【甘百合】月の掛け軸のおはなし

【本編】

「月がきれいですね」

　わたくし（尾花真穂（おばなまほ））のうかつな一言で、お茶室の中は、押し殺した笑いと微妙な空気に包まれてしまった。

　亭主役である牧野撫子先生は、微笑を浮かべてこちらを見るばかり。 正客役の瑞穂さまと、次客役の薫子さまは、努めてお笑いにならぬよう涼しいお顔を装っておられるけれど、お口元がかすかに震えていた。

　それに、わたくしたちの振る舞いを見学する同級生や下級生の方々は、何がそんなに面白いのか、こらえきれずに、笑い声が漏れ出している。

　それを見かねた撫子先生は、「こほん」と小さく咳払いをなさった。 すると、見学の皆さまはまるでお鍋に冷や水を差したかのように、しゅんと静かになる。

　わたくしが、月だと口走ってしまったのは、床の間にかけられた掛け軸だった。

（縦長の掛け軸に、おおきく〇がひとつ。これは、月じゃないのかしら……）

　妙なことを言ってしまったと、恥ずかしさで頬が熱くなる。頭の中がぐるぐるするけれども、わたくしは思案する。

（まる……まる……掛け軸の中に、〇がひとつ）

「円相（えんそう）、ですわよ。真穂さま」

　次客の薫子様が、見かねて、ささやくような声でわたくしに告げる。

「……円相」

　わたくしは、薫子様のご厚意をそのまま受け入れた。

　わたくしは、あまりおつむがよいほうではない。だから、薫子さまがわたくしに、円相とお教えくださっても、それが何を意味するのかわからない。

（でも――花入れには、薄（すすき）なのに）

　今日はお稽古だから、あえて特別に長板諸飾（ながいたもろがざり）をしている。だから、花入れも一緒に飾られている。 萩焼の白い花入れには、薄が投げ入れられていた。それと、目にも鮮やかな桃色の撫子。

　結局、今日のお点前は、ひどい始末だった。 自分で自分が何をしているのかわからないまま、ぐるぐると頭の中だけが回って、ただ気づけば稽古はおしまいの時間になっていた。

　片付けは、いつもわたくしの役割だ。 茶器を片付け、風炉を清め、しかるべきところにものをしまう。 家では女中さんが全部やってくれるけど、ここでは、わたくしが女中役なのだ。

　でも、撫子先生も、一緒に片付けを手伝ってくださる。 稽古がはねたあと、みなさまが連れ立って銀座資生堂や新宿高野へ行くのを見送って、毎度毎度、貧乏くじのような片付け係をわたくしがしているのは、他でもない。

「真穂さん。あらかた片付けが終わったら、一緒におまんじゅう、いただきましょう」

　撫子先生と一緒の時間。それは、どんなおしゃれなパーラーにも代えがたい、至福のひと時だ。 わたくしにとって、撫子先生は憧れの方。 ……本当のことを言えば、憧れよりも、もっと深い気持ちを抱いている。 だから、今日の余り物のおまんじゅうだって、パフェやケーキよりもずっと甘く感じる。

　撫子先生は、わたくしにほうじ茶を淹れてくださった。 ２人きりの茶室で、隣に並んで白くて丸いおまんじゅうと一緒に頂く。

　そこで、わたくしは、さっきのことを思い出した。

「あの……円相って、何なのでしょうか？」

　すると、先生は、あまり他の生徒には見せないような、いたずらっぽい笑顔を見せた。

「円相……ふふっ。薫子さんは、真面目な方ですからね。そう、真穂さんに教えたのですね」

「はい。わたくしが、先ほどの掛け軸を月だと言ったから……みなさん、あれが円相だとわかっていらっしゃるようで、恥ずかしくて」

　わたくしは、少し惨めな気持ちになって、ほうじ茶の入った湯呑みに視線を落とす。 すると先生は、まるで歌劇団の役者さんのように、あはは、とお笑いになられた。

「円相、円相……たしかに、そう考えることもできますね。むしろ、お勉強ならそれが正解。でも、それじゃあ本当に円相の意味をわかっているのかしら……」

　わたくしは、先生のお言葉の意味がよくわからなかった。 困ってしまって、先生のお顔を見つめる。

「あれはね、月よ」

「えっ」とわたくしは思わず声を上げる。

「円相を、円相としてしか見られないのは、まだまだお勉強の世界にいるってことね。真穂さん、あなたの解釈が正解」

　先生は、わたくしから湯呑みをやさしく取り上げると、壁の隅へそっと置いた。 そして、その手を、それまで湯呑みを持っていたわたくしの手に絡ませる。 まるでビロードのような滑らかな先生の肌。わたくしは、心臓が口から飛び出るくらい驚いた。

「わたくしの意図を読み取ってくれたのは、真穂さん、あなただけだったようね」

　そうして、先生はもう片方の手で、白くて小さいおまんじゅうをつまみ上げると、わたくしの唇にそっと当てて、軽く押し込む。

「ところで――月がきれいですねって、どういう意味かご存じ？」

　おまんじゅうを口にしたままのわたくしは、無言で首をふるふると横に振る。 それを見た先生は、これまでみたことがない、ぞっとするような妖艶な笑みを見せて、

「それじゃあ、いつか文芸部のどなたかに聞いてごらんなさい。――そうそう。わたくしも月がきれいだと思いますよ」

　と謎かけのようなことをおっしゃった。

　――それからしばらくして、文芸部の花乃子さまにお尋ねして、謎かけの答えを教えて貰ったとき。 わたくしは、気が動転してその場に倒れてしまった。

　床に倒れる寸前、教室の窓から、真昼の月がちらりと見えた。

（月がきれいですね）

　そのとき、なぜか撫子先生の声が、聞こえたような気がした。

　了

【解題編】

　新宿・高野フルーツパーラー。

　御一新から少し後にできた果物商『高野商店』が経営する、甘味処。

　わたくしのおばあさまの代から、何かあれば贔屓にしている。

　わたくしは、ショートケーキの上にあしらわれた、大きな葡萄にフォークを刺し、一思いに口へ運んだ。

「薫子様。ずいぶんとご機嫌がよろしいようですね」

　１年生の八重子さまが、淑女らしからぬ大口で葡萄を食べたわたくしを見て、目を丸くする。

　田舎のほうから出てきたかわいらしい子。父君は、確か材木商をされているそう。

「ええ。わたくし、今日はちょっとだけ、童女になった気分ですの」

「童女？」

　蜜豆を口に運んでいた美津子さまが、不思議そうな顔になる。

「ええ。ちょっとした悪戯をいたしましたのよ」

　そういって、わたくしは、ほほ、と笑った。

「円相だなんて。ホントは、真穂さまがおっしゃっていたように、月なのに」

　わたくしの一言に、周囲のみなさまが「えっ」と声を上げる。

「今日のお軸、普通に見れば、無限の変化と充足を示す、円相ですわ」

　八重子様が、ぐっとわたくしのほうを食い入るように見つめる。

　この子は、田舎の出であることを内心恥じている。

　だから、少しでも教養を身に着けたくて一所懸命。

　そこがとても幼く見えて、とてもいじらしい。

「でも、あの取り合わせ。どう考えても、お月さんでしょう？　だって、薄（すすき）ですもの」

　「……やっぱり」

　八重子さまが、ひとりごとのように呟いた。

　この子は、ご自分の素直な感覚をもっと大事にしたほうがいい。

「うふふ……それに、牧野先生も、ちょっといたずらっ子ですわね」

　わたくしの大きなひとりごとに、周囲のみなさまが「？」となる。

「……お月見、したかったのでしょうね。茶菓も、まるでお月見団子みたいでしたし」

　わたくしの言葉に、周りのいとけない乙女たちが戸惑っている。

　うふふ。先生の本心を気づいているのは、きっとわたくしと――。

　うふふふ。かわいらしいひと。

　

　

　◇　同日同刻　◇

　

「あの……瑞穂さま。あまりそんなにお召し上がりになると、お体に差し支えますよ？」

「わたくしはよいのです！　どうか、好きにさせてくださいましっ」

　わたくしは、卵の黄色とチキンライスの朱色のとりあわせが美しいオムライスを、まるで下男のようにほおばった。

　あさましいとは思っている。だけど、今はこうするぐらいが、ちょうどいい。

　となりで心配してくださっている、茜さま。ごめんなさい。

　銀座資生堂。

　こんなところでぱくつくのは、婦女子としてははしたない。

　だけど、今日は耐え難かった。

「おいたわしい瑞穂さま。あの、物知らずの野良猫のせいで、お心を煩わせているのね」

　何かといえばわたくしを持ち上げようとする、津喜子さまが、そっとささやく。

「それに薫子さまも薫子さまですわ。野良猫に知恵を貸すような真似を」

　津喜子さまと仲良しの澄子さまも、そうやって、わたくしの友人をそしる。

　ああ、困ったお二人。なんにも、わかっていない。

　「薫子さまは、瑞穂さまの幼馴染なんでしょう。どうして野良猫の肩を持つのかしら」

　薫子には、きっと全部見透かされている。

　あの性悪猫は、わたくしをからかっているに違いない。

　あの席で、床のしつらえをしたのは、わたくし。

　円相のお軸に、秋の七草の尾花と、秋明菊。その真意は、お月見だったのです。

　〇のお軸に、尾花――薄だなんて、だれがどうみても、お月見でしょう？

　

　わたくしは、そのしつらえに思いを込めていた。

　でも、次に見たときには、秋明菊が撫子にいれかえられていた。

　いったいどなたが？

　

　後から薫子にこっそり問いただしても「知らない」という。

　あの子が嘘をつくときのくせは、すっかり見抜いているけど、知らないのは本当らしい。

　先生の指導が始まると、あの子は、わたくしの真意に気づいてくれた。

　やっぱり、あの子はわかってくれる。

　だけど、薫子が余計なことを吹き込んだ。

　かわいそうな真穂。

　恥ずかしがって、お稽古が終わるまで、気が動転していたじゃない。

　なんてかわいそう。本当だったら、おけいこの後に、わたくしが二人きりで慰めてあげたかった。

　だけど、あの子は謙虚だから、片付け役なんて女中のような役を買って出てしまう。

　

　それにしても。なんでわざわざ撫子を。いったいだれが。

　

　――まさか。

　

　わたくしの目の前に置かれたバニラのアイスクリームが、まるで大きな月に見えた。

　

　わたくしは、そのアイスクリームに、大きくスプーンを入れた。