第4話

 一言絞りだすのが精いっぱいだった。


「どうして」

「ずっと言ってるじゃん。麻依のことが大切で、麻依の身体も大事にしてほしいから」


 政樹の目に浮かんだ表情が何なのか、ようやく形容することができた。彼は、憐れんでいるのだ。どうして私がこんなに必死なのか、理由を知っているのだろうか。


「俺は、無理強いなんてしない」


 淡々と呟かれたせりふの語意が頭に沈み込むまで、どのくらいの時間が経ったか、憶えていない。


 厚く夜空を覆っていた雲から、雨粒が滴り始めた。雫がアスファルトの色を点々と変えていくと同時に、私を駆り立てていたものの輪郭があらわになっていく。それは人の形をしていた。


「何、それ」


 誰にともなく、私は言った。喉に、強い反発が込み上げる。でも、ぶつけるべき相手が彼ではないということだけは、確かだった。


「私は好きだから差し出せるのに、何だかそれじゃ」


 口をついて出た思いは、情けないほど震えていた。ざっと降り出した雨が、髪や肩に叩きつけていく。


「私、今まで、大切にされてなかったみたいじゃない」


 朧に、遠雷が鳴っていた。




 あの日も夏で、雨が降っていた。


 体調が悪くて、会う予定をキャンセルしたあと、亮太が部屋を訪ねてきた。様子を見に行く、と言われても、ゆっくり休みたいと断ったのだが、彼には真意が伝わらなかった。


 戸口に現れた彼を追い返すのも気が咎めて、ひとまず上がってもらった。本調子でない頭で、ぼんやりと窓ガラスを伝う雨滴を眺めたのは憶えている。しかし、背後から抱きすくめられて、朦朧とした意識が途端に緊張へと振れた。


 亮太の腕は、私の身体に回されただけでは止まらなかった。服の上から、胸元の輪郭を確かめるように肌に触れていく。

 私は遠慮がちに言った。


「今日は本当に、具合悪いの」


 部屋に来たときはいつも起こることが、今日は起こらないだろうと思っていた。だって私は、約束を断ってまで休みたいと伝えているのだから。つまり、そういうことをする状態にはないのだと、理解してもらえたつもりでいたから。


 でも彼にとっては、身体を休めたいという私の意志は、気に留めるようなことではなかった。もっと、大事なことに比べれば。

 すぐさま彼が肩を強張らせたのが、肌を通して伝わってきた。怒らせてしまった、とこちらも肩をすくめる。


「麻依が好きだから来たのに」


 荒げられた声は、今にも泣きだしそうだった。


「俺の気持ちは無視かよ!」


 亮太が傷ついて泣き出すと、それ以上は何も言えない。先に傷つき、先に泣いたほうが被害者なのだから。苦しんでいる被害者をさらに追い詰めることは許されない。彼の態度が、そう言っている。


 こんなに俺は悲しんでいるのに。どうしてわかってくれないのだ、と。


 まだ日は沈んでいないはずなのに、外は暗かった。窓ガラスに移った私の顔は、血の気がないことを差し引いても、充分に虚ろな目つきをしていた。




「誰といても、最後にすることは一緒だと思った。恋愛感情を持った大人同士なら」


 渋川駅の軒先から、細い滝のように雨水が流れ落ちていた。黒い瓦屋根から、水の陰影が地面へといくつもの柱を描いている。

 駅舎の脇で雨宿りしながら、私は言った。雨音にかき消されそうな声に、政樹は辛抱強く耳を傾けてくれている。


「だから、途中の手順にこだわるのは何でだろうって思って」


 じっとこちらに注がれていた視線が、ふと外の雨に逸れたのを感じる。でもその視線に追い縋りたい気持ちは、不思議と湧いてこなかった。顔がこちらを向いていないときでも、彼の心は私の内面を向いている。何が私にとって最良なのか、という考えをもって。


「まあ、究極は――人と付き合うのは、独りが寂しいからかもね。快楽で気を紛らわして、長い人生をやり過ごす為に」

「うん」


 政樹にしては虚無的な考え方だったけれど、異論はなかった。身に覚えがあったから。寂しさを感じない人間がいたら、その人はきっと恋をしないだろう。少なくとも、その必要はない。


「でも、そういうメリットデメリットだけで一緒にいるのは、もっと寂しいんじゃないかとも思うんだよ。損得がないと、離れてしかるべきってことでもあるし」


 頷くしかなかった。だからこそ、あの頃私は、差し出し続けていたのだ。そうしなければ亮太は去っていくと、知っていたから。


「手順に意味があるっていうより、それを尊重する気持ちが伝わってほしいっていうか――うまく言えないけど」

「ううん。わかるよ、多分」


 雷が、ごろごろと遠くで轟いている。


「好きなのに何でだめなのって詰め寄られると、頭が真っ白になって、何も言えなかった。でも今思うと、別に私を好きなわけじゃなかった」


 誰が、とは言わなかったけれど、おそらく意味するところは伝わったと思う。政樹が懸命に避けようとしたかたちの人間関係に、ずばり陥っていた相手が、かつて私にはいたいうことを。

 反応しづらい話題に違いないのに、政樹は考え込みつつも口を開いてくれた。


「そいつにとっては、本当の気持ちだったのかも。嘘のつもりはなくて。まあ、そういう悪気のないクソガキが、一番たちが悪いけど」


 我知らず、苦笑が漏れた。政樹が誰かを悪しざまに言うのは、ひどく珍しい。


「友里にも言われたなあ。あと、早く別れなって」

「言いそう」


 久しぶりに、政樹の頬がふと弛んだ。つられて私の緊張も解けていく。同時に目からぬるい雫が伝ったけれど、雨で顔が濡れていたので気づかれなかったはずだ。


「なのに、別れなかった」


 ふたたび政樹が口元を引き締めた。続きを促す穏やかな沈黙を、雨音が埋めていく。


「切り出すといつも半狂乱で泣かれたからでもあるけど、でも――独りは嫌だったから」


 自嘲気味に笑みを浮かべたとき、稲光が瞬いた。ずいぶん遅れて、鈍い雷鳴が響く。その音に紛れてしまえばいいと思いながら、続きを口にした。


「寂しさをやり過ごしたいだけだったのは、私も同じ」


 政樹は、訊き返さなかった。聞こえている、と静かな目が告げていた。




 雨が止むと、ふたたび歩き続けた。眠気をこらえながら歩を進めていくと、東の空が白み始める。

 電車がないのをいいことに、私たちは線路の上を歩いていた。


 今日も暑くなる気配が、あたりに満ちていた。しきりに目をこする政樹は、すでにコーラもスプライトも飲み干している。


「すごく濃いコーヒーを入れたい気分だよ」


 まぶたの重そうな顔を覗き込むと、彼はあくびをしながら言った。つられてあくびをしながら、私もうなずいた。


「コーヒー、好きなんだね」

「まあね。でも、目指すコーヒーにはまだ、辿りついてない」


 徐々に明るくなる空に目を細めながら、政樹は唇を開いた。


「コーヒーの味が決まる要素、麻依も教わったでしょ?」


 同じく目をすがめながら、記憶をたどった。徹夜の脳に殴りこんでくる朝日は、帰り際にコーヒーへの情熱を熱弁する店長と同じくらい、遠慮なく暴力的だった。


「生豆と、焙煎と、抽出」

「そう。で、高品質な豆は、農園から直接でないと調達できない」


 店長がかつて言っていたことだ。焙煎と抽出は技術が勝負だが、生豆の調達は人脈やら何やらも持っていないとうまくいかない。


「お金貯まって、自分の出世にも先が見えてきたら、仕事辞めて焙煎と抽出技術の修行をしに行きたいんだよね。職場に知られたら困るから、ひとに言ったことないけど」


 すらすらと語られた夢は、いささか突拍子もなかったけれど、私は続きを聞きたくなった。考えてみれば、自分のことばかり喋っていた気がする。政樹が、あまりひとに言わない類の話題を打ち明けてくれたのは初めてだ。彼はずっと、聞き役に徹してくれていた。


「あと、理想の豆と農園を探しに行く旅に出てみたいけど――ひいた?」


 私はすぐにかぶりを振った。


「いいと思うよ」


 正直なところ、映画やらコーヒーやら、雅なものに興味津々の彼が、公務員という職に落ち着いたのが、不思議に見えていた部分もある。だから、前触れのない打ち明け話ではあっても、違和感はなかった。


「本当にできるか、わかんないけどね」

「先の話なら、ゆっくり作戦も立てられるよ」


 人生長いのだし、たくさんの時間をかけて準備したほうがいいこともある。でも今は、込み入ったことを考えるには、あまりに疲れすぎていた。二人とも。


「私の家に着いたら、とりあえず寝よう」

「そうしよう」


 政樹は一も二もなくうなずいた。


「何もしなくていいから」


 やや含みのある口調で言ってみると、ふむ、と政樹は訳知り顔で呟いた。


「そりゃ、よかった」


 言って彼は、左手を私へ差し出した。

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Long Way Home 丹寧 @NinaMoue

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