖れない。
セラフィナは腕輪に口元を寄せ、吐息を落とす。
ひそやかに息づき、白椿と腕輪のぬくもりがそれを支える。
外の灯は遠い。けれど、もう遠すぎない。
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