第31話:永劫の泥濘(Eternal Sludge)――エピローグ

### 第三十一話:循環する蜃気楼(The Circulating Mirage)――エピローグ


 

 

 白。

 

 

 佐伯ナミが幽閉された特別病棟の壁の色は、彼女の完璧だった人生の、無残な墓標の色だった。刑事・富樫は、泥まみれのネックレスを枕元に置き、彼女の耳元で最後の「真実」を囁いた。

 『山伏慶太は、君を殺すのではなく、君を永遠の敗北の中に幽閉することを選んだ』と。

 

 ナミの瞳孔が開き、心拍計のモニターが断末魔の悲鳴を上げた。鏡の国の女王は、自らが作り上げた蜃気楼の残骸に、その精神の芯まで一口ずつ、永遠に食い荒らされていった。

 

 

 

 

 

 ――そして、数週間後。

 

 奥飛騨の森。

 佐藤薫と神代毅が作り上げた墓標の中から、泥まみれの「安藤ありさ」が、再生(リバース)を遂げた。

 

 彼女は泥の中で、かつて自分が演じ続けた死んだ妹「サキ」の亡霊を完全に葬り去った。彼女が拾い上げたのは、慶太が遺した泥まみれのネックレスではない。慶太の「死」、健司の「絶望」、薫の「執念」、そしてナミの「傲慢」。そのすべてを喰らい尽くし、彼女自身が、誰にも支配されない「新しい蜃気楼」の根源(ソース)となったのだ。

 

 彼女は、汚れたピンクのシュシュを土の中に投げ捨てると、何事もなかったかのように、人里へと続く闇の奥へと歩き出した。

 

 

 

 

 

 数ヶ月後。東京、銀座。

 

 天から降り注ぐのは、すべてを洗い流す慈悲の雨ではない。

 それは、街に蠢く欲望と、決して消し去ることのできない罪をじっくりと煮出した、重く淀んだ鉛の飛沫だ。

 

 雨に濡れたアスファルトを、一人の若くて善良そうなサラリーマンが、傘もささずに足早に歩いていた。

 その足元。路地裏の暗がりに、キラリと光る「何か」が落ちていた。

 

「……おや?」

 

 若者が屈み込み、それを拾い上げる。

 そこにあったのは、泥にまみれ、無残に形を歪めた、プラチナのネックレスだった。

 

 若者がその汚れを指先で拭おうとした、その時。

 

「……それ、拾ってくれますか?」

 

 背後から、鈴を転がすような、湿り気を帯びた声がした。

 振り返ると、そこに彼女が立っていた。

 

 紺色のチェックベスト。白く清潔なブラウス。

 だが、そのポニーテールを揺らすシュシュは、もはや「ピンク」ではない。それは、ナミが纏っていたボタニカル柄と同じ、毒々しいほどに鮮やかな「緋色」に変わっていた。

 

 彼女――安藤ありさ――は、ナミの亡霊を、自らの「記号」として新たに取り込んだのだ。

 

 若者は、その女性の、この世のものとは思えないほど美しい微笑みに、一瞬にして心を奪われた。彼の脳内で、正常な警戒心を司る回路が、甘美な麻痺を起こしていく。

 

「……ああ、はい。……どうぞ。汚れていますが、綺麗なものですね」

 

「ありがとうございます。……すごく、大事なものなんです。……死んだ親友の『形見』だから」

 

 女性は、慶太が持っていたあの水色のポーチに、泥まみれの宝石を大切そうに仕舞い込んだ。その指先は、驚くほど冷たいのに、触れられた若者の肌は焼けるように熱く疼いた。

 

 彼女は、かつてのサキでも、サキの擬態をした薫でもない。

 

 それを知る者は、もうこの世界のどこにもいない。

 

 確かなのは、悪意は滅びるのではなく、循環(サーキュレーション)し、**より高次の悪へと進化(エボリューション)する**ということだ。支配者という名の演出家が消えても、その「役割」は、また別の街で、別の誰かの日常という名の蜃気楼を、音もなく塗り替え始めていく。

 

 雨は、激しさを増していく。

 

 あなたの隣を歩く、あのおとなしそうな事務員。

 

 そのポニーテールを揺らすシュシュが「緋色」だったとき。

 

 あなたの物語(蜃気楼)が、今、幕を開ける。

 

 

 

 

 

(『蜃気楼:鏡像』全編完結)

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『蜃気楼:鏡像(Mirrors)』 志乃原七海 @09093495732p

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