【解題編】すれ違う 答へあはせは 月の雲
新宿・高野フルーツパーラー。
御一新から少し後にできた果物商『高野商店』が経営する、甘味処。
わたくしのおばあさまの代から、何かあれば贔屓にしてゐる。
わたくしは、ショートケーキの上にあしらはれた、大きな葡萄にフォークを刺し、一思ひに口へ運んだ。
「薫子様。ずゐぶんとご機嫌がよろしいやうですね」
一年生の八重子さまが、淑女らしからぬ大口で葡萄を食べたわたくしを見て、目を丸くする。
田舎の方から出てきたかわいらしい子。父君は、確か材木商をされてゐるさう。
「ええ。わたくし、今日はちよつとだけ、童女になつた気分ですの」
「童女?」
蜜豆を口に運んでゐた美津子さまが、不思議さうな顔になる。
「ええ。ちよつとした悪戯をいたしましたのよ」
さう言つて、わたくしは、ほほ、と笑つた。
「円相だなんて。ホントは、真穂さまがおつしやつてゐたやうに、月なのに」
わたくしの一言に、周囲のみなさまが「えつ」と声を上げる。
「今日のお軸、普通に見れば、無限の変化と充足を示す、円相ですわ」
八重子様が、ぐつとわたくしの方を食ひ入るやうに見つめる。
この子は、田舎の出であることを、内心恥ぢてゐる。
だから、少しでも教養を身に着けたくて一所懸命。
そこがとても幼く見えて、とてもいぢらしい。
「でも、あの取り合はせ。どう考へても、お月さんでせう? だつて、
「……やつぱり」
八重子さまが、ひとりごとのやうに呟いた。
この子は、ご自分の素直な感覚をもっと大事にした方がよい。
「うふふ……それに、牧野先生も、ちよつといたづらつ子ですわね」
わたくしの大きなひとりごとに、周囲のみなさまが「?」となる。
「……お月見、したかつたのでせうね。茶菓も、まるでお月見団子のやうでしたし」
わたくしの言葉に、周りのいとけない乙女たちが戸惑つてゐる。
うふふ。先生の本心に気づいてゐるのは、きつとわたくしと――。
うふふふ。かわいらしいひと。
◇ 同日同刻 ◇
「あの……瑞穂さま。あまりそんなにお召し上がりになると、お体に差し支へますよ?」
「わたくしはよいのです! どうか、好きにさせてくださいましつ」
わたくしは、卵の黄色とチキンライスの朱色の取り合はせが美しいオムライスを、まるで下男のやうにほほばつた。
あさましいとは思つてゐる。だけど、今はかうするぐらゐが、ちやうどよい。
となりで心配してくださつてゐる、茜さま。ごめんなさい。
銀座資生堂。
こんなところでぱくつくのは、婦女子としてははしたない。
だけど、今日は耐へ難かつた。
「おいたはしい瑞穂さま。あの、物知らずの野良猫のせゐで、お心を煩はせてゐるのね」
何かといへばわたくしを持ち上げようとする、津喜子さまが、そつとささやく。
「それに薫子さまも薫子さまですわ。野良猫に知恵を貸すやうな真似を」
津喜子さまと仲良しの澄子さまも、さうやつて、わたくしの友人をそしる。
ああ、困つたお二人。なんにも、分かつてゐない。
「薫子さまは、瑞穂さまの幼馴染なんでせう。どうして野良猫の肩を持つのかしら」
薫子には、きつと全部見透かされてゐる。
あの性悪猫は、わたくしをからかつてゐるに違ひない。
あの席で、床のしつらへをしたのは、わたくし。
円相のお軸に、秋の七草の尾花と、秋明菊。その真意は、お月見だつたのです。
〇のお軸に、尾花――薄だなんて、誰がどう見ても、お月見でせう?
わたくしは、そのしつらへに思ひを込めてゐた。
でも、次に見たときには、秋明菊が撫子に入れかへられてゐた。
いつたいどなたが?
後から薫子にこつそり問ひただしても「知らない」といふ。
あの子が嘘をつくときのくせは、すっかり見抜いてゐるけど、知らないのは本当らしい。
先生の指導が始まると、あの子は、わたくしの真意に気づいてくれた。
やつぱり、あの子は分かつてくれる。
だけど、薫子が余計なことを吹き込んだ。
かはいさうな真穂。
恥づかしがつて、お稽古が終はるまで、気が動転してゐたぢやない。
なんてかはいさう。本当だつたら、おけいこの後に、わたくしが二人きりで慰めてあげたかつた。
だけど、あの子は謙虚だから、片付け役なんて女中のやうな役を買つて出てしまふ。
それにしても。なんでわざわざ撫子を。いつたい誰が。
――まさか。
わたくしの目の前に置かれたバニラのアイスクリームが、まるで大きな月に見えた。
わたくしは、そのアイスクリームに、大きくスプーンを入れた。
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