第3話

 政樹は戸惑いつつも大きく動揺はしなかった。私の勢いに押されてはくれないらしい。


「じゃあ、泊めない」

「は?」


 その場に突っ立った私をまっすぐに見て、政樹は大まじめに言った。


「麻依の家まで送る」

「私の家って――中之条に?」

「うん。歩く」


 友里に車で一時間かけて送ってもらった道のりを、歩いて帰ると言うらしい。呆気にとられた私は、声が出なかった。いったい何時間かかるのだ。

 しかし政樹は、決然とした足取りで歩き出していた。


「本気なの?」


 追いかけながら呼ぶと、政樹は確固たるしぐさでうなずき、左手を差し出した。熱帯夜の夜気に、彼の掌は少しだけ汗ばんでいた。




 途中立ち寄ったコンビニから、政樹は一分もしないうちに出てきた。両手には、コーラとスプライトが握られている。

 容器の表面から滴る水滴を、食い入るように眺める私に、彼は訊いた。


「どっちがいい?」

「どっちも、あげる」


 一瞬固まった後に、ぎこちなく答えた。途端に政樹が首をかしげる。


「私も、買ってくる」

「炭酸、苦手だった?」


 やや切実な声がかかって、私は踏み出しかけた足を止めた。ここまで来ると、隠すのも不自然だ。好き嫌いの多い奴だと思われたくないけれど、買ってもらったものを理由もなく拒むやつだと思われるよりはましだ。

 私は小さくうなずいた。


「ごめん」


 嫌な気持ちになっただろう、と半ば首をすくめた。ところが政樹は、拍子抜けするほどあっさりと言った。


「そういえば、今まで飲んでるとこ見たことなかったね」


 今まで政樹の前で、炭酸飲料しか選べない状況に身を置いたことがなかった。店に入れば、炭酸の入っていないものだけを選んできた。それでしのいできたのだが、とうとう化けの皮がはがれるときがきた。よりによって、今。


「せっかく買ってくれたのに、ごめん」

「いや、もう一本買わせて」


 コンビニの暴力的に明るい照明に足を踏み入れると、政樹があとについてきた。不機嫌になっても無理のない状況なのに、彼はとてつもなく律儀だ。あまりに丁重な扱いすぎて、不思議な気分になる。同時に、これほど慮ってくれるのに、関係を進展させたい私のことは何としても拒みたいのだと思うと、悲しくなる。


 いちばん最初に目に入ったスポーツドリンクをレジに持っていくと、止める間もなく政樹が電子マネーで決済した。本当に、徹底して律儀だ。


「ごめん、ありがとう」

「全然」


 二本の炭酸飲料の結露で、手を水浸しにしながら、政樹は呟いた。本心からのようだった。彼が苛々しながら吐き捨てるように何かを言うのを、見たことがない。私がどれだけ失点をしても、政樹に手間をかけてしまっても、なぜか彼は、それをだしに恩を着せたり、マウントを取ったりしないのだ。


 こういう人がいるんだ、と何度目かに感心した。ドラマや映画でしか会えないと思っていた、終始優しい人。


 コンビニを出ると、二人で吾妻線の線路を辿りながら歩いた。車は時折通るものの、歩行者はほとんどいない。明るすぎる照明のもとを離れると、夜が途端に、さっきの何倍も暗く感じた。街灯の白っぽく頼りない明かりのもとに、蛾やこうもりが群がっている。

 穏やかな沈黙が続いたとき、私はふたたび一石を投じてみることにした。


「何で据え膳食ってくれないの?」


 コーラに多少むせながら、政樹は呼吸を整えた。


「焦るのはよくないよ」

「焦ってなんかない」

「じゃあなおさら、今日じゃなくたっていいでしょ」


 放った言葉を鮮やかに返されて、ぐっと答えに窮した。政樹は穏やかに私を注視した後、慎重に言った。


「麻依が炭酸飲めないってことも、まだ知らないような奴なんだよ」

「そんなこと――」


 身体でつながることに比べたら、そんなの些細なことだ。だって、そうじゃなかったら、どうして世の男性の誰もかれもが、関係を持つことにこれほど執着するというんだろう。どうして彼が、二人ですることのなかで、何よりこれを優先させていたというのか。

 でもその疑問を、政樹にぶつけるのは不適切だ。


「なんでそんなに紳士なの?」

「紳士じゃないよ。麻依に炭酸買ってきちゃったし」


 あっけらかんと言って、彼はあらためてコーラに口をつけた。

 嘘だ、と思う。政樹ほど紳士的な人物に、会ったことがない。紳士だからこそ、私が差し出せるものを差し出したいと思うのに――たとえ、痛みがあっても。でも、痛いことは本質ではないのだ。それでもそうしたいと思う相手がいることが、重要なんだから。


 それに、今後も政樹と長い時間を過ごすのだとしたら、私とそういうことをするのが不快ではないと、早くに思ってもらいたいのだ。できれば、声に出してそう言ってほしい。とても、大事なことなんだから。


「もっと、それ以外のことで麻依をよく知ってからにしたいから」

「二年も同じバイト先だったのに?」


 政樹が大学院、私が学部の後期課程の二年間、ずっと同じバイト先にいた。


「でも、麻依が俺のこと認識したのは、友里ちゃんに紹介されてからでしょ」


 正直なところ友里に言われるまで、政樹のことは顔と名前が一致していなかった。遅番のシフトに入らない私は、交代のときに挨拶するだけの彼の顔と、店長がよく話題に出す名前とを、結び付けられなかった。


「そりゃ、そうだけど」


 ゆっくりと頷いた私に、政樹はかすかに苦笑してみせた。


「俺は最初に会った時、すぐ友里ちゃんに麻依の名前を聞いたけど」


 不意打ちで、今まで知らなかったことを聞かされて、どきりとする。友里も政樹も、そんなことを言ったことはなかった。


「初めて聞いた」

「初めて言ったから」


 あっけらかんとした口調が、妙に温かい。力のこもったところのない口調で、自然体で接してくれるところが、たぶん政樹のまとっている安心感の基盤なのだ。


 私はずっと、講義のない日や休日の、早番のシフトにばかり入っていた。遅番にも入りたかったし、店長からも入ってほしいとほのめかされていたけれど、夜に出歩くことにいい顔をされなかったから。


「二年前に、友里に聞いたの?」

「うん。でも相手がいるって聞いて、邪魔しちゃいけないなって」


 いかにも彼らしい清廉な回答に、かすかに息をついた。どうしてもっと早く、彼に会えなかったんだろう。


 徐々に市街から離れるにつれ、車が少なくなっていく。街灯の数も減り、道の脇にある木立のざわつく音が目立つようになってきた。あたりは充分に暗いのに、星は見えない。雲の向こうに隠れているだけで、いつものように星はあるのに。

 私と政樹を二年も隔てていた雲は、いったい何だったんだろう。


「知らない間に見られてたって聞いて、気持ち悪いかもしれないけど」


 黙り込んでしまった私を慮ってか、政樹が言った。私はゆるやかにかぶりを振る。


「ううん。――でも、据え膳を食いたい気にもならないの?」


 嫌な顔をされる覚悟で訊いたものの、彼は蒸し返しにも苛立つ様子はなかった。


「そりゃ、あるよ。でも麻依のことは大事にしたいから」

「大事にしたいなら、受け入れてくれたっていいのに」


 平静を保つ政樹とは対照的に、私は拗ねるような口調を隠しきれなかった。


「私にとって、いちばん大事なものを政樹に受け入れてもらいたいと思ってるんだよ。でも受け取りたくないんでしょ」

「それは――」

「痛くたって、多少具合が悪くたって、それでもいいの」


 彼の眉が、かすかに顰められたように見えた。一瞬のことで、しかもちょうど街灯の光も弱いところでのことだったので、確かめる間はなかったけれど。


「麻依が本当に納得できるときでいいんだよ。無理してほしくない」


 声音もまた、少しの厳粛さを帯びたようだった。今までにない、深刻な語調だ。でも、こちらも簡単には引き下がれない。


「無理じゃない。政樹だったら」


 そうだ。相手が政樹だから、そうしようと思うのだ。決して誰にでも、こうして迫るというわけじゃない。私だって真剣なのだから。


 おもむろに彼が立ち止まった。街灯の無機的な白い光に、神妙な表情が浮かび上がる。ややこわばった口元に、かすかに顰められた眉。複雑な何かを絡めた視線が、私に向けられている。苛立ちではなかった――どちらかというと悲しげで、徒労感とでも言うべきようなものが漂っている。


 そうじゃないんだ、と。


 私が差し出しているものは、政樹に望まれてはないのだろうか。


「麻依は納得してるんじゃなく、納得するのを諦めてるだけじゃないか。今はするべきじゃないよ」


 静かな声に、突き放すような色はなかった。ただ私にとっては、突き放されたように感じるに充分なせりふだったというだけだ。

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