スーパー・ドラスティック・カレイドスコープ・マーケット

藤田桜

夕方5時からのフィーバータイム


「鹿児島豚の贅沢ボロネーゼ」ソース1食分が109円。ヤバいと思った。

 黄色の値札にマゼンタカラーの愉快なフォントが踊っている。輪郭は油性マーカーの黒でくっきりと縁取られていた。デフォルメされた白の光彩が斜めに描き込まれてもいる。つややかで、女優の唇みたいにぷっくりとした「109」円。ボロネーゼなんてどんなに安くても200円前後はするのに。

 おれの目がおかしくなったのかと思った。どうせ具なしのミートソースの値札と見間違えたんだろう? 目をこする。確かにボロネーゼが109円だった。

 まずいことになった。

 おれはカートを勢いよく傾ける。回れ右。触らぬ神に祟りなし。ひとまず総菜コーナーまで逃げるべきだ。その後は? 野菜コーナーに戻って厄払いをするしかない。

 最近、やたらと奇妙な商品を見かける。

 共通するのは不自然なほどに安く、魅力的なこと。1Lジンジャーエール69円。牛スジ肉100g129円(しかも半額!)。460mlルーマニア産ハチミツ248円。キャベツ一玉39円。環境にやさしい割り箸(白樺)30膳89円。ホッケの開き3枚で138円。スイートバジル1パック19円。国産大豆の味噌500g198円。冷凍マルゲリータ109円。トイレットペーパー250m×6ロール219円。ずんだおはぎ5個入り118円。紙パック1.8Lの赤ワイン398円。てんさい糖500g238円。

 信じられるか?

 あまつさえ、大抵が見たこともない企業の商品なのだ。生鮮食品の場合は産地が書いてない。店員に尋ねてみたりもしたが、答えは要領を得なかった。ひどいときにはバックヤードからベテランスタッフがわらわらと出てきて、不詳だと判明したため引っ込めます、大変申し訳ございませんでしたと詫びを入れられたこともある。

 そういう奇怪なブツが毎日ひとつは並んでいるのだ。そしておれは奇遇にも毎回それを見つけることができる。例えそれが棚の下にひっそりと隠れていたとしても。まるで神さまに決められた運命の恋のように視線がそこに導かれる。

 手に取ってはいけない。吸い寄せられるように指を伸ばしながら、おれはそう感じていた。脳がけたたましく警鐘を鳴らす。免許取りたてほやほやの卒業旅行中、高速でバカみたいに距離を詰めてくるトラック二台に前後を挟まれたときにも等しい緊張感があった。何かが仕組まれている。何かがおかしい。

 そのとき正気に戻れたのは、独立記念日か何かのようにキャアキャアと騒いで走り回るガキンチョどもにぶつかられたからだ。咄嗟に、反動で転びそうになった100cmにも満たない命へと手を伸ばす。おれの手の平に触れる前に、まるでサーカスの曲芸師のようにぐいんと持ち直したそいつを見ておれは涙した。ありがとう! ありがとう! 視線はもう79円のトマトケチャップから外れていた。きみたちはまさに天使だ。地獄に仏。お礼に特撮ヒーローの印刷された魚肉ソーセージでも何でも買ってやりたかったし、親御さんにもありったけの感謝を伝えたかったが、赤の他人である。深々と黙礼だけして立ち去った。

 それからは、奇妙な商品を見つけたときは、なるべく目を逸らして離れるようにした。逃げた後は、いくつかコーナーを転々として、1/4カットで328円もするカボチャを眺めて一息つくのだ。メキシコ産。外国産でこんな高いのはそれはそれで変だな。

 まあともかく。そうした山あり谷あり大冒険の末にやっとレジに辿り着けるわけである。もう今日は恐ろしい特売のザーヒルに悩まされないで済むってことだ。

 カートからよいしょとカゴを持ち上げて学生バイトの佐藤さんに渡す。ほっそりとした白い指が、まるで手品のように商品を捌いていく。とは言っても最初からこんなに手慣れていたわけではない。三年前、初めてこのひとのレジに通ったときには肉汁滴る2割引ミンチのトレーを2Lの緑茶で破壊されたせいでそのキレイなツラ覚えたからな二度とアンタのレジは通らねえぞと思ったものの翌日訪れたときには重い物は下に置くようにしてくれたものだから昨日の今日でおれたち客のために工夫してくれるだなんてと勝手に感激したものだ。それから佐藤さんはレジの腕前をめきめきと上げていった。頻繁に顔を合わすうちに、いつからか分かんないけど、愛想よく話し掛けてくれるようにもなった。居酒屋を三回クビになったおれとそんなに年も変わらないだろうに立派なものだ。だから偶然通ったレジに佐藤さんがいると少し嬉しくなる。カードお願いします。はい、ポイントは溜めといてください。そうですね、今日はカレーにしようと思って、はい。

 アパートから5分ていどで来れる位置にあるから、別にそんな買いだめとかはしない。夕飯を作ろうと思って材料が足りなかったら来るし、うっかり飲み物を切らしたら買いにいく。レジに佐藤さんが立つようになってからは多少身だしなみにも気を使っているが、気軽なものだ。

 毎日のように通ってると言っていいかもしれない。奇妙な品を見つけるようになったのは数か月前のことだから、100回は出くわしているだろう。見てはいけない、触れてはいけないと必死に己に言い聞かせながらショッピングを続けた。変わらず商品はおれを追いかけるようにして「大特価」を意味する黄色い値札を掲げている。

 だから慣れみたいなものがあったのかもしれない。

 いつしかおれは一つの考えに憑りつかれていた。

 もし、仮に、あれを手に取ってしまったらどうなるのだろう?

 まさか指が触れた瞬間に七転八倒、死に至るわけでもあるまい。なのに何でおれの本能はあんなに警鐘を鳴らしているんだ。ナイフ片手に地下鉄で怒鳴り散らしているオッサン相手ならともかく、足が生えて追いかけてくるわけでもない商品になぜ、あんな恐怖を? もはや値段や商品の安全性なんかどうでもよくなっていた。

 ただ、禁忌を犯してみたいという衝動があった。

 最初は68円のちくわの前で立ち止まるだけだった。キッチン洗剤詰め替え用4倍サイズ208円に手を伸ばそうとして我に返った。国産ウナギ1尾まるまる1000円ぴったりの前で全身を引き裂かれるような思いをした。1kg丸もち398円の周囲を2時間にわたってうろつきつづけた。フランス産豚ロース薄切り100g58円の前で閉店まで立ち尽くしていたときには、もう終わりが近いんだなと思った。

 その日は珍しく、佐藤さんが商品の陳列に回っていた。ちょうど補充されているラ・フランス1カゴ159円を見て、ああこれがおれの人生のゴールなんだと思った。歪なライムグリーンの塊に茶けた斑点が散らばっている。なのにきれいだと思った。ピンクのプラスチックかごに転がっているそれを1つ手に取る。ひんやりとしていて気持ちよかった。ずっしりと重たかった。

「珍しいですよね」

 隣から佐藤さんの声がした。

「今どき果物がこんなに安いなんて」

「佐藤さん、こんにちは」

「こんにちは」

「そうですね。この前ニュースで梨が1個500円くらいで売っているのを見て、びっくりしました」

「それってブランドものの梨だったりします?」

「ぜんぜん。普通のスーパーで、みんなが手に取りやすいように売っている梨です」

「うちでも高くて300円くらいだからなあ」

「佐藤さん」

「なんでしょう?」

「ここのスーパーって、時々びっくりするくらい安くてお買い得な商品がありますよね」

「まあ、そうですね」

「なんでそんなに安いのかって知ってます?」

「さあ?」

「あれってだれが値段を決めてるんでしょう。店長さんってすっごい太っ腹なひとだったりします?」

「いいえ? むしろ、勝手にこんな値段にしたのはだれだ! って怒るほうですよ」

「勝手に? そりゃ大変だ」

「はい、大変なんです」

「この梨もそうなんですかね」

「確かに。そうかもしれませんね。聞いてきましょうか?」

「いいえ。実はこのまま買ってみようかなって思うんです。こっそり」

「……なんだかいけないことをしているみたいですね?」

「はい。とてもとてもいけないことです。実はおれ、今までこういう極端に安い商品を買うのが怖くて。でも今日は、特別」

「いいじゃないですか。ちょうどこれで陳列も一段落つくんで、私がレジ打ちましょうか?」

「せっかくなんで、お願いします」

「はい。じゃ、行きましょうか」

 かごに梨を戻す。かごを手に取る。網目の上で3つの梨がころころと揺れていた。おれは佐藤さんに導かれるようにしてレジへと歩いていく。

 世界にはおれと佐藤さんしかいなかった。そしてスーパーがあった。

 色とりどりにお菓子の包装がチカチカと煌めいている。小さなガラスケースのなかで子供向け食玩のキャラクターがくるくると回っていた。値札はもう意味をなさなかった。でもきっと数字のひとつひとつに大切な意味があるんだろう。おれたちは調味料のコーナーを過ぎ、日用品のトンネルを潜り、総菜のアイランドを渡って、再び青果のコーナーに至っては、また肉と魚の間を泳いでお菓子コーナーへと落ちていくことで確実にレジに近づいていった。

 うどんの乾麺と冷凍麺が楽しげに手を繋いで駆け抜けていく。オレンジ色の商品だけを詰め込んだカートがぶらさがっている。床のいたるところに香辛料が散らばればオリーブオイルがタイルの溝を流れていった。全ての商品が鮮やかに息づいて、おれたちを祝福している。なのに何かが失われていく。そんな感じがして、なんだか悲しくて涙が溢れてしまう。

「大丈夫ですよ」

 おれたちは祝福されていた。佐藤さんは微笑むと、おれの手をそっと握ってくれた。申し訳ないと思った。でも、いったい、何が? 確実にレジへと近づいていく、その一歩のなかで、おれはスーパーを感じていた。全ての色彩がそこにあった。左手に佐藤さんの温もりを感じながら。近づいていく。一点の。その終わりの。どこまでも細くなっていく。華やかな。ラユエラの、ああ!

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スーパー・ドラスティック・カレイドスコープ・マーケット 藤田桜 @24ta-sakura

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