キャリブレーションシンデレラ

荒木明 アラキアキラ

第1話

 金属と金属が、産毛を触って互いの頬をかすめていく。凹凸がひやりとはまり、終ぞその境は分からなくなってしまう。キャリブレーションが完了した。


「ハチマル、それ終わったらお昼だろ。一緒に食べに行こうぜ」

「そうだな、トウヤ」


 907年、サイドベイの町工場。俺たちはアズマトで使われ、劣化した計算機器の精密性を取り戻す作業、つまりはキャリブレーションを仕事としている。朝、七時から十二時までに500個のキャリブレーションを行い、一時間の昼休憩の後、十八時までに500個のキャリブレーションを行う。一時間に100個、一分で1.66666667…とにかくきっかりそれだけ。それより低いことも高いこともない。


「ハチマル、首の音がおかしいぞ、計算機のキャリブレーションの前に自分の体も点検した方がいいんじゃないか」


 食堂へ向かう廊下を歩きながら、俺が首を左右に曲げて凝りをほぐしていると、トウヤはその音に顔をしかめた。俺はトウヤだって同じだろ、と言って、次は指の関節を一つづつ、曲げていく。サイドベイは巨大な歯車だ。金属が軋む音がする。

 食堂に入り、俺はいつもの焼き鮭定食、トウヤは日替わり定食の食券を買った。席に座ると、椅子がバーコードをスキャンして、目の前の机が開く。熱と塩の匂いを立てている。焼き鮭定食はさながら川を登る鮭のようにこうして毎日下から提供されるのだ。


「あれ? アジだ」


 俺が素っ頓狂な声をあげると、トウヤは今日の定食メニューだった回鍋肉に持っていく箸を止めて、こちらを見た。プレートの上には、水と、白米と、味噌汁と、漬物と、アジ。鮭があるべきはずの大皿にアジが堂々とのっている。


「食券買う時押し間違えたんだろ、アジ定食と。馬鹿だなぁ、これで連続鮭記録ストップだな」

「押し間違えるわけないだろ、こっちは748日間ずっと焼き鮭定食食べてんだぞ」


 狼狽える俺に、トウヤは笑う。鮭という行く当てを失ってしまった箸で突いてやりたいところだ。どうしたものか、鮭以外食べたくない気持ちと、食品ロスを生み出すわけにはいかない気持ちが拮抗している。

 しばらくアジと睨み合っていると、触覚が脳髄で光った。


「あんた、名前は」


 肩に置かれた手を見る。猫の耳の内側、浜辺に寄せた貝の内側、鮭の腹の内側、そんな色をした爪が白く細い指に付いている。手首から真っすぐと腕が伸びていて、俺と同じ作業着を着た体。


「ハチマル…」


 瞳の色が、爪と同じだった。口をきゅっと結んで、眉もつっていて、明らかに不機嫌な彼女は、氷水のようなつんとした美しさがあった。


「6と8なら、やっぱりそうね。そのアジ定食、私のなのよ。あなた、鮭頼んだでしょ」


 彼女は隣の席に出ているプレートを指さした。確かにそこには焼き鮭がある。


「私が食券を間違えるなんてありえないのよ、723日間ずっとアジ定食食べてるんだから」

「俺もだ」


 彼女の瞳、グラフィックが殴られて、ぐらぐらするような感覚。淡くにじむその奥に、決して揺れない一筋の光があって、鋭く俺を見ていた。


「いや、その、俺も鮭定食748日間ずっと食べてて」


 俺はばつが悪くなって、後頭部を掻いた。肩がぎぎと鳴った。自分でもその音の不快さに目を瞑る。トウヤの言う通り点検をした方がいいな、なんて目の前の彼女から思考を飛ばそうとする。


「飽きないの? まぁいいわ、交換してちょうだい」


 冷たく言い放たれた彼女の命令のままに、俺は大皿を交換する。鮭が自分の手元に帰ってくる。初めて、暖かくない焼き鮭を見たかもしれない。どうせなら焼かないものを見たかったとも思った。火が通った皮は彼女の瞳とはもう程遠い。少し硬くなってしまった身を箸でつついてほぐし、口に運ぶ。トウヤは回鍋肉がべたべたについた口で、飽きないのって、あの人も700日もアジ食べてんだろ、同じじゃねーか、やべぇなお前ら。といった調子でずっと喋っている。軋む肩に、彼女の咀嚼を感じている。鮭とアジでは、歯を立てる音、唇の開く音が全く違うことを知った。

 食堂から出て、一歩を踏み出した時、膝が砕けたのかと思った。つい3600秒前に通った道が、まだダウンロードできていない新ルートみたいに、がたがたに穴だらけに見えた。穴だらけだったのは俺の視界だけらしい、平然と歩くトウヤに悟られないよう、真っすぐ歩こうとする。穴が俺を呼んでいた、奈落の底に蜂蜜の水溜まりでもあるんじゃないか。痛いほどに鳥肌が止まらない、肺の底を掴まれているように苦しい、全身が軋んでいる。

 有史以来そうであったように、サイドベイの鐘は定刻通りに鳴る。俺とトウヤはそれぞれの仕事場に戻る。ベルトコンベヤーに乗って、流れる金属片。一度俺に掬いあげられて、削られて、アズマトまで流れていく。使われて、また汚れて、流れて、戻ってくる。鮭と同じ、終わることのない永久の歯車。この世界はもうずいぶんと前にズレを亡くした。

 一つの金属片から金属片に目を動かす間に、彼女の瞳を探している。金属片の表面を撫でる肌で、彼女の息を探している。


「キャー!!」


 彼女の氷柱のような叫び声を聞いた時、手に持っていた金属片を落とした。ラインを乱したのは初めてだった。警告の赤いランプは視界の端で片付けた、俺を嘲笑っていた。俺は声のする方向へ走り出していた。切断機の前で、彼女は右足首を抑えている。そこから先の右足はなかった。俺たちに赤い血は流れていない。ただ、透明な断面から赤い配線が垂れていた。彼女の肩が、震えていた。彼女の涙が落ちる。断面はガラス玉のように光った。管理室からのびる階段を、監督が鞭を持ってかつかつと降りてくる。


「替えのある足で騒ぐな」


 鞭を持った右手の肘が引き上げられ、曲線が背景を断つ。彼女の諦めた瞳、バッテリーが膨張して、俺の心臓がはじかれる。


「やめろ!!」


 俺は監督の腕を掴んで、手首を反対方向に曲げた。監督の体格は俺よりも大きいが、状況が飲み込めずにされるがままになっている。腹に蹴りを入れると、すてんと転げた。同僚たちは何の反応も示さない、ただ黙々とキャリブレーションをしている。ただ二つ目が、見開かれて、こちらを向いている。


「こっちだ」


 俺は彼女の左手を取って、走り出した。彼女は右足を引きずって、電飾を床に残す。背後で監督が起き上がり、非常ボタンを押した。俺のミスで点灯した赤いランプと、非常ボタンのブザー音とがリズムを刻んでいた。


「なんでっ、こんなこと」


 自分の体を誰が作ったのか知らないように、自分の体が今何に動かされているのか、俺には分からなかった。彼女の滑らかな爪の感触だけが唯一確かなものだった。

 作業場のシャッターが下りていく、その様は彼女の足を切り落とした切断機に似ている。彼女の腕を引っ張って、彼女の体をシャッターに滑り込ませた。彼女の首筋に、掠れたバーコードが見える。下に振られている番号は1908760。俺の首のバーコードも劣化してしまっているのだろう。60と80なら読み取りに失敗してしまうのも納得だ。

 彼女の名前は、ロクレイかな、ムゼロかな。


「逃げろ」


 彼女の体がシャッターの外に消えた。彼女と繋がっていた俺の手も同じくこちら側からは見えなくなる。

 監督が走ってくる振動が、腹部に伝わる。彼女の爪も瞳も見ることはできない。声も聞こえない。手の甲に、何かが触れた。 

 金属と金属が、産毛を触って互いの頬をかすめていく。凹凸がひやりとはまり、終ぞその境は分からなくなってしまう。

 彼女の唇だった。


 俺は監督に捕らえられて、鞭を打たれた後、自室に返された。ポッドに入り、消灯を待つ。いつも作業をしている午後の時間はこれだけ長いということを初めて知った。しかしそんな時間も、彼女が今どうしているかを考えるとすぐに溶けていった。

 午前零時の鐘が、定刻通りに鳴った。隣のシチクのポッドには緑のランプ、俺のポッドには赤いランプが灯った。

 ポッドの表面には文字が流れている。


『人格矯正〈キャリブレーション〉中』


 907年、サイドベイの町工場では奇妙な噂が流れる。無駄を省いた完全生命体、アイボットが、前時代の生命体である人類のように、非合理的な感情を持つことがあると。

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