静かな夜と、冬至南瓜

 築百年を超えた縁側のひだまり。小人たちの帽子のようなたくさんの冬芽をつけた梅の木が、こじんまりと佇む。

 ガラス戸を通して差し込む、冬の午後の柔らかな日差しに包まれて、カオルは縁側の椅子に座ったまま、昼寝に落ちていた。

 マルガレータも隣の椅子に腰掛けて、小さなちゃぶ台に出された焙じ茶を気まぐれにすすりながら、少しだけまどろんでいる。


 気の早い二羽のメジロが梅の枝に飛んできてはとまり、素早い身振りであたりを見回すと、せわしなく飛び立っていった。その様子を見つめつながら、マルガレータはゆっくりと湯呑に口をつける。

 空には雲一つなく、透明な青が広がっていた。海沿いの国道を通り過ぎるトラックが軋む音。他には、時折響くヒヨドリ四十雀シジュウカラの声と、微かに届く波の音だけが聴こえる。


 どれだけ時間が経ったのか、わからない。気づくと、カオルが静かにあくびをしながら背伸びをして、目を覚ました。


「うーん……あ、ごめん。寝ちゃってたね」


 自分の湯呑の残りを飲み干すと、カオルはマルガレータに微笑みかける。


「な、なんですの……?」

「いや、マルガレータって、ほんとうに綺麗だなって思って。冬の海みたいに、透きとおってて、キラキラして」


 まっすぐに見つめられながら突然そんなことを言われたマルガレータは、顔を赤らめた。


「え……え……そんな急に、何をおっしゃいますの!?」

「ずっと、この家にいてもいいからね。本当にホームステイしちゃいなよ。ふふっ」

「あの……はあ……」


 マルガレータとしても、この家の他に行くあてなどない。そもそも、自分が今、生きているのか、それとも天国に来てしまったのか、それすらも確証はない。確かなのは、しっかりとお腹は空いて、食事も美味しく感じることだけだ。


 二人は再び、しばらく何も言わずに縁側から庭を眺める。家の近くを通り過ぎるスクーターのエンジン音が響く。


「そろそろ、夜ご飯の仕込みを始めるね。マルガレータも一緒に作る?」


 そう言うと、カオルは立ち上がり台所へ向かった。


「わたくしは、料理などしたことがありませんので……」

「そうなんだ、じゃあ、横で見てるだけでもいいよ」


 他にすることもないマルガレータは、台所についていく。


 カオルは、南瓜を一口大に切り、鍋に入れて調味料で煮込み始める。少ししてから、小豆の缶詰を開けて、鍋に足し、火をとろ火まで弱めた。


「今日は冬至だからね。この家に住んでいた、私のおばあちゃんの恒例行事なんだ」

「……住んでいらっしゃった?」

「ああ、うん。今は老人ホームに移って空き家になっちゃうから、代わりに私が住んで、傷まないように管理してるんだ」

「そうでいらしたのですね」


 ときどき鍋の様子を気にしながら、朝買ってきた赤蕪の葉をざくっと切り落とす。六個の束のうち、半分はぬか床に漬け込む。葉っぱは祖母の手書きレシピ帳にあるやり方でナムルにしておいた。


 静かに、滞りなく調理を進めるカオルの姿を、マルガレータはダイニングテーブルの椅子に座って、ただ見つめ続けていた。次第に外は暗くなっていき、蛍光灯の白い灯りが二人をほのかに照らし出す。


 次にようやくメインディッシュに取り掛かる。蓮根の皮をむき、いちょう切りにして、水にさらしておく。鶏もも肉を一口大に刻み、ごま油を引いたフライパンでじっくりと炒めてから、水気を切った蓮根を加える。

 台所に香ばしい匂いが立ち込める。マルガレータはお腹が小さく鳴り、思わず顔を赤らめた。


 フライパンにさらに調味料を加えて、火力を最大にしてから一気に炒める。重そうな鉄製フライパンを細い腕が軽やかに振り、食材が華麗に舞って返されていく。芳しい香りが一層高まり、マルガレータはお腹を鳴らさないように、さらに苦労することになった。


「もうすぐできるよ」


 フライパンから大皿に移し、他の小鉢も準備が整っていく。掘り炬燵の食卓に二人分のお皿を並べて、向き合って座る。外はすっかり、夜の帳が下りていた。

 カオルは、居間の古いオーディオセットで、レコードをかける。流れたのは、キース・ジャレットの『メロディ・アット・ナイト,ウィズ・ユー』。静かなピアノの音が、優しく響く。


「夜ご飯のときは、いつもこれを聴いているんだ。私が家に来た時からプレイヤーに置いてあった」


 マルガレータは、幼い頃に母が弾いてくれたピアノの音色を思い出す。


「いただきます」


 二人は声を合わせる。


「マルガレータは、お酒飲めるの?」

「ええ、ワインを少々嗜んでいましたわ」

「ワインか。鎌倉にも美味しいの売ってるところあるから、今度探してみよう。今日はこの芋焼酎の赤でいいかな?」

「イモジョウチュウ……初めて聞くお酒ですわね。でも、いただいてみようかしら」

「うん、少し薄めにお湯割りにしておいたから。暖まるよ」


 カオルは、ほんのりと温かい陶器のうつわをマルガレータに渡す。


「乾杯」


 互いの酒器を軽く合わせてから、マルガレータは恐る恐る、口に含んでみた。


「あら……これは、優しい味わいですわね。ワインとは違いますけれど、ほのかに華やかな香りがあって、わたくし好みですわ」

「そう、よかった。私もこの焼酎、好きなんだ。あんまり高くないけどね」


 そして二人は、静かに食事を進めていく。

 マルガレータがまず箸をつけたのは、赤蕪のサラダ。電子レンジで温野菜にしたカブに、オリーブオイルと塩、黒胡椒を振ったものと、ロメインレタスを和えてある。蕪の甘味と、レタスの苦みがダイレクトに味わえる。

 次に、紫大根のべったら漬け。朝食で出されたのと同じものだ。この味にも、マルガレータは既にすっかりと馴染んでいた。


 芋焼酎を二口ほど飲む。冬の野菜と、お湯割りの香りがハーモニーを奏でる。マルガレータは、ぽかぽかと身体が温まり、ほろ酔いになっていくのを感じていた。


「マルガレータは、なんていう国から来たの?」


 冬至南瓜を頬張っているカオルの問いかけに、マルガレータは身を強張らせる。


「わたくしは……ドライエンシュタイン王国からまいりました……」

「どらい……しゅたいん。ああ、やっぱりヨーロッパのほうの人なんだね」

「よーろっぱ……でございますか。はあ、そうですわね……」

「それにしても、どうして朝から海でぷかぷか流れていたの?」

「……わたくしも、はっきりとは思い出せないのですが。気がつけば、こちらのほうに流されていたと申しますか……」


 歯にものがはさまったようなマルガレータの言葉に、カオルはしばし考え込んでいたが――


「……そっか。まあ、よくわからないけど、記憶喪失みたいなものなんだね」


 そう言って、カオルはにっこりと微笑む。そのまま二人は何も言わず、箸を進めて、焼酎をすする。キース・ジャレットのピアノだけが、静寂を埋めていた。


「それならなおさら、うちでゆっくりしていきなよ」

「……そうですわね」


 すぐに頷くことはできないマルガレータ。表情はまだ、虚ろなまま。


「わたくしは……ずっと与えられた役割を演じてまいりました。家のために、そして、民のために。それなのに、わたくしは……拒まれてしまいました」

「……そうなんだ」


 レコードのA面が終わり、微かなスクラッチノイズのあと、プレイヤーが止まる。冬至の夜の静けさが、二人を満たす。


「私は、なんの役割も持ってない。この家を管理するくらいかな。でも、波はね、全然来ないなと思って待ってても、大きな波がいきなり来ることもある。今日は凪でも、明日は荒れることもある。マルガレータも、きっと今は、波待ちなんだよ」


 そう言うと、カオルはプレイヤーまで行ってレコードを裏返した。再び、ピアノが夜を控えめに彩る。


 マルガレータは、大皿に盛られた鶏と蓮根の甘酢オイスターソース炒めを取り皿に分けて、一口食べた。蓮根と鶏肉の対照的な食感、甘酸っぱく香ばしい奥深い味付けが、焼酎をさらに進めさせる。

 最後に、彼女はしばらく箸を止めたまま、冬至南瓜をみつめていた。それから、手を下に添えてゆっくりと口に運ぶ。甘く、柔らかな味わい。口の中で、小豆と南瓜がほろほろと崩れる。彼女の丸く大きな瞳から、一粒の涙が零れた。


 箸を置いて、手を合わせてから、マルガレータは「……ごちそうさまでした」と、小さく一言呟く。


「お粗末さまでした」


 カオルはただ静かに、微笑みながら彼女を見つめ続ける。マルガレータもカオルを見つめ返した。


「あの……」

「なに?」

「……あしたも、いただいてもよろしいでしょうか……? 朝に出していただいた、小さな白いお魚の……」

「ああ、しらすご飯だね。もちろんだよ、マルちゃん」

「マルちゃん……」

「でも、また漁師さんのところに買いに行かないとね」

「あの……マルちゃんというのは……」

「ふふふ」


 カオルとマルガレータの頬が赤く染まっている。それは、芋焼酎のせいなのか、掘り炬燵の温もりのせいなのか。

 冬至の夜は更けていく。波音は静かに、絶えることなく続いている。

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二人の食卓、波待ちご飯 小鹿雪 @kojika-yuki

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