【八】儀式・誓約から生まれる
神が儀式を行う。誓いを立てる。占いをする。
その行為の結果として、新しい神が生まれる。
これが「儀式・誓約から生まれる」という類型である。これまで見てきた七つの類型とは異なり、この類型は日本神話において特に発達している。
◇ ◇ ◇
世界の神話を見渡すと、儀式や誓約から神が「生まれる」例は意外に少ない。
儀式は神話において重要な役割を果たす。インドのヴェーダ祭祀、ギリシャの密儀、エジプトの神殿儀礼。しかし、これらの儀式は通常、神々を「呼び出す」「なだめる」「崇める」ためのものであり、神々を「生み出す」ためのものではない。
誓約もまた、神話に頻繁に登場する。神々は誓いを立て、約束を交わし、契約を結ぶ。しかし、その誓約から新しい神が生まれるという発想は、あまり見られない。
【四】で触れたインドのプルシャ神話では、神々がプルシャを「供犠」として捧げ、その結果として世界が形成される。これは儀式(供犠)から創造が生じる例と言える。しかし、プルシャ神話の核心は供犠される存在の「解体」であり、儀式そのものの力ではない。
【五】で触れたアステカ神話では、神々の自己犠牲によって太陽が動き始める。これも儀式的な行為から宇宙的な結果が生じる例である。しかし、生まれるのは「神」ではなく「太陽の運動」である。
◇ ◇ ◇
北欧神話には、オーディンの自己犠牲によってルーン文字を獲得する話がある。
オーディンは世界樹ユグドラシルに九日九夜、自らを吊るした。槍で刺され、食物も飲み物も与えられず、風に揺られながら。その苦行の果てに、彼はルーン文字の秘密を獲得した。
「私は知っている、私が風に吹かれる木に吊るされていたことを、九つの夜の間、槍に刺され、オーディンに捧げられて、私自身が私自身に」
これは儀式的な自己犠牲から知恵(ルーン)が得られる例である。しかし、生まれるのは「神」ではなく「知識」である。
ギリシャ神話のディオニュソス密儀やエレウシスの秘儀では、入信者が儀式を通じて「再生」する。これは人間が儀式によって変容する例であり、神の誕生ではない。
◇ ◇ ◇
■日本の場合:ウケヒと神の誕生
日本神話には、儀式・誓約から神が生まれる明確な例がある。
最も重要なのは、アマテラスとスサノオの「ウケヒ」(誓約)である。
【六】でも触れたが、ここで詳しく見てみよう。
スサノオが高天原に上ってきたとき、アマテラスは弟の意図を疑った。山川が鳴り響き、国土が震動した。スサノオは国を奪いに来たのではないかと警戒したアマテラスは、武装して弟を迎えた。
スサノオは言った。「私に邪心はありません。ただ母の国(根の国)に行きたいと泣いていたところ、父神に追放されたのです。姉上にお別れを申し上げに来ただけです」
アマテラスは問うた。「ならば、お前の心が清いことをどうやって知ればよいのか」
スサノオは答えた。「各々ウケヒをして子を生みましょう」
二人は
◇ ◇ ◇
ウケヒの手順は、驚くほど具体的に描写されている。
まずアマテラスが、スサノオの
——剣を、噛み砕く。
読む者は思わず口の中の感覚を想像する。金属を噛んだら歯が欠けそうだ、口の中が切れそうだ、と。もちろん神だから大丈夫なのだろう。しかし、その身体的な痛みの予感が、描写にリアリティを与えている。
霧の中から三柱の女神が生まれた。
これが宗像三女神である。
次にスサノオが、アマテラスの
五柱の男神が生まれた。
◇ ◇ ◇
ここまでは、視覚的で、身体的で、誰もが絵に描けるほど鮮明な描写である。
問題は、この後だ。
アマテラスは宣言した。「後から生まれた五柱の男子は、私の物(勾玉)から生まれたから私の子である。先に生まれた三柱の女子は、お前の物(剣)から生まれたからお前の子である」
これは「帰属」の判定である。誰の子かを決めている。
そしてスサノオは、こう言い放った。「私の物(剣)から、心優しい女子が生まれた。だから私の心は清いのだ。私の勝ちだ」
——待ってほしい。
◇ ◇ ◇
ウケヒとは何か。
本来のウケヒは、事前に条件を設定する占いである。「もしAならばA´が起こり、もしBならばB´が起こる」と宣言しておき、実際に起こった結果によって神意を判断する。
しかし、古事記のこの場面では、事前の条件設定がない。
スサノオは「各々ウケヒをして子を生みましょう」とだけ言った。「女子が生まれれば清い」とも「男子が生まれれば邪心あり」とも言っていない。判定基準を決めずに、いきなり儀式を始めてしまった。
儀式が終わった後、アマテラスは「物の所有者」によって子の帰属を判定した。スサノオは「女子が生まれたから勝ち」と後出しで宣言した。
これは、通常の意味でのウケヒとして成立していない。
◇ ◇ ◇
さらに奇妙なことがある。
宗像三女神はスサノオの剣から生まれた。しかし、その剣を口に含み、噛み砕き、息を吹きかけたのはアマテラスである。つまり三女神は、アマテラスの口から、アマテラスの息から生まれた。
五柱の男神はアマテラスの勾玉から生まれた。しかし、その勾玉を口に含み、噛み砕き、息を吹きかけたのはスサノオである。つまり五男神は、スサノオの口から、スサノオの息から生まれた。
アマテラスの判定は「物の所有者」を基準にしている。しかし「誰の身体から生まれたか」を基準にすれば、結論は逆になる。
アメノオシホミミノミコト——天孫降臨の主役ニニギノミコトの父であり、皇統の直接の祖先——は、どちらの子なのか。
アマテラスの勾玉から生まれたからアマテラスの子か。スサノオの口から生まれたからスサノオの子か。
◇ ◇ ◇
この曖昧さは、偶然の産物だろうか。
古事記の編纂者たちにとって、皇統の神話的正統性を確立することは最重要課題だった。そのような重要な箇所に、このような曖昧さが「うっかり」入り込むとは考えにくい。
むしろ注目すべきは、この曖昧さが隠されていないことである。
描写は極めて鮮明で身体的だ。剣を噛み砕く、勾玉を噛み砕く、息を吹きかける。誰もがその場面を視覚的に思い浮かべることができる。読者は神話の世界に引き込まれる。
そして、その鮮明な描写の直後に、論理的に破綻した判定が来る。
「え? そうなの?」
読む者は誰もがそう思う。判定基準が事前に決まっていない。物の所有者と身体の所有者が食い違っている。スサノオの「勝ち宣言」は後出しである。
この矛盾は目立つように書かれている。隠そうとしていない。むしろ、わざと目立たせているようにすら見える。
◇ ◇ ◇
世界の神話に、ウケヒのような神話が見当たらないことも示唆的である。
これまで見てきた七つの類型——虚無からの自己生成、宇宙卵、性的結合、巨人解体、神殺し、身体からの出現、言葉による創造——には、いずれも世界各地に類話がある。人類に共通する神話的発想が、異なる文化で独立に、あるいは伝播によって、類似した神話を生み出してきた。
しかし、ウケヒのような「誓約から神が生まれる」神話は、他の文化にはほとんど見られない。
類話がないということは、借用や伝播ではなく、創作である可能性を高める。
古事記・日本書紀の編纂者たちは、中国の史書や神話を参照しながら、日本独自の神話体系を構築しようとしていた。既存の神話素材を編集するだけでなく、政治的・神学的目的のために新しい神話を「創作」することも、十分にありえた。
ウケヒ神話は、その創作の最も洗練された——そして最も大胆な——例かもしれない。
◇ ◇ ◇
なぜ、曖昧さを仕込む必要があったのか。
一つの仮説は、政治的包摂である。
スサノオは出雲と結びつく神である。出雲国造家をはじめ、スサノオを祖神とする勢力は八世紀にも存在していた。
もし皇統がアマテラス系譜だけに由来するとすれば、スサノオ系譜の勢力は神話的に排除されることになる。しかし、アメノオシホミミノミコトがスサノオの口からも生まれたと読めるならば、皇統はスサノオとも無縁ではない。
排除ではなく、包摂。敵対ではなく、曖昧な連続性。
藤原不比等が、あるいは彼の意を汲んだ編纂者たちが、このような「仕掛け」を神話に埋め込んだとしても、不思議ではない。
◇ ◇ ◇
もう一つの仮説は、神話的深みの創出である。
単純明快な系譜よりも、曖昧で多義的な起源のほうが、解釈の豊かさを生む。一読して「え?」と思わせる矛盾は、読者を立ち止まらせ、考えさせる。
明確に説明できるものよりも、説明しきれないもののほうが、神聖さを帯びやすい。皇統の起源が完全に解明可能であれば、それは人間の理解の範囲内にあることになる。しかし、どこか腑に落ちない曖昧さがあれば、それは人間の理解を超えた神秘として残る。
編纂者たちは、意図的に「分かりにくさ」を作り込んだのかもしれない。
◇ ◇ ◇
スサノオという神の描かれ方全体を見ると、この「作為」の感覚はさらに強まる。
スサノオの誕生からして特異である。イザナギの鼻から——禊の最後に——三貴子の一柱として生まれた。アマテラス(左目)、ツクヨミ(右目)と並ぶ最高位の神でありながら、彼だけが問題を起こし続ける。
泣き叫んで追放され、高天原で暴れ、アマテラスを岩戸に隠れさせ、地上に降りてヤマタノオロチを退治し、出雲の祖となる。英雄であり、トリックスターであり、破壊者であり、文化創造者である。
このような複雑なキャラクターが、「うっかり」生まれるだろうか。
スサノオは、皇統神話に意図的に挿入された「揺らぎ」なのではないか。アマテラス一系の単純な物語を複雑化し、深みを与え、そして様々な勢力を包摂するための装置として。
◇ ◇ ◇
ウケヒ神話を「創作」と見なすことは、その価値を貶めることではない。
むしろ逆である。
八世紀の編纂者たちは、政治的・宗教的・文学的な複数の要請に応えながら、驚くべき精緻さで神話を構築した。判定基準の欠如、帰属の曖昧さ、後出しの勝ち宣言——これらは粗雑な矛盾ではなく、計算された多義性である。
視覚的で身体的な描写が読者を引き込み、論理的な破綻が読者を立ち止まらせる。この組み合わせは、千三百年以上にわたって読者を惹きつけ、解釈を生み続けてきた。
単純な神話は忘れられる。複雑な神話は生き残る。
ウケヒは、日本神話の中で最も「作られた」神話であり、それゆえに最も興味深い神話の一つなのである。
◇ ◇ ◇
本章で論じた八つの類型を振り返ると、日本神話の特質が浮かび上がる。
日本神話が「持つ」類型:虚無からの自己生成(「成る」)、性的結合から産まれる(国生み・神生み)、神殺しから生じる(オオゲツヒメ、カグツチ)、身体から現れる(禊、排泄物)、儀式・誓約から生まれる(ウケヒ)。
日本神話が「持たない」類型:宇宙卵から孵る、原初の巨人の解体から、言葉・意志で創る。
「持つ」類型に共通するのは、身体性と手続き性である。神々は身体から生まれ、身体を通じて創造し、手続きによって新しい存在を生み出す。
「持たない」類型に共通するのは、超越性と暴力性である。世界の外から世界を創る超越的な神、巨人を殺して世界を作る暴力的な創造、言葉だけで存在を呼び出す非物質的な創造——これらは日本神話には見られない。
そして、ウケヒという類型は、日本神話の中でも特異な位置を占める。世界に類話がなく、論理的に破綻しており、にもかかわらず(あるいはそれゆえに)最も重要な神々の誕生を説明している。
日本神話は、借用と創作、伝承と編集、政治と宗教が複雑に絡み合って形成された。ウケヒ神話は、その複雑さを最も鮮やかに示す例である。
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