悪鬼

 サカ暦七六五年カサンガ(九番目)の月の二八日。

 詰め所の廊下を慌ただしく走る、長靴ちょうかの音。訪いを告げる合図に、返事をする。

 聞き馴染んだ、部下の名乗り。入れと告げて、何事かと問う。

「ファールサの商船が、寄港したいと、申し入れてきております」

「商船が? ここがどこか、知らんはずがなかろうに」

 このプラゴタ港は、王都カラトゥアンの真北にある。徒歩なら、三日で着く距離だ。

 だから、各国の使節といった国賓と、王宮を出入りする豪商のみ、接岸が許される。たかが一般の商船ごときに、入港許可を出すわけにはいかない。

「それが……航海中、嵐に遭って、積み荷が流されてしまったとかで。ヤワクラムビル港までの食糧と水を確保したい、とのことです」

 唸りつつ、腕を組む。何かが不審だった。

 乾季には、東から季節風が吹く。それを推力に、ファールサの商船は、マタラムへと航海する。

 変わり目とはいえ、まだ雨季だ。南からの海風が強い。今朝も、プラハラ(スコール)の黒雲に追いかけられつつ、急いで雨宿りした。嵐に見舞われるのは、当然といえる。

 このまま追い返すべきか。

 しかし、早すぎる冬と猛威を振るう熱病のせいで、本国は疲弊している。

 皇女シーグリッドを皮切りに、皇帝イーヴァルディに皇妃フレイディスと、相次いで亡くなってしまった。

 第十二代皇帝として即位した皇太子アルヴァリンは、弱冠二十歳。いまだ五歳の末弟ソールヴァルドを乳母に託し、家族の死を悼むいとまもなく、民の救済に奔走していると聞く。

 改宗者すら、見下して差別する連中だ。助けなかったと、騒ぐかもしれない。下手をすれば、外交問題に発展する可能性もある。

 赴任時の謁見が甦る。

 戦いと死の神たるオージンの戦士ならば、かくあるべし、といった風格。英明で、威厳ある物言い。

 若き皇太子の輝かしい未来を、震える思いで待望した。これ以上、かの主君を悩ませるわけにはいかない。そのための駐留なのだ。

「必要な物資を揃えてから、着岸させろ。運搬は、こちらで行う。商人達は上陸させるな」

「承知いたしました。――復唱いたします」

 正確に繰り返された命令に頷き、辞する部下を見送る。白い雲の浮かぶ、青空を仰ぐ。

 マタラムは美しい国だ。赴任したての頃は、暑さに辟易したが、慣れてしまえば、一年中、同じような気温で過ごしやすい。

 何より、食べるものに困らないのだ。それが、どれほど有難いことか。

 母親の栄養が足りず、乳が出ないと涙を呑んで、死者の国〈ヘルヘイム〉に赤子を送り出すこともない。

 王家への配慮から、マタラム人との結婚は許されないものの、冬の悲しみを見ずに済むのなら、天上の神々の国〈アースガルズ〉にいるようなものだ。

 三国で条約を締結してから、八十八年。

 シワの教えにより、殺生を忌み嫌い、武力を持てないマタラム王国の代わりに、外帝将配下のスピユッド戦士団王槍戦士隊が駐留し、悪辣なファールサ人から、島民達を守ってきた。素朴で人懐っこい人々の暮らしを、これからも支えていくのだ。

「さて――ちょっと屋台にでも行くかな」

 揚げグダン(バナナ)か――サンテン(ココナッツミルク)餅も悪くない。クラムビル(ココナッツ)水も、忘れてはいけない。

 祖国では、甘味といえば、果物か蜂蜜くらいだ。クラムビル糖の、舌に直撃する甘さは、ノール人なら誰でも病みつきになる。

 こうして、駐留戦士は、がっつり舌を掴まれて、本国に任期の延長を申し出るのである。

 詰め所の玄関まで来ると、何やら塀の向こうが騒がしい。門を出てみれば、大きな茶色い何かが、眼前を駆け去っていった。

 走りくる部下を問い質す。

「何事だ⁉」

「軍船です! 商船を装って――」

 赤髪に、細い棒が突き立つ。呻きを漏らして、部下が倒れる。

 すかさず、塀の裏に身を隠す。空気を裂く唸り。様子を窺えば、地面には何本もの矢が刺さっていた。すぐ側で、馬のいななきが聞こえる。

 ファールサ騎兵ほど、大陸で恐れられているものはない。

 もともと騎馬民族だった彼らは、鐙も使わず、手放しで馬を操れる。弓は速射でありながら、正確無比。馬も、農耕に特化した祖国の種とは、全く異なる。機動力に優れ、暑さにも強い。

 だからこそ、ノール人は、製鉄を発展させてきた。槍、斧、剣、鎖帷子――歩兵ながら、互角に戦える精強な戦士達。

 連中は、己の利益のために戦う。それを、異教徒討伐だと、うそぶくのだから笑える。

 しかし、ノールの戦士達は違う。

 勇猛果敢に戦い、ヴァルキュリャに選ばれ、勇者の魂〈エインヘリャル〉となって、死者の館〈ヴァルホル〉に赴く。そして、来るべき終末の戦い〈ラグナロク〉に備えるのだ。

 その栄誉のためなら、命など惜しくない。

 詰め所へと戻り、装備を整える。

 鉄製の兜。腰に佩いた剣。手によく馴染んだ槍と斧。

 盾を構えると、鎖帷子を鳴らして駆け出した。


        *


 宮の北東にある家寺の祭壇に、供物と聖水が捧げられる。昼前の日差しが、読経する父を燦々と照らす。

 輝く金髪と淡黄色の肌。古来のマタラム人とは明らかに異なる容姿は、王たる証だった。

 三つの大臣家もサトリアで、王子や王女が降りているものの、これほど白くはない。ウォン・ラナン・プティ(白い人)であることは、王に求められる最も重要な形質なのだ。

 父が、祖霊に深々と頭を下げる。皆でならい、ともに身を起こす。

 振り返って、静かな声が語る。

「欲をかき、帝位を簒奪せんとした、咎ある我らを、サトリアとして受け入れ、王と仰ぎ奉る、民の尊きを忘らるることなかれ。民が、我らを神々の化身と敬おうと、己は卑小な人たると覚え、慎み深く、民に尽くせんと努むべし」

 古いノール語。百二十六年前、スティンヴァーリ帝国の皇弟が、初代の王として立った時に、ともに落ち延びてきた者達に語った言葉だ。

 毎朝、王を継いだ者が、必ず子孫に語り聞かせる。そうして、今の暮らしがあるのは島民達のおかげだと、心を戒めるのだ。

 父が、薄青の瞳を見つめて、静かに問いかける。

「強さとは何か。わかるか、スクワト」

「いついかなる時も屈せず、武力ではなく、知恵によって事を収め、民を守ることと、心得ます」

「そうだ。武力は、破壊と憎悪を生み出す。ご父祖様は、ファールサとの戦いを主張して、国を追われた。しかし、時の皇帝陛下は、世代を越えて、広いお心でお許しくださった。我らが武器を持たずにいられるのは、祖国から遠く離れ、海を渡ってきてくださる戦士の方々がいるからこそ。常に感謝を忘れず、強い知恵者となれるよう、励むのだぞ」

「はい、祖父上」

 背筋を伸ばし、威勢よく応える姿。父の顔が、ふっと緩んで、優しく語りかける。

「ステノゴがともにいられるのも、あと少し。語学は、早々に克服せねばな」

 赤らんだ横顔が、眉根を寄せて俯く。そっと身を寄せて、真っ直ぐに告げる。

「父上。スクワトは、とてもがんばっているんですよ。一日に一刻は、ファールサ語とノール語で話そうと、決めたりして」

「おお、そうか。今度、成果を聞かせてくれ」

 二人で、はっきりと返事をする。

 柔らかな、父の笑顔。おもむろに静かになって、厳かに告げる。

「明日はニュピ。気を引き締めて、過ごすように」

 兄のスルシコが代表して応え、朝の祈祷は滞りなく終わった。


 父と母達が去ると、硬い声が、スクワトに投げつけられる。

「まったく……外でばかり、遊んでいるからだ。また日焼けなどして、ウォン・ラナン・プティを穢す気か。スブラノには、きつく言わなければならないな」

「そんな、父上! スブラノは悪くありませんっ」

「何のために、年上の乳兄弟を選んだと思っている。王を継ぐ者の近習は、ただの召使いとは違う。お前の自覚が足りていれば、こんなことにはならない。――いいな。よく覚えておけ」

 スクワトの口元が、わなわなと震える。滲む薄青の瞳。

 さすがに耐えかねて、反論しようと息を吸う。しかし、

「……っスムナリ!」

 姉が、左手で、兄の右手を掴んでいた。

 きつく睨み上げる、紫の瞳。振り払われて倒れ込む。駆け寄りつつも、姉の行動が信じられなかった。

 大音量が、露天に響く。

「あやあってくやさい、兄上! あやあって!」

 ぎょっとして、兄が姉を見つめる。

 姉が話すことを、家族のほとんどは知らない。というより、忘れている。

 幼い頃、周囲に微妙な顔をされてから、発声をやめたと、打ち明けてくれたことがあった。

「兄上、さすがに言いすぎです。ご苦労は理解します。でも最近、姉上は、何かを感じて見ていることが、ふえているんです。きっと、何かが起きる。どうか、スクワトに、あやまってください」

 淡黄色の顔が、不快に歪む。冷たい声が、降ってくる。

「……そこまで言うなら、俺が沐浴を済ませるまで、自室でおとなしくしていろ。話は、それからだ」

 そして、姉を見下ろして告げた。

「不具の女の分際で、よくも清浄の手に触れてくれたな。お前の声は耳障りだ。二度としゃべるな」

 憤然と歩く兄の背中。屋内に消えて、薄青の瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。飲み込もうとするスクワトを、姉が、そっと抱き締める。

 しがみついて、嗚咽する声。切れ切れに、言葉が紡がれる。

「……っおれ……おば上の、声……すごく好きっ……ちょっと、びっくりする、けれど……やさし、くて……だからっ……」

 胸に響いて気づいたのだろう。姉が首を傾げる。

「音量が大きくて、少しびっくりすることもあるけれど、姉上の声は、優しくて、すごく好き――ですって」

 スクワトが、みじろいで離れ、改めて、好き、と、はっきり唇を動かす。

 咲き誇る、満面の笑み。ぎゅっと抱き締めて、姉が明るく告げる。

「わたいも、ういよ。――ウテノオも」

 片腕が伸びて、温かく収まる。スクワトの右手に触れ、微笑む。

「いっしょにがんばろう、スクワト。兄上を、おどろかせてやろうよ」

 頷いて、鼻をすする顔。

 決意のこもった色が、薄青の瞳を、晴れ晴れと輝かせていた。


「あちらが、わたしどもの村落のものでございます」

 スヌンゴの示した先。おどろおどろしい悪鬼の張り子が、そびえている。

「今年も、りっぱだねえ!」

「それはもう、宮仕えの誇りにかけて、負けていられませんから」

 おかしそうに、スヌンゴが笑う。

 毎年恒例のやり取り。顔を見合わせて吹き出すまでが、お約束だ。

 ニュピの前日――つまり、カサンガの月の末日は、地下の魔王が大掃除を行う。悪鬼達は、住み処を追い出され、地上に飛び出してくる。

 そこで、巨大な張り子を依り代として、おびき寄せる。悪鬼は火を嫌うから、張り子を燃やし、地下にお帰り願う、というわけだ。

 こうして、明けてカダサ(十番目)の月の一日を迎える。

 当日は、労働と殺生、火の使用が、一切禁じられる。料理ができないから、この日ばかりは、とても質素な食事になる。

 その上、外にも出歩けない。ワルナ(カースト)も出身国も関わりなく、皆、家にこもって、静かに過ごすのだ。

 だから、町は、水を打ったように静まり返る。ニュピが、〈静寂の日〉と呼ばれる所以だった。

 その代わりにとでもいうべきか、オゴオゴの祭礼は盛大に行われる。

 雨季の激しい雨に見舞われながら、各村落は、かなりの気合いを入れて、張り子をつくる。日々の仕事だって忙しいのに、ここまでの大作を仕上げる心意気には、毎年感動するものだ。

「早く、豚の丸焼きが食べたいなあ……」

 串刺しになって、くるくる回る、よく肥えた豚。かりかりの皮に、香ばしい脂の甘み。祭礼でしか食べられない、とっておきのご馳走。

「ああ、いけません、ステノゴ王子。おなかが空いてしまいます」

 丸々一頭だから、すごく時間がかかる。祭りが最も盛り上がる夕方までは、おあずけだ。

 二人で、生唾を飲み込む。たまらず声を上げる。

「もうだめだ! 屋台で何か買おうよ。おさいふ、持ってきているでしょ」

「はい、こちらに」

 ろうけつ染めのヤワ更紗と、生成の袋。

 乳母であるスヌンゴの母が、買い食い用にと縫ってくれた、子供用の硬貨入れだ。

「何にする?」

「あまり食べすぎると、お夕食が入らなくなりますから――」

 でも、せっかくオゴオゴなのに、などと言いながら、屋台の通りへと足を向ける。

 揚げグダンに、パンダン団子、サンテン餅。揚げ魚も悪くない。

 クラムビル糖と魚醤の甘辛いたれの染みた衣に、ふわふわの白身は、絶品なのだ。肉なら、やっぱり鶏の串焼きが一番だろう。

 飲み物は、クラムビル水もいいけれど、餅入りサンテンと玉子乳も捨てがたい。もう想像するだけで、腹と背がくっつきそうだ。

 結局、一人分を二人で分け合うことにして、思う存分、祭りの屋台を楽しんだ。


 ガムランの硬質な音色が、澄んで青空に突き抜ける。島民達の熱気の中、悪鬼の張り子が通りを練り歩く。

 輿を担ぐ男達。祈り踊る女達。精霊でも憑いたのか、ざわめく一団が遠くに見える。

 肩を叩かれて振り見る。

 スクワトの示した先。正装したスブラノが、村落の皆とともに、輿を進めている。

 我が事のように、自慢げな甥の面立ち。すてきだね、と微笑んで、スヌンゴが通るのを待つ。

 ほどなくして、立派な張り子が現れる。

 幼い弟妹きょうだいの面倒を見ながら、スヌンゴが輿の横を歩いていく。

 担ぎ手は、一人前になってからだ。それでも、幼い子達に慕われて、まとわりつかれる様子は、誇らしく幸せなものだった。

 沈み始めた太陽の光が織り成す、悪鬼の深い陰影。

 恐ろしくも、精魂こめられた張り子は、きっと悪鬼達を魅了して、取り憑かせるだろう。明日のニュピを無事に迎えられるよう、心から祈る。

 おもむろに速度を上げる、玲瓏れいろうな音色。土を踏み締める、数多の音。波立って押し寄せる、動物の鳴き声。悲鳴。

 逃げ惑う人々を蹴散らして、茶色く大きな動物に跨がった一団が見える。隣で、息を呑む声が聞こえる。

「ファールサの騎兵⁉ どうして――」

 空気を裂く、数多の唸り。重い音が、背後で続けざまに鳴る。

 一瞬の間。

 絹を裂くような悲鳴が突き抜けた。

 振り返れば、父は椅子に座ったまま、固まっていた。――身体に、何本もの細い棒を生やして。

 あれは、いったい、何なのだろう。

「ねえ、スクワト……あの木の棒は……何?」

「……矢……大陸の、武器……」

「……武器……? え……?」

 武器とは、人を殺すための道具だ。それが、どうして、父に刺さっているのだろう。

 一団が観覧台に横づけし、高く快哉が上がる。

「よし! ウィカックサナラジャを――たぞ!」

「いいや、あれは俺の――だ。――の模様を見てみろ」

「でもよ、俺の――は、目に刺さってるぜ。あれが――だな」

「おうおう、ノールの青が潰れてら」

 けらけらと笑う、赤い男達。兄が憤怒の形相で、哄笑の渦に迫る。

「よくも、父上を……ッ! 条約を反故にし、他国を踏み荒らす――それが、ファールサの礼儀か!」

 一人が、ヤワ語の口真似をして、意味不明な声を発する。

 げらげらと、大仰に腹を抱える嘲笑。兄が、今すぐ降りろ、と叫んで、右手を振り上げる。

 閃光が反射し、途端、その身体が、左に強く振れる。

 何かが――宙を高く飛んで、観覧台に落ちた。

 歪んだ歓声が、次々と投げつけられる。

「これで、糞を拭く手と米を食う手が同じになったな!」

「野蛮な異教徒には似合いだ!」

 途切れた右肩を押さえて、兄が崩れ落ちる。

 隣で身を乗り出す気配。すかさず、きつく抱きすくめる。姉の腕に収められて、互いの手で口をふさぐ。

 ひゅんと唸り、兄の首から、小さな刃が飛び出てくる。

 板張りの床に伏し、わななきながら、左手が伸びる。

 その、不浄の手。今、一番繋ぎたい手。

 ただ震えて、青い目から、生気が抜けていく様を見つめる。

「さて、とりあえず――くぞ」

 五人の男が、茶色い生き物から降りる。そして、一〈ストゥンガル〉の母と義姉あね、乳母から、乳飲み子と幼子を、もぎ取っていった。

 高々と放り投げられる、一歳の甥と二歳の甥。追いかける矢が、小さな身体を貫く。そして、落ちて、砕けた。

 六歳の姪と五歳の妹、五歳の姪、四歳の姪は、一列に並ばされて、追い立てられた。泣き叫びながら走る足取りを、矢の暴風が容赦なく阻む。

 当たったと、歓喜する雄叫び。祭りのような陽気さ。

 滲んでかすんだ視界で、ただただ見つめる。

(……あいつらは鬼だ……きっと、地下から出てきた悪鬼なんだ……)

 七歳の甥と六歳の弟を前に、赤い鬼達は、何やら相談し合っている。

「この歳じゃあ、王〈シャー〉に――できません。それなら、俺達で楽しみましょうや。いいですよね、――長」

「構わん。こんな――で、ノウルーズを過ごすんだ。このくらいの――は、あってもいい。連れていけ」

「味見してもいいですか?」

「夜は長い。俺が戻るまで、ほどほどにしろ」

「もちろんです。まあ、――くらいは、許してくださいよ」

 二人の鬼が、それぞれを抱えて、茶色い生き物に跨がる。母を呼ぶ悲鳴が、遠ざかっていく。

 残ったのは、三人の母と三人の義姉、姉のスムナリと甥のスクワト、乳母達だけだった。

 赤い鬼が、満足げに見渡して頷く。奇妙な抑揚のヤワ語が命じる。

「お前ぇ達、立ぁて」

「……ぼく達を、どうするつもりだ」

 褐色の目が瞬く。おもむろに、愉快げな笑いが広がる。

「お前、しゃべれるのか。未開の野蛮人にしては、発音も悪くない」

 言い返そうとするスクワトを、肩を押さえて制す。

 もう、男は自分達しかいないのだ。わななく喉で、言葉を絞り出す。

「ぼくが、みなに話す。だから、これ以上、乱暴な行いはするな」

「……っお、おれも話せる。女達は、にがしてほしい」

 鼻で笑う声。粘りつく視線が、背後の皆を眺め回す。

「それは無理だ。俺達にも、役割ってものがあるんでな」

 鬼の赤い顔が、すっと冷える。そして、重々しい声音で告げた。

「さあ、立て。お前達を、王宮に――する」

 とりあえず、ついていくよう、皆に伝える。身を寄せ合いながら、宮までの短い距離を歩く。

 逃げ遅れたのだろう。屋台や張り子の影から、日に焼けた黄色い顔が、いくつか覗いている。怯えた目を一瞥し、大丈夫と、密かに微笑む。

 すると、一角から飛び出す人があった。茶色い乗り物が鳴き、行列が止まる。

 見慣れた姿。すかさず駆け寄って叫ぶ。

「この者は、ぼく達の世話をする係だ! 今すぐ、それを下ろせ!」

 小さな刃が仕舞われ、木の器具が、鬼の肩にかかる。近習に向き直って言う。

「どうして出てきたの? かくれていなきゃ、だめなのに……」

乳弟おとうとを守らず、我が身可愛さに逃げる乳兄あにがおりましょうか。すぐに参上できず、何とお詫び申し上げればよいか……」

 走りくる足音。乳兄の胸に飛び込んで、力いっぱい抱き締める。

「スブラノ! 祖父上が……兄上が……みんなが……っ」

「ああ、スクワト王子……あんな残虐な行いが、どうしてできるのでしょう……本当に、おいたわしい……」

 疑念に満ちた視線。そっと、二人の肩に触れる。歩くよう促してから、再会を喜んだだけだと説明する。

 スヌンゴの顔が、心に浮かぶ。会いたいという気持ちが閃き、家族とともに逃げて、無事でいてほしいと祈る。

 宮に着くと、謁見の間に押し込まれた。

 最も広く、しかし、敷地のどこからも丸見えだった。

 人の目が届くということは、虫も入り放題なのだ。こんな雨季に、虫除け網なしでは、夜は寝られない。

 提案しようと思うと告げると、スクワトは猛反対した。

「あいつらをおこらせたら、大変なことになる。おじ上までいなくなったら、おれ……そんなの、いやだ……」

 スブラノに抱きかかえられたまま、泣きじゃくる姿。

 ゆっくりと、噛んで含めるように話す。

「聞いて、スクワト。たぶん、ぼく達は、やつらにとって、何か利益があるんだ。だから、残された。きずつけるようなことはしないと思う」

 薄青の瞳が、信じられないものでも見るような色を宿す。甲高い声が叫ぶ。

「どうして、そんなに平気そうなんだよっ⁉ みんな殺されたのに、おじ上は悲しくないのかよ!」

「――平気なわけないだろ!」

 何事かと、見張りの鬼達が振り返る。一息にまくし立てる。

「スセハト兄上もスキリコも、無事かわからない! それならもう、王を継げるのは、きみしかいないんだ! 他の兄上も姉上も、みんな、大臣家と首長家におりてしまっているんだから! 六〈ヌム〉の王子のぼくは、きみを守らなきゃいけない! きみが、どんな人でも! そうやって、めそめそ赤ん坊でいたいなら、ずっとそうしていればいい!」

 憤然と立ち上がって、板張りの床を踏み締める。数歩行ったところで、つんのめる。

 上衣を掴む指。しゃくり上げながら、スクワトが呟く。

「……ごめんなさい、おじ上……」

 おもむろに、手を差し出す。確かに繋いで、また歩を進める。 

 見張り達に、二人で知っている単語をつぎはぎし、なんとか要望を伝える。

 何かの長に確認するとだけ返答があって、とりあえず待つこととなった。


        *


 サカ暦七六五年カサンガの月の二十九日。

 幼い娘二人を抱える老師。守るように、手前に正座する甥に告げる。

「大プダンダ様と娘達を、頼んだよ」

「おまかせください、スセハトおじ上。ファールサには、指一本ふれさせません」

 しっかりと頷く面立ち。静かに座し、真っ直ぐに目を見て話す。

「スキリコ。ひとつだけ、お願いがある。――絶対に、ファールサ兵に捕まってはいけないよ。たとえ、ここを放り出しても、絶対に逃げるんだ。わかったね?」

 緑の瞳が、戸惑って瞬く。

 ファールサでは、緑は高貴な色とされ、宮殿に使用されるほど、珍重される。色彩豊かな目を持つノール人でも、生まれるのは稀だ。

 だから、非常に高値で取引される。それが、十歳前後の見目のよい男子なら、なおさらだ。

 そして、ファールサ人が少年を買う目的は、ひとつしかない。男色の相手をさせるのだ。

 まだ九歳の子供に、そんなおぞましい話を聞かせるわけにはいかない。考えあぐねていると、穏やかな声が語り出した。

「我が弟子よ。叔父の言うことは正しい。ファールサは、殺生に等しい悪行を、習慣としておる。浄められぬ悪から、おぬしを守るためじゃ。わしらを置いて逃げたとて、シワは善行とこそすれ、悪行とは、決してご判断なさるまい」

 疑問が消え、心の定まっていく面立ち。しっかりと頷いて、スキリコが宣言する。

「わかりました。――大プダンダ様、おじ上。決して、つかまらないようにいたします」

「ありがとう。無事で、また会おう」

 老師に深く礼をし、納戸の扉を閉める。

 本堂の広間に戻ると、多くの顔に出会う。不安に満ちて、怯えた表情。見渡して、静かに告げる。

「大プダンダ様は、安全な場所におられる。己の神を唯一だと、いくらファールサ人が信じているとはいえ、寺で乱暴を働くはずもない。皆で、嵐が過ぎる時を待とう」

「バガワド様がいらっしゃらなければ、どうなっていたことか……」

「本当に……恐ろしいことになってしもうた……」

 すすり泣く声。たまらない思いで、島民達を見つめる。

 ファールサの騎兵は、観覧台へと突進していった。無事を確かめたいが、今は民を守らねばならない。

 そっと、肩に触れる感触がして、振り見る。

 妻の、柔和な微笑み。強ばりかけていた顔を緩める。

「……皆で祈ろう。再び、神々の平和が成されるように」

 島民達が、一斉に、正座して姿勢を正す。心をこめて手を合わせ、経を唱える。

 あたりの音が遠のき、静けさが全身を包む。この世の全てと溶け合い、平安に満たされる。

 扉を蹴破る音が、けたたましく静謐を破る。

 瞑想から覚めて見遣れば、赤銅色の肌の男達が立っていた。湾曲した刃の閃き。平らかな声音で、宣告する。

「ここは祈りの場だ。剣を収め、立ち去るがいい」

 おさらしき男が、皆を見回して、ひたと妻に視線を向ける。下卑た笑いが浮かぶ。

「女、来い」

「これは私の妻だ。私は祈る者。妻も同じだ。お前達の導師と同じ、聖なる者だ」

 妻をきつく抱き寄せて、訴える。ファールサ語は久しぶりだが、通じているはずだった。

 その証拠とでも言わんばかりに、侮蔑の哄笑が返ってくる。

「女! それも、股の開いた女が導師だと! さすがは野蛮な邪教だ! ――おい」

 顎で示した先。命じられた男が、老人を引っ張り出す。

 首筋に当てられた刃。家族が、夫と、父と、祖父と、悲鳴を上げる。

「女を渡せば、放してやる。ここにいる奴ら全員、弓矢の的にしてやってもいいんだぜ」

「バ、バガワド様っ……わしゃ、もう十分生きた。こんな奴らに、奥様を渡しちゃあいけません……!」

 歳月を経て、しわがれた声。祖霊を祀り、老いた者を長老として尊ぶと知っていて、選んだ。選択肢など、ない。

 しかし、妻を引き渡したら――。

「バガワド様。私らのことは、気にしないでください。どうか、奥様のために」

「あの顔を見りゃ、何を考えてるかなんて、わかります。おねげぇです。サトリアのお方のために死んだとなりゃ、きっと来世は明るいはずですから」

「あんな、悪鬼よりもひどい畜生に従うことなんざ、ありゃしませんよ!」

 次々と声が上がる。

 民達の、素朴な願い。腕の中の、ぬくもり。嘲り、粘りつく視線。

 柔らかな声が、鼓膜を打った。

「私が、参ります」

「しかし、スアングティ……!」

「どうか、皆を――子供達を、頼みます」

 柔らかに胸が押し出され、するりと離れていく。

 優美な所作にそよぐ、ヤワ更紗の美しい腰布。

 伸ばした手が掴んだのは、ただの空虚だった。

「行くな! スアングティ!」

 赤い男達に従って歩みゆく、しなやかな背中。ふと振り返って、囁く。

「――あなた……」

 その、優しく、いとおしい微笑み。

「行ってはだめだ! スアングティ! スアングティ――ッ!」

 扉が、けたたましく閉まった。


        *


 暗月〈ティルム〉の星明かりの中、薄青の瞳が、濡れて光っている。

 それぞれの抱き枕を挟んで、手を繋いだまま、互いを見続けていた。

 交渉の結果、男三人はスクワトの部屋で、女達は、母と姉の四人、義姉の三人に分かれて、軟禁されることになった。乳母達は、拙いながらに説得し、家族の元へと返した。

「……ぼく達、どうなるんだろう……」

 何度呟いたか、もうわからない。考えたところで――しかし、考えなければ、何かが途切れてしまいそうだった。

 どうして攻めてこられたのか。王槍戦士隊は、どうしたのか。ファールサの目的は、いったい何なのか。

 情報を引き出したくても、知っている単語は、あまりにも少なかった。

 父と兄が、難しい顔をして、話していたこと。

 婿に行くのだから知らなくていいと、言われるままに、甘えてきた。スクワトの知識を頼ろうにも、次々代なのだ。ゆっくり、学んでいくはずだった。

(もっと……ちゃんと、勉強すればよかった……)

 なんてのんきで、子供だったのだろう。

 ファールサは、いつだって、マタラムを踏みにじる存在だったのに。入門式から二年間、歴史の授業で、学んできたのに。

 ぽろぽろと雫をこぼす、薄青の景色を見つめる。

 せめて、この同い年の甥だけは守りたいと、切に願った思いを最後に、意識が薄れていった。

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