(三題噺おまけ)ソラナム・プロトコル
11月14日、午前0時。
東欧の某国、国境から5キロ地点にあるセーフハウスで、その男――パスポートの名義は『アーサー・モロー』――は、作業の最終段階に入っていた。
部屋には殺風景な蛍光灯の明かりだけが灯り、作業台の上には、ロンドンから外交官特権を利用して持ち込まれた数点の機材が並べられている。
モローの依頼主であるMI6(英国秘密情報部)の「期待」は明白だった。
標的は、この地域の軍事独裁者であるカミンスキー将軍。彼の存在は、西側のエネルギー政策にとって看過できないリスクとなっていた。だが、将軍の警備は鉄壁だ。彼の居城は最新鋭の生体認証センサーと、金属探知機、そして爆発物探知犬によって二重三重に守られている。
通常の狙撃や、ドローンによる攻撃は不可能。内部に潜入し、確実に息の根を止める必要がある。
MI6の作戦本部は、モローがどのようなハイテクガジェットを使用するのか、固唾を飲んで見守っていたことだろう。
だが、モローが手にしているのは、レーザー兵器でも、遠隔操作の毒ガス噴霧器でもなかった。
彼は作業台の上にある、茶色い不恰好な塊を手に取った。
市場で調達した、ごくありふれた男爵芋(ソラナム・チューベロサム)だ。
彼は外科医のような慎重さで、芋の側面をメスで切開した。
中身をスプーンで丁寧にくり抜く。外皮の厚さを5ミリ残すのが、強度の観点から理想的だ。
そこに詰め込むのは、チェコ製のセムテックス-H。可塑性爆薬である。
無臭かつ、金属探知機には反応しない。X線検査にかけても、有機物の塊である芋の中に詰め込まれた有機化合物であるセムテックスは、単なるデンプンの密度異常としてしか映らない。
モローは、セムテックスの中心部に、ガラス製のアンプルを埋め込んだ。
二液混合式の化学信管だ。アンプルが割れると、酸が隔壁を溶かし、5分後に起爆する。電気回路を一切使用しないため、電波妨害装置(ジャマー)も無効化できる。
これが、彼が用意した爆弾の全貌だった。
「シンプルさは、究極の洗練である」
かつてレオナルド・ダ・ヴィンチはそう言ったが、暗殺の世界においてもそれは真理だ。
モローは切開した芋の皮を、デンプン糊で丁寧に張り合わせた。乾燥すれば、継ぎ目は肉眼では判別できない。
仕上げに、本物の泥を薄く塗りたくる。
完成したそれは、どう見ても、ただの薄汚れた芋だった。
◇
午前8時。カミンスキー将軍の官邸。
通用門では、定期的な食糧搬入が行われていた。
厳重な検問。兵士たちが金属探知機をかざし、軍用犬が荷台の臭いを嗅ぐ。
「異常なし。通せ」
荷台に積まれているのは、近隣の農家から徴収したジャガイモの麻袋だ。将軍は偏執的なまでに地産地消を好み、特にフライドポテトには目がなかった。
モローが賄賂を使って手配した「トロイの木馬」である麻袋の一つは、何事もなく検閲を通過し、厨房へと運び込まれた。
午前11時55分。
厨房では、昼食の準備が進められていた。
新入りの料理人が、麻袋から無造作に芋を取り出し、洗浄機へ放り込もうとする。
その中の一つを手に取った瞬間、彼は違和感を覚えた。
重さが違う。そして、わずかに指に伝わる、内部の異質な感触。
「おい、これ……」
彼がそれを強く握りしめた瞬間、内部のアンプルが圧迫され、パキリと割れた音を聞いた者はいない。
化学反応のカウントダウンが始まった。
同時刻、モローは官邸から3キロ離れたカフェで、エスプレッソを啜っていた。
彼は腕時計を一瞥した。
作戦本部は、派手な銃撃戦や、劇的な爆破シーンを期待しているかもしれない。
だが、プロの仕事とは、新聞の片隅に「厨房のガス爆発事故」として掲載される程度のものだ。
12時00分。
遠くで、重く鈍い音が響いた。
地面がわずかに揺れる。
官邸の厨房を中心に、半径50メートルが吹き飛んだはずだ。カミンスキー将軍は、まさにその時刻、厨房の視察を行う習慣があった。
モローはカップを置くと、チップをテーブルに残して立ち上がった。
今回の報酬で、しばらくは休暇が取れるだろう。
ただし、付け合わせのフライドポテトを見るたびに、セムテックスの刺激臭を思い出すことになるかもしれないが。
(了)
セーラー服バイオレンス横丁【三題噺】 森崇寿乃 @mon-zoo
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