「お子さんは元気ですか? たしかそろそろ高校卒業でしたよね」


 会議室に備え付けのコーヒーメーカーで淹れた二杯のうち、ミルクを入れていない方を婦人の前に置く。

 一杯は自分用。せっかく豆も機械もいいもの使っているのに、カップは味気ない紙製だ。いつも総務に言おう言おうと思っているのに忘れてしまう。


「いえ、もう大学生なんですよ。今年の春から学生寮に」


 初老の婦人がカップを両手で持ち一口して机に置く。娘の話題に触れたことで、固い表情が幾分和らいだように見えた。


「ああ、大学生。そういえば昨年その話をしました。早いものですね。あの子がここに来てくれていた頃からもうそんなに経ちますか」


 言葉ではそう言いつつも、彼女の娘さんがいま大学に通っていることを彼――MD社で技術主任を務めるナカモトは知っていた。こうして糸口を相手に渡してやることが彼の会話術なのだ。効率のためではない。彼はカウンセリングの専門家ではないけれども、言葉を多く吐き出させることの効能を長年の経験で知っているのである。


「なんだか不思議よね。ここに来るとまるで自分も15年前に戻ったような気がするの」


「みなさんそう仰います」


「だけど実際にはもうすぐお婆ちゃんよ」


「いえ、今も変わらずお綺麗ですよ」


「ふふ、ありがとうナカモトさん。さっきあの人にも同じことを言われたわ」


 誘導のようになってしまったことに途中で気づいたのだろう。婦人はきまりが悪そうに肩をすくめて少し笑った。

 カップをもつ指には結婚指輪が光っている。世辞を言ったつもりはないが、婦人のその細い指には隠しきれない年月の跡が刻まれている。

 彼女は毎年、クリスマスのこの日にこの施設へやってきて、月にいる夫と通信する。その後、こうしてナカモトとコーヒー一杯の雑談をするのがいつしか恒例のようになっていた。


「ご主人の様子はいかがでしたか?」


「いつもと変わらないわ。少し鈍いところも、自分では鈍いと思っていないところも、昔のまま」


 そう言って思い出したようにまた微笑む婦人。ナカモトは何を言うべきか少し迷った。


「そんな顔しないでください、ナカモトさん。私、会社にはとても感謝しているんですよ」



 月面開発プロジェクトに共同参画するMD社から派遣された百数名の技師・研究者の一人であった彼女の夫。その夫を彼女は15年前、月面の基地で発生した核融合炉の爆発事故により亡くしている。


 地球上から肉眼で捉えることさえできたその強い光は、当時月面開発に従事していた万を超える人々のうち半数の命を一瞬で奪ったという。

 そして夫と同僚を含む残り半数の命は、事故数日のうちに低体温あるいは窒息により失われたと推定されている。電気が廻らなくなった不夜城に、人の生き残る余地はなかったのである。


 彼らの遺体は、今もほぼ完全な形で残存していると考えられている。しかし15年間、ひとつとして回収は果たされていない。そしてきっとこの先も。

 爆散によって月の低軌道にまで吹き上げられた破片が、元々そこに飽和的に存在していた通信・測位衛星と衝突。その連鎖衝突が新たな破片を指数関数的に生み出しながら、止める術もなく月の軌道はケスラー・シンドロームへと至った。

 秒速数キロで周回する金属片の雲に覆われた月は、脱出を試みることも、救出のため着陸することもできない隔絶された星となったのである。


「会社には感謝しています。手厚い遺族年金を頂いて。年に一度きりでも、こうして夫と会うことができるのだから」

 

 彼女が会話をしている相手は、事故発生の数日前に月面の研究用サーバにアップロードされた夫の断片である。

 メイン電源の喪失している月面基地で、太陽光発電のみで耐えうるよう普段は圧縮・コールドスタンバイされている情報集合体のひとつに過ぎない。


 そして年に一度、事故調査のためにサーバをホットスタンバイ化するのに伴って「起床」する彼らは、新たな情報でアップデートされることもなく、最後で最新の記憶――同じクリスマスの朝を自覚なく幾度も繰り返している。

 そして彼女は、夫の発するクリスマスコールを受け取るため、毎年この施設に足を運んでいるのである。


 通話中の妻の姿は、15年前の姿に加工されて夫の目には映っているはずだ。背景は家族で暮らした自宅のリビングに。幼いままの娘もいる。そのようになっている。


「だけどね、ナカモトさん。これはのあなただから言うのだけど」


 婦人は言葉を繋げる。


「いつまでも変わらない家族の姿。声も、仕草も、あの人と同じ。気の利いた事を言おうとして決まらないところも昔のまま。このおぞましさを、あなたたち技術者は決して忘れてはいけないわよ」


  

 西日の入る会議室で、ナカモトは婦人が飲み残していったコーヒーカップを眺めていた。

 あるいは、来年彼女はもうここには来ないのかもしれない。そう思った。

 たぶん彼女もまた、ようやく新しい暮らしを見つけたのだ。

 理由はうまく言語化することができない。それはあの事故以来、同じように卒業していく人々を何度も何度も見送ってきた経験によるものとしか言えないのである。

 

 では、月に残された彼らはどうなるのか。

 今、コールドスタンバイの静かな海の底で、夢を見ている彼らは。

  




 いつもと同じようにゴードン・ライトフットの『If You Could Read My Mind』で目を覚ます。

 いつもの朝。

 見慣れた天井に張り合わされた発光パネルの目地を仰向けになってぼんやりとなぞる、いつものルーチン。 


 上体を起こすと、部屋のブラインドが静かに上がる。窓の向こうには月の地平、青い地球。


 そのデフォルト・プロジェクション・パターンがどうしてだろう今朝は無性に寂しく感じられる。

 もうこの部屋で過ごす残り時間もあまりないけれども、いい加減変えてもいいかな。そう思った。


 海がいいな。海にしよう。ホテルの窓から眺める海。

 白塗りのバルコニーを越えて、そのまま飛び降りられそうな、遠くまで間近に見えるような、青い海と青い空がいい。

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Christmas Call 志乃亜サク @gophe

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