騒乱のニュピ
「スブラノ、だいじょうぶかな……?」
香盤時計の香りが変わって三度目。スクワトが呟く。
今朝、ファールサ兵に呼び出されてから、戻ってこない。
見張りに尋ねれば、何かわかるかもしれないが、下手に動いて、スブラノに危害が及ぶ可能性を考えると、待つしかなかった。
前触れなく扉が開いて、赤い男が現れる。スクワトと身を寄せ合って、見上げる。淡々としたファールサ語が、降ってくる。
「来い。――長が、お呼びだ」
顔を見合わせ、不安に駆られながら、ついていく。
連れてこられたのは、謁見の間だった。
兵達のまとめ役だという男。そして、スブラノが立っていた。ほっとしかけて、違和感を覚える。
悄然とした顔。固結びしただけの腰布。いつも洒落た折り目で巻いているのに、どうしたことだろう。
毛深く太い指が、こちらを指し示す。
「……ステノゴ王子。近習は、イ・マデ・スヌンゴ。……ともに、十歳」
緩慢に答える、かすれた声。
唖然として、その有り様を見つめる。
「スクワト王子、十歳……近習は――」
はたと、スブラノが固まる。
スクワトを凝視する、焦茶色の目。強烈な光が灯った途端、絶叫が鼓膜をつんざく。
「ああッ! そんな! 俺はなんてことを! そんな、嫌だ! ああぁあああッ――!」
赤い飛沫が閃き、慟哭がやむ。
スブラノが、広がっていく赤に、倒れ伏している。首を傾げて、静かになった姿を眺める。ゆっくりと、緩やかに、血の気が引いていく。
悲鳴が、虚空を突き抜けた。
「――スブラノっ! どうして……! どうしてえぇっ!」
スクワトが、すがりついて泣き悶える。もぎ離されて崩れ、血の海に沈む。
引きずられていく身体。揺らめく頭。湾曲した刃から滴る赤。
狂いわめく声の中、ただ茫然と見送った。
そよそよと、白檀が香る。涙の跡が幾筋も残る顔を扇ぎながら、思考を紡ぐ。
ファールサの商人気質は、職業問わず徹底していて、利益を最優先に動く。だから、侵略するにしても、スードラの島民を殺すまではしないと、考えていた。実際、乳母達は解放されたのだ。
しかし、スブラノは違った。何かの基準から、外れてしまった。それは、いったい何なのか。
奇妙な抑揚のヤワ語。
思い返せば、昨日も、名と年齢を尋ねていた。そうして、弟と妹、甥と姪は、殺されていった。
スブラノは十五歳。近習の中では、年長の方だった。おそらく、幼くても、長じていても、だめなのだ。ただ、目的が全くわからなかった。
(……母上なら、知っているかな……)
ここから、母の囚われている部屋は遠い。様子も聞こえてこない。喉が震えて、唇がわななく。
母に、姉に、会いたかった。柔らかな腕の中で泣けたら、どんなにいいか。
(泣くな、今は……泣いたら、だめ……)
扉の軋む音。振り見て、現れた姿に驚愕する。
「――ステノゴ王子……」
「スヌンゴ⁉ どうして……」
正座した膝に触れる。優しい体温。確かに、夢などではなかった。
「ファールサ兵が、イ・マデ・スヌンゴ出てこいと、町を怒鳴り回りまして――同じ名の者が数人、連れ出されました。どうやら、ステノゴ王子の近習を、さがしていたようです」
「それで、きみが?」
「――はい。ご無事だと知って、お顔を拝見したかったので」
気遣いに溢れた面立ち。たまらず抱きつく。
「こわい思いをさせたね。――ごめんね。ありがとう、スヌンゴ」
そっと、腕が背中に回される。安堵と苦しさが、心を満たす。
わざわざ手間をかけてまで、捕らえた理由。推測すら立たなかったが、それでも、今度こそは過たないと、心の底から願った。
翌々日、朝食を摂ると、外壁内の広場に出された。
茶色い大きな動物――スクワトの話によれば、馬というらしい――が、こちらをじっと見下ろしている。
黒々とした、丸い目。長い睫毛が愛らしい顔つきで、鬼の乗り物だとは、にわかに信じがたかった。
奥の階段から、姉が降りてくる。
健やかな姿。ほっとして抱きつく。見上げて呟く。
「姉上……よかった……」
しかし、続く人影はなかった。改めて見渡してから尋ねる。
「母上方と
姉が、困ったように眉尻を下げる。唇が動きかけたところで、背後から声がかかる。
「時間がない。早く乗れ」
離れて、承諾を伝える。今、反抗したところで、無意味に傷つくだけだ。
姉に、馬の乗り方を訳す。途中、女の腰布は、身体に沿って、きっちり巻くから、脚は広げられないと話すと、横向きに座る姿勢でも乗れるという。
鞍という座面に、姉が腰かけ、ファールサ兵が後ろに跨がる。そして、落下防止に、革帯で、腹をきつく、くくりつけた。頷く姉を見届けて、すぐ後ろの馬の横に立つ。
失礼、と断りがあって、脇に大きな手が差し入れられる。鞍に乗り、慎重に脚を開く。丁寧な所作で、腹が縛られた。
想像よりも高い視界。思わず、鞍のふちを握り締める。
兵の
「黒剛石よりも貴重な、王〈シャー〉への贈り物だ。不備のないよう、頼んだぞ」
「承ってございます、――長。では」
はっ、と短い気合いと同時に、馬が駆け出す。凄まじい速さで、町の景色が流れていく。
細い横道を縦横無尽に疾走する、四頭の馬。
遠く、大通りで騒ぎが湧いていた。
あれは、大勢の雄叫びだろうか。正体を突き止める前に、轟音から離れてしまう。
町並みが途切れ、道なき草地を走る。
今は昼前。太陽は右側にある。
(もしかして――港に向かっている……?)
カラトゥアンの北には、プラゴタ港がある。
あそこは、王槍戦士隊の将である港湾長の許可がなければ、着岸できない。宮に近いから、備えも厳重だと、授業で習った。
がっしりとした大柄なノール人が、そんな簡単に、負けるものなのだろうか。
背に当たる、革の固い感触を思う。
この二日間、非常に丁重な扱いを受けた。
確かに、部屋に閉じ込められたままだったが、水浴びと着替えもできたし、食事もまともだった。見張りは、品位ある者に変えられた。この男も、その一人だ。
尋ねれば、答えるかもしれない。そう思いつつも、今はしがみついて、揺れに耐えるのがやっとだ。本当に、なんて速さなのだろう。
結局、何もできず、一昼夜、馬上で揺られ続けた。
途中で、休憩と馬の交換があったものの、ぐったりして、とてもではないが、異国の言葉で会話などできなかった。ただ、周到な用意に、うすら寒さを感じた。
予想通り、終着点はプラゴタ港だった。
不自然に静まり返った町。巨大な
形は水甕に似ているが、描かれた模様は、ノール神話の主神オージンの象徴だった。ノール語の授業で見たことがある。
確か、勇敢に戦った戦士は、オージンの館で死後を過ごす、という内容だった。
さーっと、血の気が引いていく。
スティンヴァーリ帝国のソードラエンデン港までは、ヤワクラムビル港からでも、二十三日はかかる。死者を故郷に帰すには、塩漬けにして運ぶ必要があるのだ。
震えが、抑えようにも止まらない。背後から、冷たい呟きが降ってくる。
「……まんまと騙されて。馬鹿な奴らだ」
桟橋の先に、そびえ立つ船。町中の漁の小舟を集めても、きっと足りない大きさ。
「帝国は、寒さと病で、力を失っている。若い皇帝では、対応しきれない。だから、諦めろ。助けを望んでも、無駄だ」
わざと、平易な単語で話している。わかっていても、砂を食むような寒々しさが、心に降りていく。
橋と舷を渡す板を上り、馬が甲板に乗り上げた。
通された船室は、よく手入れされた上等な空間だった。
埃ひとつない、高級な調度品の数々。王〈シャー〉への贈り物だと言っていた意味が、少しずつ染みてくる。
ファールサ絨毯は、マタラムで流通しているものより、生地が厚く、ふかふかだった。冬という冷たい季節があるファールサでは、このくらいが、ちょうどいいのだろう。
ようやく、平らな面に腰を落ち着けて、皆の顔が、ほっと緩む。
姉に向いて、改めて尋ねる。
「姉上。母上方と義姉上方は……」
少し困った表情。話すには長すぎると察して、隣に座り直す。掌に書かれる文字を、音声にしていく。
「――おとといの朝、謁見の間に、みんなが集められた。そこに、スブラノとファールサ人が現れた。ファールサ人が、何か話したけれど、ちゃんとしたヤワ語ではないみたい。内容は、わからなかった。でも、スブラノは理解できたようで、ファールサ人が指差した人の、名と年齢を言った。それから、ファールサ人は、母上方と義姉上方を連れていった。わたしは、部屋にもどされた」
終わりを示す図形。
顔を上げれば、蒼白なスクワトの姿があった。
「……じゃあ、祖母上方と母上方は、みんな……」
もう、生きてはいないだろう。どんな仕打ちを受けて、殺されたのか――考えるだけで、心が縮んでいくようだった。
薄青の瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。
「……おれっ……強い王になるはずだったのに……祖父上が、善き強い男〈ス・クワッ・オ〉って名づけてくださったように、みんなを守る、強い王になるって……父上は――王名は、強く健やかな意味になるようにしようって、言ってくださっていたのに……なのに、みんな……っ」
悶える悲泣が鼓膜を打つ。突っ伏して、くぐもった声が叫ぶ。
「おれは何にもできなかった! 祖父上も、父上も、祖母上も、母上も、弟も、妹も、みんな! おじ上とおば上だって、おれより年下だったのに、ただふるえて見てるだけだった! スブラノも、きっと、ひどいことをされたんだ! おれが、もどれと言っていれば、殺されたりなんて、しなかったのに! だれも! だれ一人、助けられなかった!」
だん、と小さな拳が、絨毯を叩く。そこに、ファールサ人がいるかのように、何度も。
「何が、一〈ストゥンガル〉の王子だッ! 王を継ぐ者だ! 家族すら守れなくて、何がっ――なに、が……」
心を振り絞る叫び。
伸びる姉の手を、そっと留める。意外そうな表情に、小さく首を振る。寂しげな色が、紫の瞳に浮かぶ。
本人の前で説明なんて――婿に出るからと、甘やかされて育った自分に、重責を負ってきた甥の無念さを、どうして代弁などできよう。
しかし、これが結果なのだ。自ら判断して、行動した、その結果。そして、同情と慰めは、今や、ただの詭弁だった。
溢れそうな喉を飲み込む。打ち震える姿を、ひたすらに見つめた。
*
サカ暦七六五年カダサ(十番目)の月の十日。
老師の庵の奥へ進むと、幼い娘達の楽しげな声が聞こえてくる。
三歳の次女のスカレミィを抱えながら、四歳の長女のスイムティと手遊びする甥。気づいて、顔を上げる。
「スセハトおじ上。おかえりなさい」
「ただいま。スキリコ、子守りをありがとう」
「いえ。――大プダンダ様を、およびしてきますね」
頷いて、場所を交代する。
寄ってきたスイムティも腕に収め、そのぬくもりを慈しむ。同時に、妻をこうして
ファールサ軍襲撃の三日後、スアングティは見つかった。母達と義姉達、島民達とともに、檻に入れられていた。
その日の朝、王槍戦士隊の接近を察知したファールサ軍は、檻を野営地に放置したまま、大通りへと発った。近隣の島民が、救出を試みたものの、為された仕打ちに気づき、断念したのだった。
三日間にわたる激戦の末、戦士隊は破れた。野営地に戻ったファールサ軍は、再び虜囚達を苛んだ。
そうして、ようやく昨日、大嵐が去った。
しかし、母達と義姉達、行為の意味を理解できる年頃の島民達は、火による浄化を願った。幼い少年達の親は、泣きながら、我が子を突き放した。
プダンダは聖水をつくり、プマンクは村落の垣根を越えて、経を唱えた。
そして、わずかに生き残った戦士達が、任務を果たせなかったせめてもの償いだと、戦斧を振るった。
火葬の祭礼は、王家と三大臣家の支出で、合同で執り行われることとなった。
とんとんと、小さな合図に、思考から覚める。
スイムティの、心配そうな顔。あどけない声が問いかける。
「ちちうえ、どこか、いたいのですか?」
「いや――少し、考え事をしていたんだ。大プダンダ様とお話ししたら、お家に帰ろうね」
「ほんとうっ? かえったら、はなうえに、おきょうをよんでさしあげるの。はやくなおりますようにって、スキリコあにうえから、たくさん、おしえていただいたのよ」
微笑んで頷く。
娘達には、病だと嘘をついていた。実際、起き上がれるような体調ではないから、安静にするようにと留めて、寝かせている。
スアングティも、他の皆と同じように、死を望んだ。姦通した身だから、せめて離縁してほしい、との懇願もはねつけて、家に連れ帰った。
祭礼を司るプマンクにあるまじき傲慢。
それでも、もう二度と、妻をこの手から放したくなかった。
板張りの床が、緩やかに軋む音。娘達を促し、並んで姿勢を正す。スキリコに手を引かれて、老師が、ゆっくりと歩を進める。
腰を下ろすのを待って、口を開いた。
「ファールサとの協議の結果、三大臣によって、政が行われることとなりました」
「……そうか……」
歳月の刻まれた面立ちが、物悲しげに俯く。諦念の滲む色に、心がおののく。
もし、兄がいたら、きっと激しく憤るだろう。しかし、もう決めたのだ。
スキリコは、まだリシ・ヤドニャ(出家儀礼)の受式前だ。山を下りて、王を継ぐことができる。姻族の三大臣家は皆、無事だから、血が絶えることもない。
ただ、そこまでする価値があるとは思えなかった。
ステノゴとスクワト、スムナリは、奴らに奪われた。
ファールサの文官が話すには、王〈シャー〉への贈り物にするという。
気に入られれば、寵童として、十九歳まで男色を強いられるのだ。緑の瞳のスキリコが拉致されないと、どうして言いきれようか。
三大臣には、混乱の中はぐれて、行方がわからないと伝えた。
あと五年、隠し通せれば、スキリコは成人し、正式にプマンクとなる。そうなれば、政に関わることは、もはやできなくなる。
床に手をつき、確固とした口調で宣言する。
「大プダンダ様。私は、もはや、あなたを師と呼ぶ資格はございません。しかし、この件について、お詫びするつもりはございません。たとえ、私欲を優先した悪行だとしても――私はもう、家族を犠牲にしたくはないのです」
深々と、礼をする。
哀しく静かな、老師の表情。娘達を立たせて、庵を辞していった。
ファールサの為すがまま、時は無情に過ぎ、カダサの月の末日を迎えた頃、心強い味方が、ついに旅立つこととなった。
騎乗したファールサ兵に囲まれていてもなお、威容を放つ長駆。無精髭の生えた顔を、高く見上げる。
「道中、どうかご無事で」
「……お気遣い、畏れ多いことにて」
やつれた声。部下を人質に取られ、これから敗戦を知らせるために、帰国するのだ。その心痛は、いかばかりか。
守れなかった島民に、せめて償いたいと、ファールサの司令官と交渉したのも、この王槍戦将だった。
襲撃の日以来、武力を持たない意味を、まざまざと感じてきた。武器を取ることの意味も。
しかし、スキリコを隠し通すためには、クヌニ山から、できうる限り、人を遠ざけなければならない。慣習通り、政から離れることこそ、最善だった。そうなれば、選ぶべき道は、ひとつである。
手にしていた書状を差し出す。不審を招かないよう、ファールサ語で話す。
「皇帝にお渡しください。勇敢に戦った戦士達に、感謝申し上げる――と」
大きく武骨な手が伸び、巻き取られたクラムビル紙を受け取る。静かな声が応える。
「確かに承りました。……どうか、ご息災で」
目顔で頷いて、一歩下がる。
おもむろに進み出す、馬の蹄。船員として、ともに帰国する部下を引き連れた、重い足取り。同じように、地を揺るがすような巨躯の男を思う。
(ヘリイェイル外帝将――姉上達を、どうか、どうか――)
うらぶれて丸まった大きな背中を、祈るような思いで見送った。
*
プラゴタに到着して、七日が経った。
甲板で海鳥を眺めていると、騎兵の一団が、南の方からやってきた。背後で、監視役の呟きが落ちる。
「団長が、お戻りだ。作戦は成功したな――当然だが」
遠征兵団団長の副官だという男。
もはや、できる努力といえば、会話を不自由なくこなせるようになって、少しでも状況を悪化させないことだった。
ファールサ語が得意である方が、価値が高まるはずだ。
そう伝えたら、男が教師となり、授業が始まった。まだ聞き取れない部分も多いが、単語数が増えたおかげで、ずいぶん理解が楽になった。
隊列を組んで、ぞろぞろと集結する様に、肝が冷える。
こんなものと、王槍戦士隊は戦ったのだ。彼らにとって、勇猛な戦死は栄誉とはいえ、遠い故国で、帰りを待つ人がいる。胸中で手を合わせ、経を唱える。
それから、十七日経っても、軍船は出港しなかった。その間に、島民達を脅しつけて、食料品や日用品を奪い、火祭りに興じる光景を見た。
シワの教えは、ファールサから渡ってきたとはいえ、同じように、火を浄化とみなす風習があるとは、不思議な心地だった。
年末行事、そして、新年の祭りであるノウルーズを満喫し、軍船は離岸した。
サカ暦七六五年カダサの月の三十日、ファールサ暦二二二年一月十四日のことだった。
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帰還の蝶【長編・本編執筆済み】 清水朝基 @asaki0530
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