第3話 見なくても分かること

 その日は週末だった。

 じいさんの散歩に付き合って、公園まで来ていただけだ。犬の散歩も兼ねているとはいえ、「付き合っている」というより、俺が勝手についてきているだけに近い。


「そんなに後ろをついて来なくていいだろ」

 じいさんは手をひらひら振った。

「もう子どもじゃないんだから」


「分かってるよ」

 そう返したけど、歩く速度は変えなかった。


 公園には人が少なかった。木陰に腰を下ろした老人たちが、談笑したり、将棋を指したりしている。時間の流れが妙に遅くて、少し落ち着かない。


 そこで、見えた。


 突然現れたわけでも、目立つわけでもない。ただ、そこにある。

 一本の線が、片方の老人から、向かいに座るもう一人へと伸びていた。


「……あれ?」

 思わず足を止める。


 二人は将棋盤を挟んで向かい合っている。左の老人は帽子をかぶり、動作が少しゆっくりだ。右の老人は痩せていて、盤面をじっと見つめている。


「さっきの一手、ちょっと急ぎすぎだな」

 痩せたほうが言った。

「分かってるよ」

 帽子の老人は笑った。

「でも、お前が言ってくれるだろ」

「それを分かっててやるからだ」

「悪いか?」


 駒が盤に置かれ、乾いた音が響く。

 その瞬間、線がほんの少しだけ、きゅっと締まった。

 眩しいわけじゃない。

 ただ、「ある」と分かる存在感だった。


「今日は薬、持ってきたか?」

 痩せたほうが、ふと思い出したように聞く。

「持ってる」

 帽子の老人はポケットを叩く。

「お前こそ、また飲み忘れるなよ」

「覚えてるって」

「昨日は忘れてたけどな」

 二人は同時に笑った。

 小さな笑い声だったのに、なぜか、その場から動けなかった。


「どうした?」

 じいさんが振り返る。

「何か見えたのか?」


「……あそこ」

 将棋盤のほうを指す。

「あの二人」


 じいさんは指の先を見て、すぐにうなずいた。

「ああ、あの人たちか。毎日ここで将棋やってるよ」


「……さ」

 少し迷ってから、口に出す。

「あの人たちの間、何かつながってる感じ、しない?」


 じいさんは一瞬きょとんとして、それから笑った。

「お前、変な言い方するな。仲が良けりゃ、そりゃ近くもなるだろ」


「いや、そうじゃなくて……」


「意味なんて、そんなに要らないだろ」

 じいさんは遮った。

「一人が来なきゃ、もう一人が待つ。それで十分じゃないか」


 それ以上、何も言えなかった。


 視線を落として、もう一度、その線を見る。

 消えたわけでもない。

 かといって、はっきりしたわけでもない。


「お前さ」

 じいさんは犬のリードを引きながら歩き出す。

「また考えすぎてるんじゃないか?」


「……かもな」

 立ち去る前、もう一度だけ振り返った。

 将棋盤はそこにあって、位置も変わっていない。

 帽子の老人が立ち上がると、少し遅れて、痩せたほうが自然に手を貸した。


 線は揺れなかった。

 ただ、静かにそこにあった。


 帰り道、つい周りを見てしまう。

 探していたわけじゃない。ただ、確かめたくなっただけだ。


 公園の出口近くで、二人の女性が並んで歩いている。

 一人が立ち止まり、もう一人のマフラーを直してやる。

 見てみたが、線はなかった。


 角のコンビニの前では、高校生くらいの男子が二人、肩が触れそうな距離でゲームをしている。

 少しだけ足を止める。


 そこには、あった。

 はっきりとはしないが、確かに存在している。


「……そういうことか」

 胸の奥に、言葉にしづらい感覚が広がる。

 失望でも、高揚でもない。

 どちらかと言えば――見透かされたような感じだ。


 線がなくても、「誰が誰を待つか」くらい、分かることはある。

 じいさんの言うことも、間違ってはいない。


 それなのに、見せられるのは決まって、こういう関係だ。

 冗談にされやすくて、「考えすぎだ」と片づけられてしまうもの。


 ……もしかして、こういう関係ほど、一番なかったことにされやすいんじゃないか。


 だったら、この能力は何なんだ。

 何かを証明しろってわけでもない。

 誰かを助けろという感じでもない。


 ただ、問いかけられている気がした。

 ――普段、お前はちゃんと見ているのか?


 小さく笑って、視線を落とす。

 ……なんなんだよ。

 こんなものを見るためだけの力なんて。

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