第2話 透明な体と、知らない天井
静かだった。
あまりにも静かで──
アリシアは、それが一番怖かった。
音がない。
怒鳴り声も、
床を踏み鳴らす足音も、
扉を強く閉める音も。
何も、来ない──まだ、来ていないだけ。
そう思った瞬間、胸の奥がひくりと跳ねる。
来る──
きっと来る。
何も言わずに、いきなり。
その「次」に備えるように、心が勝手に身構える。
でも──来ない。
待っているのか、放置されているのか──
そもそも「待つ」という状態なのかも、分からない。
時間が、分からなかった。
長いのか、短いのか。
一瞬なのか、何時間なのか。
ただ、光だけが揺れている。
水の中のような、
でも水ではない透明な液体の中で、
淡い光が、ゆっくりと反射していた。
身体は、ない。
手も、足も、
心臓の鼓動も、
呼吸の上下も。
それなのに。
縮こまる感覚だけが、はっきり残っている。
名前を呼ばれないことに、
違和感はなかった。
呼ばれないのが、
当たり前だったから。
──あ。
と思った瞬間、
「そう思った自分」に、ぞっとする。
身体がないのに、
縮こまるって、どういうこと?
名前を呼ばれる前の、あの感じ。
空気が変わる直前。
声が出る、その一歩手前。
呼ばれたら、何かが始まる。
だいたいは、良くないこと。
だから――
呼ばれない方が、まだ、ましだった。
ここでは、誰も呼ばない。
それが、安心なのか、
それとも、見捨てられているのか――
まだ、判断できない。
でも、確かにある。
背中を丸めるような、
頭を守るような、
その“癖”だけが。
怒られない。
その事実を、何度も頭の中で繰り返す。
怒鳴られていない。
叩かれていない。
命令も、ない。
──安全。
その言葉が、浮かんで、すぐに消える。
安全、という感覚を、
どう扱えばいいのかが分からない。
怒られないということは、
次が分からないということだった。
いつ来るか分からない。
どこから来るかも分からない。
予告がない、というだけで、
心臓は勝手に速くなる。
突然──ガラスの向こうで影が動いた。
びくり、と心が跳ねる。
来た。
そう思ったのに、影は、何もせず、通り過ぎていく。
覗き込まれない。
叩かれない。
確認も命令も──ない。
……おかしい。
「何もされない」という状況に、
どう反応すればいいのかが、分からない。
謝る理由が、見つからない。
でも、謝らないと何かが起きそうで。
胸の奥が、ざわざわと音を立てる。
──私、何かした?
──気づいてないだけ?
必死に、思い当たることを探す。
呼吸が浅くなる。
苦しくは、ない。
でも、安心もしない。
何もない。
それが、一番怖い。
叱られる準備だけが、
ずっと体に残っている。
殴られる準備。
怒鳴られる準備。
捨てられる準備。
準備は万全なのに、始まらない。
始まらないことが、怖くて仕方がない。
──お願いだから、何か言って。
そんなふうに思ってしまう自分が、
怖かった。
殴られた方が、分かりやすい。
怒鳴られた方が、慣れている。
優しさも──
無関心も──
どちらも同じくらい、未知だった。
ガラスの向こうに、人はいない。
誰も見ていない。
誰も聞いていない。
それなのに。
──ごめんなさい。
声は、出ない。
でも、言葉だけが、内側で形になる。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
誰に?
何に?
分からないまま、謝る。
謝っていれば、怒られる理由を、先に消せる気がした。
謝れば、次が来るかもしれない。
でも、来ない。
怒鳴られない。
叩かれない。
放り出されもしない。
静かなまま。
その静けさに、心が耐えきれなくなる。
透明な体の中で、誰もいない空間に向かって、アリシアは、謝り続けていた。
殴られない夜。
怒鳴られない天井。
名前を呼ばれない静けさ。
それが「安全」だと、
まだ知らなかった。
それでも、この世界の空気は、前より冷たくなかった
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます