波待ちの時間と、自家製麺のやきそば

 冬の朝の透きとおった陽光が、材木座の路地をゆっくりと歩く二人を優しく包む。天高く浮かぶ鳶が、退屈そうに甲高く鳴いた。


 観光地の鎌倉でも、人通りが多い場所は、案外、限られている。駅の近くにある鎌倉野菜直売所へ行く途中、カオルとマルガレータが会ったのは、ほぼ地元住民だけだった。

 それでも、誰かとすれ違うたび、マルガレータの身体が強張り、視線を逸らせているのを、カオルは感じ取っていた。


「大丈夫だよ、マルガレータ。この街は海外からの旅行客が多いし、移住者もたくさんいるから、マルガレータが歩いてても全然目立たないって」


 その言葉を聞いて、マルガレータも少し安心した表情を浮かべる。


「まあ、最初のドレスのままだとさすがにちょっと目立つかもだけど、今は上にコートも羽織ってるしね。うん、それ、とても似合ってるよ」


 薄着のドレスでの外出はさすがに寒そうなので、カオルは自分のモッズコートをマルガレータに羽織らせた。ドレスの真紅と、落ち着いたカーキ色は、思いの外マッチしている。


 直売所の建物は、大きめの古びたバラックのような風情で、中は薄暗い。臆せず入るカオルの後を、マルガレータもおずおずとついていく。


 ベニヤ板のような台の上に、色とりどりのたくさんの種類の野菜がところ狭しと並べられている。カオルは売り場をゆっくりと見て回ってから、赤蕪の束を一つ手に取った。


「おばちゃん、これください」

「あら、カオルちゃん。いらっしゃい。200円ね。葉っぱは、いつも通りでいい?」

「うん、そのままでお願い」

「はい。あら、そちらは? きれいな方ね~」

「彼女は、マルガレータ。今朝、海で拾ったんだ」

「あはは! そんなはずないでしょ~!」

「あ、うん……えーと、ホームステイしにきてる友達」

「そうだったの~。ゆっくりしていってね、マルガレータちゃん」


 売り場のおばさんが微笑みかけると、マルガレータは少し固くなりながらも、丁寧に会釈を返した。


(カオルさまは、わたくしを“友達”とおっしゃられましたわ……)


 場を取り繕う説明だと理解していても、マルガレータの胸の奥は少しだけ温かくなった。

 カオルも、そしてここにいる誰も、彼女にへつらおうとせず、敵意を向けることもない。今朝気づいたらここにいただけなのに、既にここにいることが当たり前のように受け入れられている。その感覚は彼女にとって新鮮であり、同時に戸惑いを感じるものでもあった。


「ついでに、昼ご飯も買っていこう」と言い、カオルは直売所内に併設された市場のほうへマルガレータを連れて行く。

 パン屋や干物屋、調味料を並べたお店などがいくつかある。マルガレータは、故郷の街の市場にお忍びで訪れたときを思い出し、懐かしさを感じる。


 カオルは「製麺所」と看板が出された店先で、店員の女性にあいさつした。


「おはよう」

「あ、カオルさん。おはよう! 今日は何にする?」

「う~ん、ラーメン……あ、でも今日は少し暖かくなりそうだから、焼きそばにしようかな」

「はい、焼きそばね。ありがとう。200円ね」


 一つ取り出して包もうとする店員に、カオルは慌てて声をかける。


「あ、今日は二つ、お願いします」

「おお、今日はお友達もいるのね! じゃあ、400円です」


 ここでもまた、お友達と呼ばれて、マルガレータはまた少しだけ嬉しくなった。


 再びゆっくりと歩いて、二人は家へ帰る。途中の川にかかった小さな橋で足を止めて、しばし川を見つめるカオル。


「あ、翡翠カワセミ。ふふ、きれいだね……あ、もう飛んでいっちゃった」


 ひとり言のようにつぶやき、またゆっくりとカオルが歩き出す。二人の間にあまり言葉は交わされない。それでも、マルガレータは居心地の悪さを感じるどころか、むしろ、不思議な心地良さを感じ始めていた。


 家の近くで、近所のおじさんがカオルにあいさつする。おじさんはサーフボードを抱えて、まだ濡れたままだ。


「カオルちゃん、今日は乗らないの? だいぶ、波が立ってきたよ。メローだけど、さっきは膝の上くらいあったかな」

「え、そうなの。朝行ったけど、また行こうかな」


 台所で食材をしまうと、カオルはそそくさとウェットスーツに着替えて、ボードを抱えて海へと走り出す。


「ごめん、ちょっと波に乗ってくる。マルガレータも海においでよ。天気いいから、砂浜でぼーっとしてると気持ちいいよ」


(え、え……寒いのに、海に行って、何をなさるの……?)


 未知の世界に突然放り込まれたマルガレータにとって、今はカオルだけが道しるべだ。とにかく、ついていくしかない。言われたとおり、砂浜に行って、カオルが貸してくれた小さなシートを敷き、腰掛ける。


 カオルはボードを波打ち際に浮かべると、両腕をパドルさせて滑らかに沖合へ向かう。しかし、すぐには波に乗らず、ボードの上でうつ伏せになったまま、のんびりとうねりの感触を見つめ続けていた。


 マルガレータは、砂浜に座ったまま、その様子をじっと見つめている。真冬でも、柔らかな温もりの日差しが、彼女を包んでいた。ゆったりと、一定の間隔で続く、穏やかな波の音。いつしか彼女の意識は、半分眠っているような、心地よいまどろみのようになっていた。


 こんな感覚になるのは、いつ以来だろうか――

 彼女は常に自分以外の何かのために生き、自らの責を果たそうとし続けてきた。心が休まる時など、少しもなかった。

 今は全てを失うと共に、全てから解放されて、空っぽだ。ただ、海辺の日だまりと波音だけが、彼女の中にある。


 ふと気づくと、カオルが海から上がり、隣に腰掛けていた。


「波に乗るとおっしゃられてましたけれど、わたくしにはずっとカオルさまが何もせずに海に浮かんでいるだけにみえましたわ」

「うん、そうだね。やっぱり今日はだめだった」

「それでは、無駄なことをなさってしまいましたわね」

「いや。波を待ってるときでも、無駄なことなんて何もないよ」


 カオルは穏やかに微笑む。マルガレータは胸の奥が疼くのを感じた。そして二人は何も言わず、しばらく波を見つめ続ける。


「そろそろ、お昼にしよう」


 家に戻ると、カオルはさっとシャワーを浴びてから、手早く焼きそば作り始める。

 年代物の鉄製のフライパンで、冷蔵庫の余り物の豚こま、キャベツ、モヤシを炒め、製麺所で買った麺とソースを合わせていく。ソースの芳醇な香りが、居間で待つマルガレータのところまで届く。


 再び掘り炬燵の食卓に、二人で向き合う。焼きそばからは、白い湯気が立ち上がっている。「いただきます」と声を合わせて、一緒に食べ始める。

 お腹は空いていたけれど、カオルもマルガレータも、急いで食べ進めることはなかった。

 ゆったりとした波音が、二人の身体に響き続けていた。

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