【短編】アナタノミカタ - 下北沢から来ました。
鷹仁(たかひとし)
二〇〇八年の漢字は『変』。
チャッチャッチャッチャ……。
――ネバダ。
チャッチャッチャッチャ……。
――ネバダ。
チャッチャッチャッチャ……。
――ダバダ。
「いただきます」
年末の朝六時。納豆を混ぜて、ご飯にかける。
続いて豆腐とわかめの味噌汁を一口すすると、何だか腑に落ちる安心感があった。
おかずはない。別に粗食なわけでもない。
無いのはお金だけだ。他には夢と時間がたっぷりあった。
――どこから夜は明けてきますか?
ラジオからは、一日に何回も矢島美容室が流れてくる。
彼らの問いかけに、俺は「さあね」と吐き捨てた。夜がどこから明けるのか、正直よくわからない。
少なくとも、俺の部屋ではカーテンの隙間からだった。
六畳一間、家賃三万八千円。駅まで徒歩十五分。
下北沢は、夢を見るには少し狭く、現実から逃げるには少し賑やかすぎる街だった。
――サムライはどちらで会えますか?
俺が会いたいのは、とんねるずだった。
テレビに出たくて、上京してからすでに五年も経っている。
バイト先は、運よくアパート裏のジュエリーショップを見つけた。接客がしたかったのと、嗜好品を扱う店は客層がいいからというのが理由だった。
三が日明けに、俺は店長に肩を叩かれる。去年よりも数段手際よくなった自分に優越感を覚えつつ、もしかしたら時給が上がるかもしれないと淡い期待を抱いた時だった。
「ショーヘーくん、明日から来なくていいから」
店長にそう言われて、俺は何も言い返せなかった。思ったよりも早く捌けたのは、純粋に客が少なくなっていたかららしい。
リーマンショックの影響で、日本は少しずつ貧しくなっていくようだった。
宝石の輝きをありがたがっていた人が、今は何をありがたがっているのかは分からない。
もしかすると、輝きなんて全部くすんでしまって、何もありがたくない時代になってしまったのかもしれなかった。
「実は、今月末で閉めようと思っていてね。後は身内だけで店じまいできるし」
三が日が過ぎた昼。突然、俺の生活費を稼ぐ手立てがなくなった。
「これ、退職金じゃないけど実家の蜜柑ね」
退職金代わりの蜜柑を口に運ぶと、ビタミンCが体に沁みる気がした。
――遠くから来ています。
俺だって青森から出てきたんだ。
――ネバダから来ています。
ネバダがどこにあるかは分からないけども。
――パスポートちゃんとあります。
俺の夢を叶えるパスポートは、この街のどこにも落ちてはいなかった。
――少しなら円も持ててます。
上京する際にあった貯金は、もう尽きている。
――お寿司が回って驚きました。
寿司なんて、こっち来てから食べてない。
食べる余裕なんてない。
夢を追いかけるために東京にやってきたはずが、今は生きていくのすら怪しくなっている。
そんなとき、青森の寿司が美味しいことを思い出した。夢が虚しくなった。心が、ちょっとだけ欠けた音がする。
「帰ろうかな」
夢の終わりを告げるように、矢島美容室の言葉が俺の心に深々と突き刺さっていた。
――MIKATA!
仕事場からの帰り道、電気屋のテレビから声がした。
正月明けの特番で、矢島美容室はニホンノミカタと歌っているが、俺は、彼らが日本の見方と言っているだけなのを知っている。テレビで明るい曲ばかり流れるのは、今の時代が薄っすらと暗いからだ。今の俺には、誰も味方がいなかった。
アパートに戻ると、玄関先に段ボールが置いてあった。
送り主は実家だった。中には林檎がぎっしり詰まっている。
見慣れた赤だった。
ネバダよりも、よっぽど近い色をしていた。
「お前は、こちら側だよ……」
林檎に声をかけてみた。林檎は何も言わなかった。
それが、ちょっとだけ寂しかった。
「フジと、ジョナゴールド。どっちもありふれた品種だよな」
まるで、今の俺みたいだった。流通ルートに乗れない出来損ない。所々、虫に喰われ、凹み、色がまばらだ。
それでも、食べる誰かを想って一つ一つ綺麗に磨かれた艶やかな表面は、確かに林檎農家の意地と誇りを感じさせる。
制服の袖で林檎を拭い、一口齧ってみた。食べ慣れて飽きた味が、青森から離れて少しだけ美味しく感じた。
それでも、ダンボール一杯に詰められた林檎は厳つい。この量を一人で食べきれるとは到底思えなかった。
どうしようか悩んでいた俺は、試しに、芸人仲間に配ってみた。
理由はない。ただ、余っていたからだ。
「うまっ」
「これ、どこの?」
思った以上に喜ばれて、少しだけ戸惑った。
俺がずっと当たり前だと思っていたものが、誰かにとっては当たり前じゃないらしい。
――大和撫子十七変化。
「ショーへー。もっと林檎を押し出していけばいいんじゃね?」
二年で彼女を十七回変えた優一が言った。
どうやら、俺が伸び悩んでいたのを気にしてくれていたらしい。
確かに、優一の言う通りだ。
最近、どれだけ考えてもライブ用のネタが思いつかない。自分一人ではやり尽くした感がある。一方で、誰かを頼ってコンビを組むのも抵抗があった。だから、何気ない優一のアドバイスが深く沁みた。
林檎を極めれば、ネタになるかもしれない。藁にも縋る気持ちで、俺は林檎を握りしめた。
林檎を扱うにあたって、失礼のないように美容室に来てみた。こういうのは形からだ。
「おかゆいところはございませんか?」
IKKO似の美容師が俺の髪をシャンプーしている。痒いところはない。俺は、首を振る。
「今日はどうしましょう?」
「矢島美容室みたいにしてください――ニュートン寄りの」
「あー、ね。分かりました」
渾身のギャグに、美容師は笑わなかった。
それどころか、ギャグとすら分かっていない様子で曖昧な返事をした後、俺の髪を脱色し始めた。
施術開始から一時間後。注文通り、俺は、矢島美容室みたいになった。
平日の十九時。仲間との合同ライブの日に、俺はトップバッターを任されることになった。
「どうもこんにちは。青森から来た――」
五十人収容のライブハウスでも、空席が目立つ三十人ほど来ている。
そして、派手目の髪型の俺が登場しても、反応は冷ややかだった。
「ニュートンです」
俺は、手に持った林檎を高く掲げる。
くすんだ髪と、毛先のロールを客観視するに、どう考えてもバッハだが。
「って、誰が体型バッハやねん」
観客が笑わない。どうやら今日の客は教養がない客ばかりだった。
「これから、万有引力の講義を始めます。この林檎の位置エネルギーが……?」
俺は、美容師が間違えた事に心底苛立ちながら、林檎から手を離す。
林檎は、重力に引かれて勢いよく落ちていく。
「運動エネルギーに……!」
そして、地面につくまえに林檎をキャッチすると、客席からは言いようのないどよめきが聞こえた。そこには、決して笑わないという強い意志すら感じる。
この空気を打破するには意外性がいると思った。俺は、自分を太陽に見立て、衛星を模した林檎を持ってくるくると回転する。
「林檎が周りを回ります。だって私は青森県民だから~」
だめだ、笑わない。
客の方を見ると、何やってるんだこいつという冷たい視線を向けられる。
「ディスイズ、万有引力」
爆笑の中で言うはずだった決め台詞もスカる。
どうやってもウケない。こうなれば、力技しかない。
俺は、両手で林檎を挟み込む。
「この林檎を素手で潰します」
そう言ってから三十秒くらい圧搾しようとするが、握力が足りずに潰れない。
そしてようやく潰れても、ピュッという音とともに、林檎の果汁がちょっと飛び散っただけだった。そして、汁は運悪くステージ端のアンプにかかり、ジジ……と嫌な音をさせる。
持ち時間の五分が過ぎた。俺の挨拶を終える前に、何人も椅子から立ち上がって踵を返す客がいる。
「このライブハウスは地下にあるので、お帰りの際は運動エネルギーを位置エネルギーに変えていってください」
やぶれかぶれに言葉を発するがすでに遅い。俺以外の出番が全部残っているのに客を帰らせてしまい、仲間に顔向けできなかった。
「金返せ!」
「万有引力は物と物が引き合う力だろ!」
「お前の芸風はトッカータとフーガかよ!」
客の罵声を受け、俺は情けない気持ちで拳を握りしめる。
逃げるように舞台袖に逃げた俺は、客席を見た。みんな、怖い目で俺を見ている。
しかし、一人だけ何故か泣いている人がいた。
結果は散々だった。
笑いは起きなかった。
案の定、機材が壊れていた。
オーナーに修繕費を請求された。払えなかった。出禁になった。
ライブ終わり、外で、泣いていた人を待ち伏せして声をかけると、その人は俺と同じ青森出身だった。
林檎農家を継がずに東京へ来たことを、ずっと言葉にできずにいたらしい。
「めっちゃよかったです……。なんか……救われました」
俺には、彼が泣いている理由が分からない。だけれども、何故泣いているのかを聞くのかは怖い。そもそも平日の夜、こんな素人のライブを聞きに来ている人に、まともな奴はいないからだ。
どう返せばいいのか分からず、俺は「ありがとうございます」とだけ言った。
雪もないのに、息が白い。
東京の空は、星が見えなかった。
――あなたを信じて踊ります。
お笑い芸人として人を笑わせられないし、そもそも売れる気配は微塵も感じないけど……。
「俺も、信じるしかないのかなぁ……」
よく分からない。それは、矢島美容室の曲くらい。
――PAO! ポニョ! PAO!
ポニョのフリをしておどけてみるも、誰からの反応もない。
「ぱお~ん」
俺は、バッハのくるくる巻きを伸ばしてみる。開き直ってみると、羞恥で濡れた身体の火照りを薄ら寒い夜風が吹き飛ばしてくれるようで、案外心地よかった。
【短編】アナタノミカタ - 下北沢から来ました。 鷹仁(たかひとし) @takahitoshi
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