第33話 なんで? なあ、なんで?
「なあお母さん、レンコンってなんで穴が開いてるん?」
鍋をかき混ぜながら考える。どうしよう。知らない。そんなこと疑問に思ったこともなかった。だってレンコンに穴があるのなんて当たり前だったから。
「ごめんわからへん」
「ふーん」
「あとで調べるからちょっと待ってくれへん?」
洗い物を後回しにすればあと五分でカレーの支度が終わる。二年前に母が言っていた。賢い子に育ってほしいなら子どもに「ちょっと待って」を言ってはいけないらしいと。私にはちょっと待ってのオンパレードだったくせに、どの口が言っているんだと、すんでのところで口を閉じた苦い記憶をふいに思いだす。
「わかった。カレー作ってるもんな。あ! お母さん!」
「何?」
「夏の太陽は暑いのに、冬の太陽はなんで熱くないん?」
「よしわかった。なんでの本買ってあげるわ」
「なんでの本ってなに」
「いろんななんで? が載ってる本」
ちょっとごめんね、と声をけて食器棚からサラダ用の皿を三人分用意する。
年長になる二か月ほど前から始まったなぜなぜ期は、好奇心の権化である葵を今日も順調になぜなぜさせている。
「僕もお手伝いする!」
「ありがとう」いいから向こうへ行って。
なんて言えるわけがなかった。こぼれたサラダでむちゃくちゃになったキッチンと、床に落として踏んでぐちゃぐちゃになったトマトを処理する自分の姿を事前に想像しておく。できるだけ大げさに。イライラする自分も一緒に想像しておく。そうすることで、実際に起こった場合にイライラが軽減することが経験上わかっていた。
「サラダをこの三つのお皿に入れてくれる?」
「わかった!」
山盛りのサラダが入ったボウルを落としそうになり、弾みでサラダがパラパラ落ちる。
「お母さん落ちた」
「いいよ。前はボウルをひっくり返したけど、今日は落とさんかったね。えらいね。がんばったね」
にこーと嬉しそうに笑っている。
「僕すごいやろ!」
「すごい! じゃ、サラダよろしく」
「わかった! お母さん大好き!」
「ありがとう」
私も大好きだよ、と、嘘でも言ってあげるべきなのだろう。拙い手つきでサラダを取り分け、こぼしたサラダには意識を向けず自信満々にできた! という葵に「どこが?」と声をかけたい思いを抑え込む。「他人の子と比べるのではなく、昨日の子どもと比べて褒める」を自分の力で発見した私は、ずいぶん年月が経ってふとしたときに似たような言葉を見聞きしたときに「何をいまさら?」と思ってしまった。
二人でサラダにラップをかけながら、ふと思いついて聞いてみた。
「なあ葵」
「なに?」
「飛行機ってなんで空飛んでるん?」
「エンジンついてるから」
なんてこったい。
賢くなったなあと思わずにはいられなかった。三歳でこども園に入園するまで、葵には褒めるところが一つもないと本気で思っていた。母親なのに葵の行動をコントロールすることができない。目を合わせて平易な言葉でわかりやすく伝えても全く響かず、常に疲労感と徒労感でいっぱいだった。
家族で大型スーパーへ行ったとき、駐車場は車がたくさんあるから飛び出してはいけないこと、車はすぐに止まれないこと、ひかれたら死んでしまうこと、死んだらお父さんやお母さんには二度と会えないことを丁寧に伝えた。車を降りた瞬間、スーパーの入口に向かって最短距離で走っていく葵を見て「このままひかれて死んでくれたらいいのに」と思ってしまった。
そう思った自分は母親失格だと、自分を責めた。一体どのように伝えれば分かってもらえるのだろう。彼の行動の一つ一つが全く理解できず、ひたすら辛かった。ボロボロだった自分を毎日責め続け、死んでしまいたかった。
『お母さん、葵君のお世話、毎日大変ですね』
入園して間もないころに言われた松井先生の言葉が、ボロ雑巾のようだった心を優しく包んでくれた。先生の言葉に込められたいたわりの気持ちが、時間をかけて少しずつ私の心に沁み込んでいった。
理解できない葵の行動に心を乱されるたび、先生の言葉を思いだして心を落ち着かせていた。言葉が通じないのなら手をあげるしかない。だって言葉が通じないのに、手をあげる以外にどうやって彼を危険から守ればいいのだろう?
これは虐待ではない。しつけだ。
いや、それはいけない。根気よく、言葉で伝えればいつかわかってくれる。
そうですか。非常におめでたい考えですね。頭の中がお花畑でいっぱいの奴らには、一か月交代で順番に葵を差し上げましょう。どうぞ育ててください。どうせ無理なんで。
妄想を繰り返していたある日、突然気づいてしまった。保育のプロでも葵は手こずるんだと。母親歴三年ぽっちの私がうまくできないのは当然なのではないか。
ならば、葵をほかの子と同じように育てるのは諦めよう。そう開き直ると、少しずつ楽になってくるのが分かった。園から帰ってくるたびに成長している姿に気づけるようになり、葵をほめることに抵抗がなくなった。
年少だったある日、いつも通りお迎えに行くと、松井先生から「年長さんが作った七夕の短冊を、葵君が何度も引っ張って破ってしまうので、今日はきつく叱りました」と言われてしまった。門の前まで付き添ってくれた先生は、「引っ張る理由を教えてもらえなかったので、家では叱らずに話を聞いてあげてください」とフォローしてくれた。葵の失敗は私の失敗だと言われているようで恥ずかしく、何度も頭を下げて逃げるように帰宅した。
『風が吹いてひらひらしてるのが楽しそうでかわいかったから。ひらひらして楽しいか、短冊に聞いてみたくなった』
思ってもみない答えにあっけにとられる。同時に、悪いことをしたときでも本人なりの理由があるのだということをこのとき初めて知ることができた。自分の視野が広がった瞬間だった。
この一件から、ほかの子が叱られるようなことで葵を叱るのを一切やめた。自分の気持ちを言葉にするのが日に日に上手になり、葵の行動が理解できない場合は本人に聞いてみればいいと思えるようになった。短冊の件は、作った年長さんが悲しい気持ちになること、その場で葵に絵を描いてもらい、私がビリビリに破ってどんな気持ちになったかを葵に考えてもらった。
「今日は僕がサラダを分けてんで!」
休日出勤から帰宅した夫と三人で食卓を囲む。夫に向かって自信たっぷりに話す葵を見て、レンコンの話を思いだした。あともう一つ何か聞かれたような、何だっけと思ったときに、葵がサラダの入った皿を肘で床に落とした。
お皿が割れなくてよかった。葵にケガがなくてよかった。飛び散ったサラダを集めながらため息をつく。夫は座って自分の食事を続けている。手伝う気はないらしい。お仕事お疲れ様です。
こういう場合に毎回ごめんなさいと言うだけで改善する気のない葵をぶん殴りたくなる。自分の食事がどんどん冷めていく。いつものように。
レンコンの穴など心底どうでもよかった。早く自分の食事がしたかった。
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おかあさんだいすき ゆか @yuka-chan
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