誰一人、どうしていいかわからないまま生きている。時間だけが進む。
歳が離れていて、でもこれほど深く結びついていて、その関係に名前とかそういうものは要らなくて、けれど二人の平行線を結局捻じ曲げることはできない。
偶然そばにいた人と人の心が絡み合った、言葉にならない時間。過酷で仄甘くて、あまりにも苦く。
読後、ただ感情の深い波に静かに揺さぶられる。
人間同士の心の絡み合いを、このように描き出せる作者様の感覚が、素晴らしいです。
ぜひたくさんの人にこの感情の深い揺れを味わってほしい。この上なく濃く細やかな、充実した重みのある短編です。
『幸せとは、欲望を失い、苦痛を感じなくなってしまった、負の停止状態だ』
そのような言葉を、なにかの小説で目にしたことがある。正確な言い回しは、忘れてしまったけれど。
なんとも斜に構えた言葉だが、一点の真理を突いているようにも思える。人は、往々にして幸せを求める。でもそれは、必ず破れる。なぜなら『希望や愛欲を胸に抱き苦痛に塗れても進んでいく、それが生の状態』だからだろう。破れても求め、求め得たら破れる。その繰り返し。
だから、そのときそのときが、重要だ。
その瞬間瞬間を刮目し、その掛け替えのない時を抱き締める。それしかできないし、それでいい。
この小説は、そんなことを僕に囁いてくれたように思う。もっと大切なことも描かれているはずだ。是非、探してみて欲しい。
本当に、素晴らしい作品だから。
全5話の短編です。
多感な小学校五年生の少女・凛と、不器用ながらも優しい男・健のやり取りが心に染み渡ります。
物語は二日後に引っ越しを控えた一日を回想と共に描き出しています。
凛はうらぶれたアパートの一室で母と二人暮らし、いつも独りぼっちでした。
そんな凛にとって、階下に住む健だけが心の拠り所で、実はこの二人、心に大きな傷を負っているのです。
故あって一人暮らしの健は世間では●●と言われています(伏字部分は是非本文で)が、凛はそうでないことを知っています。
本当の健の姿を知っているからこそ、凛は健に、健の優しさに惹かれていったのかもしれません。
第3話で凛が健に告げる言葉があります。凛の最大限の思いにぐっと来ました。
結末は想像の中にしかありませんが、いろいろな解釈ができる余地を残しています。
凛は引っ越しに際して、二つのものを手放します。
それは未来に向けて新たな人生を歩み出す一歩であり、また過去に戻るための一歩でもあり、読み手の心の中に深く染み入ってきます。
余韻を残す素晴らしい作品です。ある程度の読む力を求められますが、一読する価値大です。是非ともこの機会に触れてみてください。
文学少女ときいて、まず想い浮ぶ人、それが葵春香さんだ。
もちろん他の女性陣も膨大な読書量を積み上げていることだろうが、「文学少女」という言葉から想起される、目立たない場所で物静かに本を読んでいて、迂闊に声をかけられない没入の空気をまとった少女のイメージ、あれに最も近い。
まだ幼さの残る年齢の葵さんが小説の世界に踏み込むことになったきっかけは源氏物語。
「久しく逢わぬあいだに、とても大人になられましたね」
同級生の少女たちがアイドルにお熱になっている同じ頃、男君が養育している姫君に久方ぶりに話しかける、こんな古めかしくも雅な世界を、葵さんは几帳をずらすようにして頁の合間に覗き見していたのだ。
随分とおとなびている。おとなびているが、十代の少女の中には大人と同等かそれ以上の精神年齢の高さを持っている子がいるのであるから、葵さんもそうだったのだろう。
本編には、年齢こそ成人であっても大人になりきれなかった、だらしない、騒がしい、自制心のない母親や女が出てくる。
そんな女たちとは違い、主人公である少女の眸は、ひどくさめている。
はっきりとした思考と嗜好を持ち、気に入らぬものは気に入らぬ。
反抗の冷たい刃を秘めたそのその眼つきで、少女は身近にいる母を眺め、近所の小さな世界を見つめている。
少女には父親がいない。母らしい母もいない。友だちもいない。
誰もいない。
誰もいないその世界に、或る時期から、「男」が現れる。
それは「大人の男」ではあるのだが、どうしたわけか少女は最初からこの大人の男のことを、慕いながらも、庇護するような気持ちで観察しているようなのだ。
悪い噂の中で、ぽつんと落ちた滲みのように生きている独り暮らしの淋しい男。
律儀に墓参りを欠かさぬ誠実な男。
大好きな大人の男。
しかし少女はすでに、その小さな胸に別離を引き受ける覚悟と準備を整えている。
一緒にいたいと願う、叫びにも似たその願いが叶わぬことを知っている。
自分で自分の未練や感情のけりをつける、それは少女が「大人の女」の眼をもつ少女だからだ。
大人の男のほうがその眼光に気圧されて困惑してしまうほどに、大人の女の眼をしているからだ。
彼らの近くには、昼間から愛人を部屋に連れ込んだ女や路上に血を散らした女がいる。
そんな穢れから離れるように、少女と男は川べりを歩く。
繰り返し、彼らは川べりを歩く。
少女はその小川で生まれてはじめて、大人の見守りの中で子どもらしい水遊びをやる。
成長した少女はいつの日か、すべての少女がそうであるように、適当な男と愛し合うのだろう。
その時、シーツと男の身体の合間に横たわる女の脳裏には、昔暮らしたあの町と、花の名を教えてくれたあの懐かしい大人の男の姿が浮かんでいることだろう。
彼のあの手あの声あの笑顔。
裾を揺らした風。夏の日のことが。