Christmas Call

志乃亜サク

前 

 いつもと同じようにゴードン・ライトフットの『If You Could Read My Mind』で目を覚ます。

 いつもの朝。

 見慣れた天井に張り合わされた発光パネルの目地を仰向けになってぼんやりとなぞる、いつものルーチン。

 少しだけ違うのは、昨日のクリスマス・パーティの酒が枕と頭との間に鈍い痛みを残していることくらいだろうか……。


 上体を起こすと、部屋のブラインドが静かに上がる。窓の向こうには月の地平、青い地球。

 といってもここに本物は何一つない。窓枠もブラインドもテンプレートのフレーム。ボタン一つで美術館の額縁に変えることもできるし、『ニューシネマ・パラダイス』の冒頭のように白いカーテンを延々と風にたなびかせることだってできる。

 窓枠の中の景色は外のカメラから拾って映し出されているリアルタイムの映像らしいけれど、それにしたところで本当のことはわからない。あの地球の裏側は案外ベニヤの貼られたハリボテなのかもしれない。


 地平線からのぼる地球に震えるほど感動したのは、月面基地に赴任して最初の数日だけだった。

 いくつもあるプロジェクション・パターンからこれを選んだ……というよりセットアップ時の初期値から変えていないのはただのものぐさだ。

 同僚のゲイリーは聖書の朗読、パーチェスはフットボール・ダイジェスト、メリンダはチームと自分の今日一日のToDoリストを流すようにしているそうだ。

 なんとなくその人間を表している気がするよ。デフォルト設定のままの自分も含めて。

 変わり映えのないウインドウ。それでも閉じることをしないのは、あてがわれたこの窓のない監獄のような個室から、少しでも外界との、地球との繋がりを感じたいからなのかもしれない。いくつかの壁を越えた向こうにはマイナス270度の世界がある。それは薄い大気層の底で暮らす地球にいても同じことではあるのだけれど。


 コンパネがタスク時間の近づいていることを知らせてグリーンに光る。ああ、もうこんな時間か。

 通話開始のアイコンを指でタップする。



「メリー、メリー・クリスマス、こちらサンタクロース。月面よりお送りしています」


 部屋の壁面から窓枠も瞬く星も青い地球も消え失せて、代わりに自宅のリビングでソファに並んで座る妻と娘の顔が映し出された。

 

「パパ!」


 2秒遅れで娘が嬉しそうに反応する。


「やあアリーサ。そっちの天気はどうだい?」


「雪が降ってる。だからお月様が見えないの」


「そうか。こちらからは地球がよく見えているよ」


「月には雪が降らないの?」


「月はいつでも快晴さ。だから君がいまいるお家もよく見えているよ」


「本当に?」


 アリーサは驚いたように天井を見上げる。


「おや、君と一緒にいるクマはお友達かい?パパに紹介してもらえないかな」


「クマじゃないわ。ロージーよ。サンタさんにもらった、わたしの妹なの」


 大きなピンク熊のぬいぐるみ。その少し間の抜けた顔がアリーサの手で画面いっぱいにアップになる。


「そうか。はじめましてロージー、パパですよ」


 アリーサはロージーの腕を掴み画面に向かって振って見せた。そのやりとりを眺めながら静かに微笑む妻。


「ハイ、ミスター・ムーン。こちらヒューストン」


「やあ管制官、感度良好。メリー・クリスマス」


「メリー・クリスマス。あなた少し痩せた?」


「帰還者用の順応トレーニングのせいかもね。少しずつ地球の重力に慣らしていくんだ」


「地球には予定通り帰れるの?」


「ああ。ちょうど今日の午後、最後のメモリアップロードを終えたらここでのぼくの研究者としての仕事は終わりだよ。あとはぼくの記録と記憶を引き継いだAIが後任者をサポートしてくれるから、生身のぼくは来年の春先には君らと一緒に自宅から月を見上げているはずさ」


「ふふ、ごちそうを用意して、アリーサとロージーと三人で待ってるわ」


 それから互いの近況報告、両親の様子や同僚のことなど他愛のない会話を交わす。アリーサは途中で飽きてしまったらしく、モニターの外で遊びながら時おり思い出したようにちょっかいをかけにくる。


「ねえ、あなた」


 妻は言う。


「私、どこか変わった?」


 うん? これは気を付けて答えなければいけない質問だろうか。


「もちろん変わったよ」


「どこが?」


「前よりもずっと綺麗になった」


「ふふふ、ありがとう」


 正解かどうかはわからないが、答えとして間違いではなかったようだ。


「何かあったのかい?」


「美容院に行ったのよ。あなた、本当は気づかなかったでしょう?」


「あ、いや…」


 するとアリーサが身体ごと会話に割り込んできた。


「パパ! わたしも月に行きたい!」


「もう少し大きくなったらね。君が大人になる頃には、誰もが特別な訓練を受けなくてもTシャツと小さな旅行バッグひとつで月へ来れるようになる。そのために今パパは1万人の仲間とここに街を作っているんだよ」


「ロージーも一緒に行ける?」


「もちろん。月の街を案内してあげるよ」


「約束ね?」


「ああ、約束だ」

 


 そうして帯域利用の予約時間いっぱいまで会話を交わし、通信は終わった。笑顔で手を振る妻と娘の映像がブラックアウトして元の窓と月の地平、その向こうの地球になった。

 地球まで38万km。少し遠いけれどもバイクでぶっ飛ばせば半年で着く距離だ。

 そう思って着任からこれまで地球を眺めてきたけれども、今は少しだけ遠く感じる。

 もうこの部屋で過ごす残り時間もあまりないけれども、いい加減プロジェクション・パターンを変えてもいいかな。そう思った。

 海がいいな。海にしよう。ホテルの窓から眺める海。

 白塗りのバルコニーを越えて、そのまま飛び降りられそうな、遠くまで間近に見えるような、青い海と青い空がいい。




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