海辺の親衛隊

をはち

海辺の親衛隊

茨城県の海辺に、無料で手に入る家があった。


いわゆる「0円ハウス」、空き家バンクの一種だ。


野村宏樹はそこに運命的な物件を見つけた。


海の潮風が吹き抜ける、鄙びた土地に建つ二階建ての古い家。


タダとはいえ、リフォームも清掃も施されていない「そのまま」の状態での引き渡しだった。


家に至る私道は、竹藪に完全に飲み込まれていた。


鬱蒼とした竹林が道を覆い、陽光すら遮る。


業者に見積もりを依頼すれば、100万円近くかかると言われた。


それならリフォームに金を使った方がマシだ。


時間だけは有り余っていた宏樹は、毎日ノコギリを手に竹を切り開いた。


汗と埃にまみれ、2カ月かけてようやく家にたどり着いた。


だが、玄関を開けた瞬間、宏樹は息を呑んだ。


一階は廃墟そのものだった。


割れた窓ガラスから吹き込む風が、カビと獣の臭いを運ぶ。


部屋の空気は異様に重く、まるで何かがそこに溜まっているかのようだった。


奥に進む気にはなれず、宏樹は踵を返した。


一階は放棄しよう。ガレージにでもすればいい。


外付けの階段を上り、二階に足を踏み入れると、驚くほど状態が良かった。


動物の侵入もなかったようで、畳は奇跡的に湿気を帯びていない。


ゴミ一つなく、まるで誰かが丁寧に引っ越しを終えた後の部屋のようだった。


「この家の持ち主、綺麗好きだったのかもな」と宏樹は呟いたが、どこか違和感を覚えた。


一階の荒廃と二階の清潔さ。


その落差が不自然だった。水道をひねると、赤錆を覚悟していた宏樹の予想に反し、透明な水が流れた。


追い焚き機能はないが、湯船にお湯を張ればまともな風呂に入れそうだ。


ところが、湯船にお湯を貯めようとすると、信じられない光景が広がった。


蛇口から出るお湯が、まるで意思を持っているかのように横に直角に曲がり、湯船に落ちることを拒むのだ。


ある時は天井に向かって弧を描き、ある時は壁を這うように流れた。


「まるで湯船に溜まりたくないって言ってるみたいだ」と宏樹は苦笑したが、背筋には冷たいものが走った。


「まあ、汗拭きシートで十分だろ」と自分を納得させ、宏樹はその夜、畳の上で眠りについた。


その晩、宏樹は夢を見た。昭和の香りが漂う、どこか懐かしい世界。


そこには「鹿嶋直子」という名のマイナーなご当地アイドルがいた。


愛らしい笑顔で海の家のマスコットガールを務める彼女と、彼女を支える巨漢の男。


男は相撲取りのような体躯で、鹿嶋直子の「風呂番」を務めていた。


海の塩でべたつく彼女のために、風呂を沸かし、入浴剤を入れ、部屋を清潔に保つ。


そのやりとりが夢の中で繰り返された。


「直子、お風呂沸いてるよ」


「ありがとー! やっと塩気が取れる!」


青春の輝きに満ちた、温かな光景だった。


だが、どこか切なさが漂う。


宏樹は夢の中で、男の名を断片的に耳にした。


だが、なぜかその名を覚えることを拒んだ。


目が覚めると、宏樹はしばらくぼんやりとしていた。


気になってスマホで「鹿嶋直子」を検索すると、確かに彼女は昭和初期のご当地アイドルだった。


だが、売れ始めた矢先に飛行機事故で亡くなっていた。


巨漢の男の名前も調べようとしたが、なぜか指が止まった。


胸の奥に、そこまで調べる理由は無いと――


宏樹は湯船に向かって正座し、なぜか自然に頭を下げていた。


「風呂番、ご苦労様です」と呟きながら。


翌日、帰り支度を整え、一階を改めて見渡した。


すると、壁に貼られた色褪せたポスターが目に入った。


そこには、若かりし鹿嶋直子の笑顔があった。


ポスターは一枚だけではなかった。


あちこちに、まるで選挙のように貼られていた。


時間の流れは無情だ。鮮やかだったはずの色彩は褪せ、彼女の笑顔はどこか儚く見えた。


宏樹は気づいた。二階が綺麗だった理由を。


あの巨漢の男が、今なおこの家を守っているのだ。


鹿嶋直子が戻る日を待ちながら、風呂を沸かし、部屋を清める。


まるで時間が止まったかのように――。


私道へ戻ろうとしたその時、宏樹の前に凄まじい殺気が立ちはだかった。


藪の奥から現れたのは、見たこともない巨大な猪だった。


その目は血走り、牙は鋭く、宏樹の体は恐怖で硬直した。


猪が突進してきた瞬間、宏樹は死を覚悟した。


だが、その時、宏樹の前に、ふわりと白い影が現れた。


まるで巨大な風船のような、柔らかくも力強い存在。


ベイマックスを思わせるその影は、猪を受け止め、軽々と投げ飛ばした。


振り返った影は、宏樹に親指を立てると、静かに消えていった。


それから宏樹は、その家に通い続けた。


一階を綺麗にするために。


ポスターを丁寧に剥がし、アイドルの収集家から買い取った、鹿嶋直子のポスターをかわりに貼った。


少しずつ家を元の姿に戻していった。


だが、夜になると、風呂場から水音が聞こえる。


蛇口から流れ出るお湯は、依然として俺が湯船を使うのを拒み、壁を這い、天井を彷徨う。


そして、時折、宏樹はあの巨漢の気配を感じる。


風呂番の男が、今なおこの家で鹿嶋直子を待ち続けていることを。


宏樹は決めていた。


この家を、かつての活気ある場所に戻すのだ。


たとえ、それが幽霊の望みだとしても――。

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