回遊魚、月の底を泳ぐ

やまさき

回遊魚、月の底を泳ぐ

 空に月が浮かんでいる。今宵は満月らしい。

 音もない波打ち際。地面にだらりと四肢を放り出し、わたしはぼうっと夜空を眺めていた。かすんだわたしの視界にも、満月は鮮明に映っている。

 ……でも、何度も見た景色だ。

 綺麗な月も、煌めく星々も、もう見飽きてしまった。無人島に漂着してから地面に寝そべったままずっと、何もせず5日間生きてきたというのだから。


 ぽつり、とわたしの頬に何かが落ちる。ぽつ、ぽつり。キラキラと輝く光の粒がわたしの身体を叩き、濡らしていく。

 雨? いいや、違う。

 ――いくら。

 これは、いくらの雨だ。

 いくらが、蛍のように淡い光を放ち宙を舞っている。もしかして、夢の世界にいるのだろうか。真剣にそう考えるほどの幻想的な風景が、わたしの目の前に広がっていた。

 乾いた唇に、粒がひたりと貼り付く。雫が舌先まで滴るが、味はしなかった。


「きれい……」


 ぼんやりと呟く。

 夜空を彩る無数のいくら。

 星屑の洪水が揺らめくなか、ひときわ黒い影が横切った。

 

 強い風が吹き、いくらかのいくらが闇に溶ける。

 そして、黒い体躯の鳥がわたしの傍で羽根を畳んだ。

 今度はカラス?

 カラスの瞳がわたしを捉える。

 丸くて、つやつやした、宝石みたいな瞳。漆黒の、生気みなぎる輝きの結晶。


 月だ、わたしはそう思った。


 時が止まったような感覚。

 焦がれるように、わたしはカラスの瞳を眺めていた。

 なんて美しいんだろう。こんなに美しいものにまだ出会えるなんて、思ってもいなかった。

 シャケの神様は、死を待つだけのわたしにも、救いの手を差し伸べてくれたんだ。

 

 わたしは持てる力を振り絞り、めいっぱい、月に手を伸ばす。 


「月が……」


 吸い寄せられるように、カラスのくちばしが近付く。

 ああ、神様――


「月が綺麗、ですね……」


 ――どうか、わたしを殺してください。

 


 漆黒の瞳に、わたしの顔に付いたいくらが朧げに浮かんでいる。橙色に光る星がゆっくり落ちてきて、わたしの首筋に口づけを交わした。

 ぷちり。何かが弾けるような感覚と、傷口に入ってくる冷たい風。カラスは、我慢できない、と言わんばかりに鋭いくちばしを突き立て、わたしの皮膚を裂いていく。ほんの少しだけ、痛みが走った。

 

 ……そっか。わたしもまだ、生きていたんだ。

 

 安らぎの歌が聞こえる。それは、星の海を渡る旅立ちの合図のように思えた。


「ねえ……うちゅうに……つれてっ、くれますか…………?」 


 視界が揺れ、意識がだんだんほどけていくのが分かる。

 やがて、大地も夜空の真似事を始めた。ふわり、ふわりと、身体が宙に浮いていく。鮮やかないくらの星屑が地面にも散らばり、わたしの周りに銀河が広がった。


「ふふっ、きれい……。これでさみしくないね」

 


 わたしも星になれるだろうか。


 月明かりの下。

 わたしは黒い羽根を片手に、どこまでも広い星空の海を泳いでいった。


 

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回遊魚、月の底を泳ぐ やまさき @kogao

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