第3話 名前をもらう、ということ
光が、ゆっくりと揺れていた。
昨日と同じ。
さっきとも、同じかもしれない。
時間が、分からない。
それでも──
最初の頃より、考えが長く続くようになっていた。
ぼんやりしていた世界が、
今日は少しだけ、つながっている。
液体の感触。
光の揺れ。
足音の違い。
それを「覚えている」と思える。
前は、ただ怖かっただけなのに。
──わたし、少しだけ、増えてる?
何が、とは分からない。
でも、昨日の自分とは、
ほんの少し、違う気がした。
でも、静けさだけは続いている。
怒鳴り声は、ない。
何かを叩く音も、命令も。
だからといって、安心できるわけでもなかった。
──いつ来る?
そう思うたび、心の奥がひくりと縮こまる。
身体はないはずなのに、背中を丸める“癖”だけが、まだ残っている。
透明な液体の中。
自分は、ここに浮かんでいる。
……浮かんで、いる?
その感覚すら、曖昧だった。
重さも、上下も、輪郭もない。
あるのは、考えているという感覚だけ。
──わたし、どうなったんだろう。
問いは浮かぶ。
でも、深く考えるのが、怖かった。
考えたら、思い出してしまう。
暗い部屋。
冷たい床。
声が変わる直前の、あの空気。
呼ばれたら、何かが始まる。
だいたいは、良くないこと。
だから──
呼ばれない方が、まだ、ましだった。
ここでは、誰も呼ばない。
それが、安心なのか、
それとも、見捨てられているのか──
まだ、判断できない。
最初に聞こえたのは、足音だった。
硬い床を踏む、規則的な音。
近づいてくる。
離れて、また近づく。
──来る。
その予感だけで、内側がきゅっと縮こまる。
身体は、まだはっきりとは分からない。
けれど、怖さだけは昨日よりも少しだけ鮮明だった。
透明な液体の向こうで、光が揺れる。
影が、形を持つ。
人だ。
それだけで、心が先に身構える。
怒鳴られるだろうか。
昨日、謝り続けたことを、叱られるだろうか。
ガラス越しに立っていたのは、若い男だった。
黒い髪。
白衣の袖に、うっすらと残る薬品の染み。
目が合った──
ような気がした、その瞬間。
胸の奥が、ひくりと跳ねる。
来る。
逃げられない"何"かが、来る。
でも、男はすぐには何も言わなかった。
ただ、こちらを見ている。
見られる、ということ自体が、怖かった。
評価される。
判断される。
役に立つか、立たないか。
──捨てられるか。
思考がそこまで滑り落ちた、その時。
「……おはよう」
低くて、落ち着いた声。
怒鳴り声じゃない。
命令でもない。
ただの、声。
それなのに──
内側が、びくりと震えた。
呼吸が、乱れる。
怖い。
でも、耳を塞ぎたくなるほどじゃない。
男は視線を外し、装置に何かを入力する。
光の揺れが、ほんの少しだけ落ち着いた。
「……聞こえているか?」
問いかけだった。
答えを待つ言い方。
──答えて、いいの?
そう思ってしまった自分に戸惑う。
今までは、答える前に殴られた。
正解を探す前に、怒鳴られた。
だから、沈黙が一番安全だった。
口を動かそうとしても、
言葉はまだ、形を思い出せない
だから──
何も言わない。
何も、できない。
男は眉をひそめることもなく、
ため息をつくこともなく、
ただ、少しだけ首を傾げた。
「……まだ、難しいか」
独り言のような声。
責める響きは、なかった。
その事実が、胸の奥にじわりと染み込む。
男は一度、深く息を吸ってから、
はっきりと言った。
「──君に、名前をつける」
名前。
その言葉を聞いた瞬間、
世界が一瞬、遠のいた。
名前。
それは、命令だった。
呼ばれるたびに、
何かを背負わされる合図。
良い子でいろ。
邪魔をするな。
黙って、言うことを聞け。
呼ばれる=怒られる。
それが、わたしの中の常識だった。
体が、こわばる。
また、何かを求められる。
また、期待されて、
できなければ──
男は、ガラス越しに、ゆっくりと言葉を続けた。
「記号でも、番号でもいい。
……だが、それは、俺が嫌だ」
嫌だ。
感情の言葉。
命令じゃない。
「君は、俺が創った存在だ。
でも……それだけじゃない」
一瞬、言葉を探す沈黙。
男──カイルは、視線を逸らし、
声を少しだけ落とした。
「君を呼ぶための名前が必要だ」
呼ぶ。
その言葉が、胸の奥で引っかかる。
怒るためじゃない。
叱るためでもない。
──呼ぶため。
「……アリシア」
名前が、落ちてきた。
柔らかく。
試すように。
「アリシア。聞こえるか?」
その瞬間。
何かが、すとん、と胸の中に落ちた。
──呼ばれた。
怒りじゃない。
命令じゃない。
ただ、
ここにいる存在として。
心が、引き戻される。
透明だった世界に、輪郭が生まれる。
あ、と思った。
呼ばれると──
心が、ここに戻る。
液体の感触が、少しだけはっきりする。
光が、怖くなくなる。
涙が出る、という感覚だけが、先に来た。
理由は、分からない。
でも、止められなかった。
「……っ」
声にならない音。
「アリシア」
もう一度、呼ばれた。
今度は、逃げなかった。
怖さよりも先に、温度が来た。
呼ばれている。
怒られないまま。
──生きて、いい?
その問いが、初めて形を持つ。
カイルは装置の前で、その反応を見つめていた。
数値が、わずかに揺れる。
理論では説明できない変化。
「……条件反射、じゃないな」
呟きながらも──
その視線は、研究者のものだけではなかった。
誰かを、見ている目だった。
「アリシア……今日は、それだけだ」
彼は、静かに背を向ける。
でも、昨日と違う。
心は、置き去りにされなかった。
透明な体の中で、
アリシアは、初めて、謝らなかった。
代わりに、胸の奥で、そっと名前を繰り返す。
アリシア。
それは、命令じゃなかった。
罰でもなかった。
ここにいる、と
認められた音だった。
静かな研究室で、
その名前だけが、
やさしく残っていた。
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しばらくして、足音が戻ってきた。
硬い音。
でも、さっきほど怖くない。
装置の前に立つ気配。
光が、少しだけ強くなる。
「……安定している」
カイルの声は、低く、独り言だった。
「今日はいきなりは、やめておこう」
何を、やめるのか。
分からない。
でも、その言葉には──
止める、という選択が含まれていた。
ガラス越しに、彼の手が見える。
触れそうで、触れない距離。
「……明日だ」
それだけ言って、
彼は装置を停止させる。
光が、ゆっくりと落ち着く。
閉じられるはずの世界なのに、
なぜか、胸の奥は静かだった。
透明な体の中で、
アリシアは、
初めて“待つ”という感覚を知る。
怒られるのを待つ時間じゃない。
来てもいい明日を、待つ時間。
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転生少女のホムンクルス生活~今日も家族に愛され暮らしている パパえもん @Papaemon
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