第2話 少し背中を押しただけ
その出来事は、ある日、夜九時まで残業していたときに起きた。
この時間まで残っていること自体は、別に珍しくもない。この会社では残業が日常で、定時に帰るほうがむしろ浮いて見える。
「先輩、この資料、こちらに置いておきますね」
机の横に立った新人は、どこか様子をうかがうような口調だった。佐藤という名前で、二十三歳。入社して三か月。毎日、自分が嫌われていないか確認するみたいに働いている。
「ありがとう。お疲れさま」
そう言ってうなずいたが、視線は自然と彼の背後に向かっていた。
——課長。
三十五歳。厳格で効率重視、無駄な雑談はしないことで有名な、私たちの直属の上司だ。
けれどそのとき、コピー機のそばに立つ課長の視線は、ずっと佐藤に向けられていた。
こんなことは、学生の間だけだと思っていた。恋愛とか、曖昧な気持ちとか、「まだ言葉になっていない感情」なんて、若い頃の特権みたいなものだと。
それが違うと気づいたのは、その日の午後だった。
◆
「佐藤、今日は残業か?」
課長が顔を上げ、いつもと変わらない落ち着いた声で聞く。
「あ、はい」
佐藤は少し慌ててうなずいた。「まだ整理が終わっていなくて」
「じゃあ、私も残ろうか」
課長はごく自然に言った。「どうせ、帰っても特に用はない」
その瞬間、私ははっきりと見てしまった。
細い線が、課長の胸元から、佐藤の肩へと伸びているのを。
三秒ほど、言葉が出なかった。
驚いたからではない。
——分かりやすすぎたからだ。
「ああ」
心の中で、静かに納得する。
今までは、二人をただの「上司と部下」だと思っていた。
でも、今は違う。
そこには、確かに線があった。
「どうかしました?」
向かいの席の同僚が、ちらりとこちらを見る。
「いえ」
私は軽く咳払いをして言った。「今日は、なんだか職場の雰囲気がいいなと思って」
彼女は意味ありげに笑った。
「また変なこと考えてるでしょ」
私は慌てて視線を落とし、書類を整理するふりをした。
頭の中では、もう情報が勝手に並び始めている。
——面倒な仕事は、課長が自分で引き受ける。
——佐藤がミスをすると、まずフォローしてから、後でそっと指摘する。
——コンビニのコーヒーは、いつも一本多い。
以前は、それを「責任感のある上司」だとしか思っていなかった。
でも今は、その線が、まるで大きな声で語りかけてくるようだった。
◆
夜九時。オフィスには、私たち三人しか残っていない。
課長はコピー機のそば、佐藤はパソコンの前。机の上には、コーヒーが一杯置かれていた。
「これ」
課長が言う。「さっき、あくびしていただろう」
「あ、ありがとうございます……!」
そのとき、線がわずかに揺れた。
思わず笑いそうになる。
分かりやすすぎる。
「課長」
私はふと思いついたように言った。「あの企画、佐藤にも一緒に担当させてはどうでしょう」
二人が同時にこちらを見る。
「彼、仕事が丁寧ですし」
私は真面目な顔で続けた。「課長のそばでやったほうが、覚えるのも早いと思います」
課長は一瞬、黙った。
線が、少しだけ張り詰める。
「……そうだな」
やがてうなずいた。「それでいこう」
佐藤は一瞬きょとんとしたあと、目を輝かせた。
「はい、頑張ります!」
椅子にもたれ、満足する。
ほら。
私はただ、少し背中を押しただけだ。
退勤のとき、私はわざと一歩遅れた。
エレベーターの扉が閉まりかけた瞬間、佐藤が小さな声で課長に何かを言っているのが見えた。課長は答えず、ただ軽く彼の背中を叩いた。
線は消えなかった。
むしろ、前よりも安定しているように見えた。
帰り道、私は思わず鼻歌を口ずさんでいた。
効率や数字や成果ばかりのこの場所にも、こんなに穏やかなものが隠れていたなんて。
そして、私はそれを見ることができる。
「いい能力だな」
そう思いながら歩く。
見えて、理解できて、
それで——少し手を貸すだけ。
それなら、
誰も傷つかないはずだ。
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