【結】神話の鏡
神はどのようにして生まれるのか。
この問いに答えるため、本論では八つの類型を検討してきた。虚無からの自己生成、宇宙卵から孵る、性的結合から産まれる、原初の巨人の解体から、神殺し・犠牲から生じる、身体から現れる、言葉・意志で創る、儀式・誓約から生まれる。
世界の神話は、これらの類型を様々に組み合わせて、神々の誕生を語ってきた。そして日本神話は、そのいくつかを持ち、いくつかを持たない。
「持つ」ことと「持たない」こと。その両面から、日本神話の特質が浮かび上がる。
◇ ◇ ◇
日本神話が持つ類型を振り返ろう。
【一】虚無からの自己生成。天之御中主神は高天原に「成った」。誰にも生まれたのではなく、誰かを生んだのでもなく、ただ「成った」。この「成る」という動詞は、日本神話に固有の創造観を示している。能動と受動の中間、創造と出現の狭間にある、独特の生成の論理。
【三】性的結合から産まれる。イザナギとイザナミは交わり、国土を「産んだ」。島々が神々の子として生まれるという発想は、世界的に見ても珍しい。国土は創られたものではなく、産まれたもの。神々と血を分けた存在。
【五】神殺し・犠牲から生じる。オオゲツヒメは殺され、その遺体から穀物が生まれた。カグツチは斬られ、その血と体から神々が生まれた。しかし日本の神殺しには、自己犠牲の崇高さがない。怒りと嫌悪が動機であり、創造は暴力の副産物である。
【六】身体から現れる。イザナギの禊から三貴子が生まれた。イザナミの排泄物から金属・土・水の神が生まれた。穢れから神聖が生じ、身体の分泌物が神格化する。穢れと清浄の弁証法が、ここに極まっている。
【八】儀式・誓約から生まれる。アマテラスとスサノオのウケヒから、宗像三女神と五男神が生まれた。しかしその判定は論理的に破綻しており、世界に類話がない。これは借用ではなく創作であり、皇統神話に意図的に仕込まれた「曖昧さ」である可能性が高い。
◇ ◇ ◇
日本神話が持たない類型も確認しよう。
【二】宇宙卵から孵る。中国の盤古神話には宇宙卵があり、日本書紀は「鶏子の如く」という比喩を借用した。しかし日本神話には、卵が割れて世界が生まれるという物語がない。アカルヒメの卵生神話は新羅起源として「外部化」されている。
【四】原初の巨人の解体から。ユミルやプルシャの遺体から世界が形成される神話は、印欧語族に広く分布する。しかし日本神話には、この類型が存在しない。カグツチの遺体から神々は生まれるが、「世界」は生まれない。
【七】言葉・意志で創る。「光あれ」と言えば光が生まれる。この一神教的な創造観は、日本神話には存在しない。言霊の観念はあるが、それは「影響」の力であって「創造」の力ではない。
◇ ◇ ◇
持つものと持たないもの。この対比から、何が見えてくるか。
第一に、日本神話には超越的な創造神がいない。
世界の外から世界を創る神、言葉一つで存在を呼び出す神、巨人を殺して世界を作る神——これらはすべて、世界を超越した位置に立っている。彼らは世界の「外」にいて、世界を「作品」として創造する。
日本神話の神々は、世界の「内」にいる。彼らは世界とともに「成り」、世界を「産み」、世界と一体化している。創造者と被造物の分離がない。神と世界は連続している。
第二に、日本神話は身体的な創造を好む。
性的結合、禊、排泄物、口に含んで噛み砕く——日本神話の創造は、常に身体を経由する。言葉だけで、意志だけで、何かが生まれることはない。身体が介在し、物質が変容し、手続きが踏まれる。
この身体性は、日本神話を具体的で視覚的なものにしている。読者は神話を「見る」ことができる。イザナギとイザナミが矛で混沌をかき回す姿、アマテラスが剣を噛み砕く姿、イザナギが水に入って禊をする姿。これらは絵に描ける。映像化できる。身体があるから、神話は生々しい。
第三に、日本神話は手続きを重視する。
イザナギとイザナミの結婚には「正しい手順」があった。女が先に声をかけると失敗する。禊には順序がある。水底、中ほど、水面と、段階を踏んで清める。ウケヒにも手順がある。物を受け取り、水で濯ぎ、口に含み、噛み砕き、息を吹きかける。
正しい手続きを踏めば、正しい結果が生まれる。この発想は、神道の祭祀の論理でもある。祭りには作法があり、祝詞には定型があり、所作には順序がある。手続きの正しさが、神聖さを保証する。
第四に、日本神話は穢れと清浄の弁証法を持つ。
穢れは単純に悪いものではない。黄泉国の穢れから禍の神が生まれ、その禍を直す神も生まれ、最終的に三貴子が生まれる。排泄物から金属・土・水の神が生まれる。オオゲツヒメの「穢らわしい」食物生産が、穀物の起源となる。
穢れを通過することで、かえって清浄が生まれる。死を経由することで、かえって生が生まれる。この弁証法的な運動が、日本神話の創造を駆動している。
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比較神話学は、日本神話の「当たり前」を相対化する。
日本人にとって、神が「成る」ことは自然に感じられる。しかし世界の神話と比較すれば、それは決して普遍的な発想ではない。多くの文化では、神は「創られる」か「生まれる」か「現れる」のであって、「成る」のではない。
国土が「産まれる」ことも、禊から神が「生じる」ことも、日本人には馴染み深い。しかし、これらは日本神話に特徴的な発想であり、世界の標準ではない。
比較によって初めて、自分たちの神話の特質が見えてくる。「ある」ことの意味は、「ない」ものとの対比によって明らかになる。
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同時に、比較神話学は「創作」の痕跡をも浮かび上がらせる。
ウケヒ神話には世界に類話がない。これは、この神話が借用や伝播ではなく、日本で創られた可能性を示唆する。そして内部を精査すれば、論理的な破綻が——しかし隠されずに——存在している。
古事記・日本書紀の編纂者たちは、既存の神話素材を編集しただけではない。政治的・宗教的な目的のために、新しい神話を創作することもあった。ウケヒは、その最も洗練された例かもしれない。
神話を「古代人の素朴な世界観の表現」と見なすのは、単純すぎる。少なくとも記紀神話の一部は、高度に計算された文学的・政治的構築物である。比較神話学は、その構築の痕跡を検出する道具にもなる。
◇ ◇ ◇
では、日本神話の特質は、日本文化全体について何を語るのだろうか。
慎重でなければならない。神話から文化の「本質」を読み取ろうとする試みは、しばしば恣意的になる。神話は文化の一部であって、全体ではない。八世紀に編纂された神話が、現代の日本人の精神を直接に規定しているわけではない。
それでも、いくつかの示唆を読み取ることはできるだろう。
超越的な創造神の不在は、日本の宗教文化における「絶対者」の希薄さと関連しているかもしれない。一神教的な神——世界を超越し、世界を支配し、世界に命令する神——は、日本の宗教的想像力には馴染みにくい。神々は世界の内に遍在し、世界と連続している。
身体性の重視は、日本文化における「型」や「所作」の重要性と関連しているかもしれない。茶道、華道、武道——「道」のつく実践は、身体の訓練を通じて何かに到達しようとする。言葉や観念だけでなく、身体を通じて真理に触れる。この発想は、身体的な創造を好む神話と、どこかで響き合っている。
穢れと清浄の弁証法は、日本文化における「禊」や「祓」の重要性と関連しているかもしれない。穢れは避けるべきものだが、同時に、穢れを通過することで清浄に至る。この両義性は、神話の中にすでに刻み込まれている。
◇ ◇ ◇
しかし、最も重要なことは、神話が「鏡」であるということだ。
神話は、それを語る文化の無意識を映し出す。何を語り、何を語らないか。どのような神を生み出し、どのような神を生み出さないか。その選択の総体が、一つの文化の輪郭を描き出す。
日本神話を読むことは、日本文化の無意識を覗き込むことである。そこに映っているのは、超越を嫌い、身体を重んじ、手続きを尊び、穢れと清浄の間を往還する精神の姿である。
もちろん、鏡に映る像は、そのまま現実ではない。鏡は反転させ、歪め、一部だけを切り取る。神話という鏡も同様である。そこに映る日本文化の像は、部分的であり、歴史的に条件づけられており、解釈を必要とする。
それでも、鏡を覗き込むことには意味がある。自分の姿を——たとえ歪んでいても——見ることには意味がある。
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神を生むとは、どういうことか。
それは、世界を分節し、名づけ、秩序を与えることである。混沌から形を取り出し、無名のものに名を与え、関係のないものの間に関係を作り出すことである。
神話は、その営みの最も古い形態の一つである。人類は神話を通じて、世界を理解可能なものにしてきた。なぜ太陽は昇るのか、なぜ季節は巡るのか、なぜ人は死ぬのか、なぜ穀物は実るのか——これらの問いに、神話は物語の形で答えてきた。
「神を生む」という表現には、二重の意味がある。
一つは、神話の中で神々がどのように誕生するかという、物語内の出来事である。本論で検討してきた八つの類型は、この意味での「神を生む」を分類したものである。
もう一つは、人間が神話を語ることで神を「生み出す」という、メタレベルの出来事である。神話を語るたびに、神は新たに生まれる。解釈されるたびに、神は新たな意味を帯びる。忘れ去られれば、神は死ぬ。
古事記が編纂されてから千三百年以上が経った。その間、日本神話は読み継がれ、解釈され、時に政治的に利用され、時に文学的に再創造されてきた。神話は生き続けている。読まれるたびに、神々は新たに生まれている。
本論もまた、その営みの一部である。比較神話学という道具を使って日本神話を読み直すことで、見えてくるものがある。それは、日本神話の特質であり、日本文化の無意識であり、そして神話というものの本質の一端である。
神々はこれからも生まれ続けるだろう。神話が読まれ、語られ、解釈される限り。
【比較神話学】神を生む くるくるパスタ @qrqr_pasta
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