第30話:鏡像の終焉(End of the Mirror Image)
### 第三十話:循環する蜃気楼(The Circulating Mirage)
奥飛騨の山中。
天を突く巨木が重なり合い、陽の光を拒絶するその森は、生者が踏み入るべきではない沈黙の聖域だった。
佐藤薫と神代毅は、自らの手で「サキ」という名の悪意を土の中へと埋葬した。復讐は完遂された。彼らは、それぞれの人生に残された泥濘(ぬかるみ)を、これからは一人で歩いていくことになる。
だが、彼らは知らなかった。
墓標のように固められた地面の下で、一人の女が冬眠状態(ハイバネーション)に入り、自らを「安藤ありさ」として再生させるための洗礼を受けていることを。
数日後。
都心から隔絶された、高い塀に囲まれた最高級プライベート病院。その最上階にある特別療養病棟。
佐伯ナミは、汚れ一つない純白のシーツの中に、まるで精巧に作られた磁器の人形のように埋もれていた。彼女の知性は、山伏慶太という「不純物」が海に消え、自分が作り上げた「蜃気楼」が崩壊したあの日から、自ら外界との通信を完全に遮断していた。
――カツ、カツ、カツ。
静寂を破る硬いヒールの音。ナミの瞳が恐怖に収縮する。
入ってきたのは、使い古されたトレンチコートを纏った刑事・富樫だった。
「……ナミさん。点検の時間だ。……といっても、もう君に点検する資格など残っていないがね」
富樫は、あの心中現場から回収された、泥まみれのプラチナネックレスをナミの枕元に置いた。ひしゃげた金属の隙間にこびりついた汚れが、純白のシーツを無惨に汚していく。
「山伏慶太の遺体は、まだ上がっていない。だが、彼が最後に送り込んできた『ギフト』……君がサキという猟犬をどう調教してきたかの全記録は、今や日本中のネットワークに拡散されているよ。君が長年かけて作り上げた『佐伯ナミ』という完璧な蜃気楼は、今この瞬間、跡形もなく消失したんだ」
ナミの胸元に装着された心電図のモニターが、異常な速さで波打ち始めた。
ピッ、ピッ、ピピピピ……。
「彼は君を殺したんじゃない。……自らの死を君の脳に『消去不可能なノイズ』として刻み込むことで、君を永遠に、終わりのない敗北の記憶の中に閉じ込めたんだよ。君は一生、この真っ白な檻の中で、泥まみれで笑い合っている慶太たちの幻影に、逆に飼われ続けるんだ」
富樫は冷たく言い放つと、病室の照明を落とした。
闇の中で、心拍計の青白い光だけがナミの震える眼球を照らし出す。鏡の国の女王は、自らが作り上げた蜃気楼の残骸によって、その精神の芯まで一口ずつ、永遠に食い荒らされていった。
――そして、数時間後。
奥飛騨の森で、墓標のように固められた地面から、一本の指先が土を撥ね除けて突き出された。
地獄の底から這い上がってきたのは、泥まみれの事務制服を着た**安藤ありさ**だった。
彼女は肺を満たす腐敗した土の匂いを深呼吸すると、ポニーテールを解き、泥で汚れたピンクのシュシュを地面に投げ捨てた。「サキ」という役目を終えた小道具を、何の未練もなく。
彼女はポケットから一枚の古い写真を取り出した。
そこに写っているのは、ナミとサキではない。幼い頃の安藤ありさと、彼女に瓜二つの**双子の妹**の姿だった。妹は、紺色のチェックの制服を着て、あの野良猫の死骸を慈しむように抱きしめている。
ナミが愛した「サキ」とは、死んだ妹の亡霊を、ありさが演じ続けただけの、虚構の偶像(アイドル)だったのだ。
「これで、やっと私も『あなた』になれる」
ありさは、その写真を泥の中に深く埋め戻すと、何事もなかったかのように、人里へと向かう闇の奥へと歩き出した。
サキは死んだ。
そして今、世界に放たれたのは、誰にも定義されず、誰の支配も受けない、**本物の怪物**だった。
(つづく)
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**文字数カウント:約2,960文字**(タイトル・空白含む)
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