お菓子が食べたい。
朝が来ても、部屋の中の光はあまり変わらない。
カーテンは揺れるけど、机の上の鉛筆は1000万年前からそこにあったように 沈黙している。
鉛筆の先のノートの端には「九九」とか「ひらがな」とか、
やりかけの文字がいくつも並んでいる。
だけどページはもう何日も、そこから進んでいない。
部屋の隅には小さなケージがあって、
そこから犬のルーンが寝ぼけたように顔を出す。
猫のミートンはその上の棚の上で、
しっぽを垂らして、眠ったまま鼻をぴくぴく動かしている。
「おはよう、ルーン。おはよう、ミートン」
女の子——葩鴎川照藍(はうかわ てあ)は小さな声で言う。
その声は部屋を白く真空にする。
返事は、もちろんない。けれど犬のルーンは、
前足を動かして床をカリカリと掻く。それが「おはよう」に見えた。
朝ごはんの皿をテーブルに並べる。
パンの匂いとミルクの白い湯気。
ルーンにはドッグフードを、ミートンには細かくした骨無し鶏肉サラダを。
それぞれの皿の前に置くと、二匹はすぐに顔をうずめた。
その音が、なんだか嬉しい音に聞こえる。
窓の外では鳥が鳴いている。
学校へ向かう子どもたちの笑い声が、遠くから聞こえてくる。
ランドセルの金具がカチャカチャと鳴る音も。
でも葩鴎川照藍(はうかわ てあ)はその音を聞くだけ。
もう何年も、玄関のドアノブには触れていない。
代わりに、今日も机に向かう。
国語のドリルを開くけど、すぐに閉じてしまう。
文字よりも、隣で眠る猫の横顔のほうが、
ずっとやさしい世界のように見える。
「ね?ミートン。今日もここでいいよね?」
猫は目を細めて、ふうっと息を吐く。
それがまるで「うん」と言っているようで、
葩鴎川照藍(はうかわ てあ)はそれだけで少し笑ってしまう。
時計の針が静かに音を立てて、
部屋の中を時間がゆっくりと進んでいく。
誰も訪れない午前中。
外では風が木の葉を鳴らしているけれど、
この小さな部屋の中だけは、
季節が止まってしまったみたいだった。
葩鴎川照藍は机の上のノートを開いて、
「きょうもなにもなかった」と書いた。
それを見て、ため息をつく。
けれどその文字のすぐ横に、猫の毛が一枚、ふわりと落ちた。
それを見て、葩鴎川照藍はまた笑顔った。
——今日も、世界はちゃんと動いている。
午後の光が白淡いフローリングの上に白い帯を作っていた。
その帯の上を、ルーンの尻尾がゆっくりと横切る。
葩鴎川照藍はその様子を見ながら、ひざの上で赤い毛糸を結び、猫じゃらしを作っていた。
毛糸の先に小さな鈴と布切れをつけただけの簡単なものだけれど、彼女の世界ではそれが立派な〘おもちゃの発明〙だった。
「できたよ。ミートン、どう?」
机の下にいた灰色の猫が、ゆっくりと顔を上げる。
ぱちぱちと瞬きをしたあと、興味深そうに立ち上がり、尻尾をぴんと立てて歩いてくる。
一方で、ルーン──白い毛並みの小さな犬──はすでにそわそわしていて、尻尾を振りながら鼻を鳴らした。
「ルーン、これは猫のおもちゃだよ」
そう言いながら、葩鴎川照藍は猫じゃらしをルーンの目の前で揺らしてみせた。
しゃらん。
鈴の音が静かな部屋に響く。
ルーンの瞳がまん丸にひらき、ふっと低く体を沈めて、次の瞬間、ふわりと飛びかかった。
軽い布の端が爪に引っかかって宙で回転する。
その様子に、ミートンも。
「にゃん! っ!」ミートン。
「わんっ……わん……」ルーン。
「ちょっとルーン、これ猫じゃらしだよ?」
葩鴎川照藍は笑いながら手を引っ込めたが、犬のルーンの後ろから飛びつき、布をくわえて引っ張り合いになった。
ミートンが「にゃっ!」と鳴き、前足でルーンの鼻を軽く叩く。
ルーンはそれでも尻尾を振り続け、まるで『ぼくも混ぜてよ』と訴えているようだった。
葩鴎川照藍はその様子を見て、ぷっと吹き出した。
「もう、仲良すぎなんだから……。これ、犬じゃらしでもあるのかな。」
窓の外では、午後の風が木々の葉を揺らしている。
彼女は少しのあいだ、その光景を眺めた。
この部屋の中が、世界の全部。
そんな生活が、もう五年も続いている。
けれど不思議と、寂しさはなかった。
ルーンとミートンがいて、毎日少しずつ何かを作って、話しかけて、笑っていられる。
葩鴎川照藍にとってそれは、外よりも穏やかな日々だった。
そのとき、リビングのほうから電話の音が鳴り響いた。
ぴりり、ぴりり、と昔ながらの電子音。
葩鴎川照藍は振り向くが、受話器を取るのは母だ。
足音が階段を上る気配がして、遠くでお母さんの声がした。
「はい、葩鴎川(はうかわ)です。」
少しの間のあと、穏やかな声で話す。
「……ああ、先生。いつもありがとうございます。ええ、娘は元気です。はい、ええ……まだ、ちょっと」
沈黙が少し続き、母の声が小さくなる。
「そうですね……ええ、本人の気持ちが整ったら、また。無理に行かせることは……」
その声の柔らかさに、葩鴎川照藍は無意識に毛糸をいじる手を止めた。
母の声の調子で、だいたい話の内容がわかる。
きっと学校の先生が「最近はどうですか?」と尋ねたのだろう。
行かなくてはと思う気持ちは、ないわけじゃない。
でも、外に出るということが、どうしても体の奥で拒まれる。
外の空気が、頭の中で真っ白に霞んでしまうのだ。
ルーンがそんな彼女のひざに飛び乗って、喉を鳴らした。
ミートンも隣でころんと寝転ぶ。
その重みが、葩鴎川照藍を現実に引き戻す。
「大丈夫、ここにいるからね」とでも言うように。
葩鴎川照藍は、猫じゃらしを指に巻きつけた。
そして、自分にだけ聞こえるように呟いた。
「……外のことは、また今度でいいよね」
しゃらん、と鈴が鳴った。
午後の陽差しが、少し傾いた。
午後の光が少し傾いたころだった。
ルーンとミートンが昼寝をしている、その部屋に……。
「どん」
という低い音が響いた。
葩鴎川照藍は、針と糸を持ったまま顔を上げた。
また「どん」。
そして、間をおいてもう一度、少し遠くから「どん」。
「……花火?」
呟きながら窓際に歩み寄る。
外は白っぽい冬の昼で、冷えた空気がかすかにガラス越しに伝わってくる。
見上げても、青い空には何も見えない。
花火の光は見えず、音だけが空を渡ってくる。
「昼間なのに、なんで花火?」
ひとり言のように言いながら、窓の外を探す。
カーテンの端をめくっても、音の出どころはわからない。
ただ、乾いた風が木々を揺らしているだけだった。
葩鴎川照藍は少し考え込んだあと、床に座り込んだ。
その横で、ルーンが尻尾をふわりと動かしながら起き上がる。
ミートンも大あくびをして、前足をのばした。
「ねぇ、ミートン。あれ、花火の音だったと思う?」
「にゃ」
「ルーンは?」
「わん」
それだけの会話で、ふたりはまた毛づくろいを始める。
けれども、葩鴎川照藍の耳には、どこかでふたりが小声で話しているように聞こえた。
くぐもった音のような、夢の底で誰かが話しているような――そんな響き。
「……、なに話してるの?」
思わず問いかける。
ふたりは動きを止めて、葩鴎川照藍の方を見た。
ミートンが、ゆっくりと瞬きをしたあと、小さく息を吸い込んだ。
「……お菓子が食べたい……」
その声は、確かに聞こえた。
耳の奥で、言葉として形を持っていた。
けれどもそれは空気の振動ではなく、頭の中に直接落ちてきたような感覚だった。
葩鴎川照藍は瞬きを繰り返した。
「……え? ミートン、今、しゃべった?」
猫は何も言わずに、ただ首をかしげる。
そして、次の瞬間、当たり前のように「にゃー」と鳴いた。
「……気のせい、かな。」
そう呟いたとき、ルーンが立ち上がった。
耳をぴんと立て、まっすぐに葩鴎川照藍を見つめる。
その目が、いつもより真剣に見えた。
そして――
「……ぼくも、お菓子が食べたい。」
はっきりと、犬の声が言葉に変わった。
葩鴎川照藍は思わず息をのんだ。
手に持っていた糸がするりと床に落ちる。
「……? お菓子?」
ルーンは尻尾を振って、「わん」とひと声鳴いた。
まるでさっきの言葉などなかったかのように。
ミートンは、その横で目を細めて、どこか満足そうにあくびをした。
葩鴎川照藍の胸の中で、不思議な感覚が広がっていく。
音のない花火の残響がまだ耳の奥に残っていて、それと猫と犬の声が混ざり合っていた。
「……お菓子、……」
小さく呟いて、立ち上がる。
母は台所にいた。
「お母さん、ちょっと出かけてくるね。」
「?」
「お菓子、買いに行ってくる」
母は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで財布を差し出した。
「気をつけてね。寒いから、上着ちゃんと着て」
葩鴎川照藍はうなずいて、マフラーを首に巻いた。
扉の前で一度振り返ると、ルーンとミートンが並んでこちらを見ていた。
「すぐ戻るから」
外に出るのは、五年ぶりだった。
冬の空気が、頬に当たる。
冷たくて、痛いようで、それでいて涙が出そうなくらい懐かしかった。
足を一歩、また一歩と前に出す。
道の向こうから、まだ遠くで「どん」と音がした。
昼間の花火は、見えなかった。
玄関の扉を閉めると、自分の思考が傾いたように感じた。
長い間、部屋の空気の中でしか呼吸していなかったせいか、
外の空気は透きとおりすぎて、肺の奥まで冷たさが届いた。
葩鴎川照藍は小さく息を吸い込んで、吐き出す。
白い吐息が空に溶ける。
青い空は淡い冬色で、雲の下に薄い光が流れていた。
道路の端には枯れ葉がいくつも寄せられ、
風が吹くたびにカサカサ。
その音さえ、彼女には新しい音楽のようだった。
「……ひさしぶり」
誰に言うでもなく呟いて、ポケットを握る。
そこには母からもらった千円札がお財布の中で折りたたまれて入っていた。
五年ぶりに歩く道は、記憶と少しだけ違っていた。
家の向かいの空き地には、小さな家が建っている。
昔、よく猫が昼寝していたブロック塀は壊されて、
そこに見慣れないフェンスが立っていた。
青空の匂いは他人のようで。
陽だまりと土と、遠くの車の音。
それらが混ざって、冬の午後の空気をつくっていた。
角を曲がったところで、また「どん」と音がした。
葩鴎川照藍は立ち止まる。
花火――。
音の方向を確かめようと見上げる。
けれども、空はまだ空のまま。
何も見えない。
ただ風が頬を撫でて、髪を揺らした。
(あの音は大玉かな?)
音が少し遠ざかる。
まるで、どこか別の時間で鳴っているような気がした。
葩鴎川照藍は再び歩き出す。
途中の八百屋の前を通ると、店主のおばあさんが声をかけた。
「まぁ、珍しい。照藍ちゃん? 」
葩鴎川照藍は少し戸惑いながらも、会釈をした。
声がうまく出なかった。
おばあさんは優しく笑って、「気をつけてね」と言った。
商店街の入り口まで来ると、人の声がした。
子どもたちが自転車で駆け抜け、
遠くのパン屋から焼き立ての匂いが漂ってくる。
(世界って、こんなに匂いがあったんだ。)
そう思いながら、葩鴎川照藍は足を止めた。
風に乗って、再び花火の音が響いた。
今度は、ほんのすぐ近くに聞こえた。
「どん」。
一瞬、地面が震えたように思えた。
その瞬間、空の端に小さな光が咲いた。
ほんの一秒もなかったが、確かに見えた。
昼間の空に、白く消える火の輪。
葩鴎川照藍は目を見開いた。
その残像の中で、ルーンとミートンの声が頭の奥に響く。
――「お菓子、買えたら、半分こしようね」
葩鴎川照藍は笑って、歩き出した。
行き先は、お菓子屋さん。
お菓子屋さんの前に着くと、葩鴎川照藍は立ち止まった。
軒先に下がる風鈴が、かすかに鳴っている。
風は冷たいのに、その音だけは夏の記憶を呼び起こすようだった。
扉を押すと、鈴の音がして、懐かしい空気が流れ出た。
甘い匂い、紙と砂糖と古い木の混ざったような、どこか懐かしい。
「いらっしゃいませ」
奥から、白い髪をお団子にした店主のおばさんが顔を出した。
「まぁ、照藍ちゃん」
葩鴎川照藍は、少し頭を下げた。
声がまだ小さくて、うまく出なかったけれど、おばさんは気づいてくれた。
「お母さんと一緒じゃないの?」
葩鴎川照藍は首を振った。
「ひとりで来たの。……お菓子を、買いに」
「そう」
おばさんは、優しい目で微笑んだ。
葩鴎川照藍は、棚をゆっくり見渡した。
色とりどりの袋が並んでいる。
チョコレート、あめ、ガム、スナック……。
けれども、どれを選んでいいのかわからなかった。
(ルーンとミートン、どんなのが好きなんだろう。)
そう思いながら、小さな箱に入ったクッキーを手に取った。
猫の顔が描かれている。
隣には骨のかたちのビスケット。
それを見た瞬間、思わず笑ってしまった。
「これにします」
お金を渡すと、おばさんは丁寧におつりを返しながら言った。
「外は寒いから……気をつけてね」
葩鴎川照藍はうなずいて、袋を抱きしめた。
外に出ると、夕風が頬を撫でた。
空の端に、また小さな光が弾ける。
今度は確かに、花火だった。
薄い昼の色の中で、静かに咲いては消えていった。
――どん。
その音に重なるように、ふっと耳の奥で声がした。
「ありがとう、照藍」
父親の声だった。
やわらかくて、少し眠たげで、
でも確かにお父さんの言葉。
葩鴎川照藍は立ち止まって、空を見上げた。
(お父さんが、今、いたような……)
風が通り過ぎる。
袋の中で、ビスケットの小さな音がした。
葩鴎川照藍はゆるゆらり歩き出した。
葩鴎川照藍が帰宅すると、部屋の中はいつも通り、静かで少しあたたかかった。
ルーンがカーペットの上で丸くなり、ミートンが窓際のクッションに座っている。
「ただいま」と小さく声をかけると、二人――いや、二匹は、少し首を傾げた。
袋の中からクッキーとビスケットを取り出す。
それだけで、部屋にふんわりと甘い匂いが広がった。
葩鴎川照藍はそっとクッキーをテーブルに置き、ルーンとミートンを交互に見た。
「……食べる?」
声に少し勇気を込める。
すると、ミートンがぴょんと跳ね、目を輝かせた。
「にゃーん」――いつも通りの声だけれど、葩鴎川照藍には、言葉のように聞こえた。
ルーンも尻尾を振る。
「ワン!」――これも、ただの犬の声なのに、確かに〘お菓子が欲しい〙と言っているみたいだった。
葩鴎川照藍は微笑んで、ひとつずつクッキーを手に取り、
小さな一口サイズに割ってテーブルに並べた。
ルーンは鼻をひくひくさせ、ミートンは前足でそっと押して遊ぶ。
「猫じゃらしで遊んでたときより、嬉しそうね」
葩鴎川照藍は思わずつぶやた。
ルーンは口を開けて、ワン、と言った。
(……待ってね)
葩鴎川照藍は笑いながら、一つずつクッキーを差し出す。
ルーンは慎重に触れながら、ひとくち口に入れた。
ミートンは大胆にかじりつき、クッキーのかけらが飛び散る。
葩鴎川照藍は椅子に腰掛けると、窓の外の昼の花火の音が、まだ遠くで響いていた。
「どうかな?」
葩鴎川照藍が尋ねると、ミートンが『にゃー、』と鳴いた。
ルーンも尻尾を振り、『ワン』と答える。
それは確かに、二匹の返事だった。
言葉より確かな意思のやり取り――葩鴎川照藍は笑。
部屋の空気は、春の光に似た温かさに満ちていたかもしれない。
五年ぶりの外の空気とお菓子。ルーンとミートン。
葩鴎川照藍の小さな世界。傷ついた、この小さな世界を修復するには……
きっと……大きな愛よりも……
了
お菓子が食べたい I want to eat some sweets. 紙の妖精さん @paperfairy
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